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セーブする心/高校受験の勝機/都立中受検の勝機/都立小石川の難化/都立桜修館の人気

2020.08.08

◎8月指導に際してのお願い

 必ずマスクをつけてください。指導時間中に外さないでください。

 熱があるとき、体調がすぐれないときは、必ずお休みしてください。

 家族に熱が出た場合は、本人が元気でもお休みしてください。

 発熱等のご連絡について、例えば、高熱でお休みするという連絡をいただいた場合、必ずその後の経過を後日ご報告ください。

◎新作「角度・面積・体積の総合的研究」
 面積を軸にした入門テキストとして長く「新面積入門」を使ってきたが、相似、扇形など必要と思われる問題を取り込んだため、子どもたちからは、難しいという声が多く、「先生、これは入門じゃないですよね、レベルが高すぎます」と文句を言われできた。新しいのを執筆したいと思いながらもなかなか時間が取れなくてそのままにしてきたものだが、このコロナ禍により夏も短期間にようやく1コースを組めただけで時間ができた。それでこれまで手を入れてなかったところに、手をいれることにした。角度、面積、体積を総合的に扱う、入門書の執筆にとりかかった。「未完」とあるのは、これから書き足していくことを前提に、区切りのいいところで一旦テキストにして、配布したためである。

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◎勉強をセーブする子は受からない
 そういう子ほど白旗をあげる、直前逃亡が多いのもこのタイプである。
 勉強をセーブするという子がいます。例えば、課題は少なめにとか、集中指導は少なめの時間をとか、疲れたのでお休みしますとか、こういうタイプは受からない。その延長で、お盆や年末年始、習い事、稽古事など理由さえあれば躊躇なく、勉強をセーブする、あるいは体調不良という理由でよく休む。何度も言うが、27年桜修館合格者は、2年間の指導で、休んだのは、2回だけ、インフルエンザと高熱の風邪のときだけだった。いずれもやむを得なかった。それ以外で休むということは一切なかった。勉強は追い求め出したら止まれない、セーブするという精神がわたしにはわからない。セーブしながらそれでも受かるという精神がありえないのだ。そもそも入試は競争ということを忘れている、というか競争という現実から目を逸らしているとしか思えない。競争というが、その実質は生存競争であり、大袈裟と言われても、生死をかけた競争なのだということを敢えて言いたい。試験というのは、何も財産も天分も持たない、人間にとっては、唯一未来への扉なのである。試験を受けなくても生きていける? 食べていくだけならできるかもしれない。しかし、私たちは、生きるということへの確かな保証を求めているのだ。無保証の世界に自ら身を投じて行くことを避けようとするのは、生存法則の当然の選択である。つまり、試験は、生存競争そのものだ。
 セーブするという発想の本質は、現実から目を逸らすことにあり、そういう甘えた精神を培養してきたのが、過保護にほかならない。
 親の教育とは、子の自立心を芽生えさせ、自立させるまでの訓練でなければならない。過保護というのは、子をペットとして扱うようなものだ。ペットなら飼い主が死ぬまで面倒を見るけれど、子は一生親から面倒を見てもらうことは通常はできない相談である。親はいずれ年老いてやがて死ぬ。子は確実に残される。歳をとった子が飼い主に先立たれたペット状態になる。
 子がやがて独り立ちして生きていく、これがノーマルに決まっているのだ。だったら独り立ちできるような育て方、教育をしてこないでどうするのだ。甘やかすのは、親があなたの面倒をずっとみる、という態度にほかならない。親こそ現実から目を逸らしている。甘やかすというのは、今は多めに見る、今だけ、ということなのかもしれないが、親が子にセーブすることを植え付けてどうするのか。
 自らセーブを言い出す子というのは、実は、親のセーブする心を受け入れているだけなのだ。子は親が自分にセーブする、甘やかす、ということを敏感に見抜いて、今度は、自らセーブを主張するようになる。わかりきった流れである。
 もし親が辛抱する、耐えるという教育を施してきていたならば、子は決して自らセーブしましょ、みたいなことは言わない。むしろさらに辛抱する、つまり勉強に打ち込む、はずです。
 親の何気ない言動が子の心を緩める。ああ、この程度なら手を抜いてもいいんだ、と親の心の隙を見透かす。子というのはそういうところはなかなか抜け目がない。親の矛盾した言動を見逃さない。
 さらに、子は自分を悲劇の主人公とすることが、親を動かすこともちゃんと知っている。親は子の涙ながらの訴えに簡単に心を動かす。理性はない。ほとんど感情で動くのだ。過保護の親は自分の子を冷静に見ることができないのだ。
 こう見てくると、小学校の先生というのは、大変な苦労だな、と思う。基本的に、自分の子に苦労させることが教育になると考えていた昭和期の親とは違う、過保護世代の親を相手にするのは、つまり、教育というものが、わかっていない親を相手にするのは、本来不可能な話しだったのである。
 最近の子は、自己評価の高い子が多いのは置いておくとして、それ以上に、自分の子の評価が高い親がやたら多い。が、現実は、いつも冷静に事実のみを突きつける。過保護な親ほどうまくいかないのを他人のせいにするものである。過保護というのは、身びいきであり、どうしても判断の軸は、最初から傾いている。この親の偏った精神構造が子の教育にどのように影響するのか、敢えては書くまい。

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