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2018.06.14

 おはようございます。6月もたちまち月半ばに達せんとしております。このところ凌ぎやすい気候が続き、ともすればひんやりとした空気が身体に毒を忍び込ませます。油断をするとこの空気をに便乗してウィルスが忍び入るしかけになっております。

 竹の会では今年仮の入会を認めた子たち、正規の入会を果たした子たちが入会して3か月前後が経ちそろそろ竹の会にも慣れてきたこともあるのか、やや弛みがちで勉強の緊張感からか息抜きの性向が目立つようになりました。指導室で待つ間の権利とでも思ったのか、おしゃべりに夢中で指導に支障が出ることもあります。仮合格者についてはもちろん一応は試験に合格して入会したことになってはいても、指導の進捗がはかばかしからずという状況が続けば、このまま指導は続けられまい、そういう苦渋の選択の日が来ないことを祈る日々です。特に、勉強熱心な子については、なんとかしてやりたいという思いが常に私を支配しています。仮合格者については、小4早期の入会であればある程度気長に指導することもできるのですが、小5入会者につきましては、それも限界があると考えております。そういう意味でもこの夏の勉強が問われるのであろう、と考えております。夏の集中した指導でも進捗なしとなれば指導は打ち切りとします。

🔵不足した、足りない環境こそが、思考を伸ばす

 制約、制限が、子の潜在する思考力を引き出す。 金持ちのボンボンは、わがままで我慢が利かず、感情で動くから気分で好き嫌いで判断する。やたら威張り散らす。これは、金持ちの我儘お嬢様も同じで、こういうのが稼業を継ぐと、家業を潰すことになっている。 二宮尊徳は、貧困の中から勉学に励み成功する、この型のでっち上げ成功談なら山ほどある。まあ、二宮尊徳の話しは、眉に唾をつけて聞いたほうがいいけれど、この比喩には、人間形成の本質をとらえる、何かがある、 とは思っている。昨今の過剰なまでの構い過ぎとか、過保護、甘やかし、そういうものを見ていると、いやそういう育てられ方をした子どもたちが、どのような人生をたどっていくのか、見てきた人間の一人として、たいていはろくなことにはなっていない、始末がわかっているだけに辛辣な表現になってしまう。我が子はかわいい、だから厳しくできない。その姿勢がもたらす、子の不幸は、あまりにも悲惨であり、親がなすべき教育を果たさなかったことのつけは、あまりにも甚大である。そういう子が、 社会に出て、会社に入るということは、会社の支配に服するということは、いやその前に、社会の支配に服するということに、自己を律するということを知らない、持ち合わせない子たちが、どのようなことになるのか、と危惧せざるをえない。あまりにも自明なことではある。この悲劇に、そのもたらす悲惨なあまりにも劇的な没落、崩壊にまさに人生の本質を見る思いである。 自己を律せられない者が、どうして他に律せられることに服し得ようか。

🔵夏のために課題をまとめて請求することはできません 。

 課題は通常の指導を補完するためのものです。家庭学習を補完指導するものです。 夏期には、夏期の指導メニューがあります。そもそも夏期という激務期間の 添削が不可能なのです。

 夏期中は課題はお休みです。ただし、小3~小5につきましては、現在夏期のための補充教材を準備中です。

🔵夏期の指導の進捗によっては、9月以降の指導をお断りする場合があります。

 9月以降の指導が無理と判断した場合は、8月をもって指導を終わります。どうか、ご承知おきください。

🔵退塾の通告

 課題の提出がない、つまり家庭学習がない、入室時刻が遅い、つまり常習的遅刻、つまり指導の責任が果たせない常況にある。課題と関係なく、家庭学習時間が皆無と推測される徴憑が顕著である。例えば、レジュメが、前回指導の際、終わったところから再開しているなど、また、指導の進捗が捗々しくない、例えば、竹の会の基本的な指導レジュメさえも理解するのが困難と判断される場合など、につきましては、6月中旬以降に、退塾の通告をすることになっております。要は、指導そのものが進められない状況にある子につきましては、退塾をお願いすることにしております。 どうかご了承くださることをお願いいたします。

🔵渋谷B ないし夏期B 外部生の募集

 2名を受け入れ予定です。詳細につきましては、HPのお問い合わせフォームからお問い合わせください。

🔵夏期(8月)の申込は6月のみ

 申込がない場合でも、特に、お知らせはいたしません。そのまま申込なしとして扱いますのでご注意ください。過去に申し込んだつもりになっていたという親御さんもいまたのでご注意ください。

🔵国語対策

 読む力がない子に、授業が聞き取れるわけがない。そういう子が大手に行って、授業を受けるなどということがそもそもあり得ないことなのである。読む力がない子に作文が書けるはずがない。まず、読めることである。読むことが、考える、基本である。読めない者にそもそも思考など存在しないのである。 教科書も読み取りのできない子が、そもそも授業を受ける、つまり聞き取ることなどありえないことだったのである。 国語は、地道な読む訓練が、下地である。そういう基本が、特に 大切な科目である。というか、国語というのは、読み取りということでは、すべての科目の基礎であり、実際にも、算数がわからないという子のほとんどが、問題の国語的意味を読み取れないだけであるということが、ほとんどなのである。 理科や社会にしても、教科書が読み取れないから、できないというのが、ほんとうのところである。 それから、男の子に多いのが、物事を単語でしか表現できない、問われても、単語を一言、話が繋がらない。これに対して、女の子というのは、話しにストーリーがある。問いに対してもストーリーを書く。会話もちゃんと文になっている。だから男の子は、作文が書けない。断片的に単語を羅列するだけで、 文が書けない。もっと読めよ、と言いたくなる。これまで音読をどれだけやってきたのか、小説を読んで、楽しめる、そういうこととは、無縁の生活をしてきたのなら、そういうことになる。

 字にしても、読む訓練にしても、小学低学年のとき、特に、小1のときが、勝負で、ここでタイミングを逸したら、もはや取り返しがつかない。共稼ぎが一般になって、お母さんが子どもの字を書くのをじっと見ているなどということはできなくなってきたけれど、それでも時間が少しでもあればそういう時間をとらなければ一生まともな字が書けないことになる。音読にしてもまじめに毎日同じ単元を10回繰り返しながら毎日続けていくことが、どんなに大切なことか。

 昨今の親は、いろいろと習い事や稽古事には熱心で、中には早期英語と言うのか、英語塾に通わせたりと、いやいや柔道、その他のスポーツに熱心な親もいますが、そういう子たちが、まともな字も書けないというのは、まともに読むこともできないというのは、いったいどうしたものでしょうか。優先順位を取り違えたという以上に、教育の本質のところをはき違えているような気がしてならない。子に「律する」ということを躾けることを実践する親は少ない。欲しがる物をどんな高価な物でも買い与えるというのは、子の大切なものを奪うという犠牲において、存在しうるものであり、ある行為が必然重要な行為と表裏に実行されるということは知っておかねばならない。

🔵制約があるから子は思考力を伸びていく

 なにもかも買い与えるということは、子を無能力化する教育を実践していることにほかならない。広い自分の部屋、豪華な机、豊富な文具、贅沢な鞄、等々、バカを作るには十分な装備である。机がないから何か台を探す、文具が質素だから大切に使う、質素なノートだから大切に思う、すべて「ない」から、「少ない」から、「足りない」から、大切にし、足りなければなんとか工夫をして凌ぐ、そういう頭のはたらきかたを必然的にするようになる。子どもというのは、「制約」というもっとも本質的で必須の躾け、教育の方法、それは古来から引き継がれてきた、教育法、が、必須なのである。

 制約が子を伸ばす。制約が子の思考を引き出す。制約が工夫を呼び覚ます。制約があるからその制約の範囲内でなんとかしようと、何とかしなければならないと、あれやこれやと頭をはたらかすことになる。解説の充実した問題集や参考書がよくないのは、思考を制限するからだ。何でも買い与えられている子どもというのは、制約がないから、なんとかしようという工夫、つまり思考の端緒がない、つまりは思考そのものが「ない」「はたらかない」のである。人は「ない」ところから、「欠乏した」ところから、進化してきたのである。教育というのは、何か1つポンと与えておいて、後は自分で考えて見ろ、なんとかしてみろ、ということでなくてはならない。なんでもかんでも懇切丁寧に教えてやっていれば、子はいったいいつ思考というみのをはたらかせるのか。工夫する場面に陥るのか。塾というのもここがひとつの要になる。すぐに「わかりません」と言ってくるように、「教える」教育に慣れた、馴化した子が、思考によって自らの未来を切り拓いていくとはとても思えない。大手からきた子は例外なくこの無教育を内面化しており、指導し辛いことこの上ない。

 教育とは制約であり、我慢を覚えさせることであり、そりはとりもなおさず、自己を律する精神を培うことにほかならない。

 

 

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