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トップ都立高校合格の条件/小石川・桜修館受検の最低条件/生存競争という本質からは逃れられない

2017.12.12

 おはようございます。初冬に恵みの小春日和が心を和ませます。師走に入ってからの光陰はことのほか速く大晦日、明けて元旦とたちまち駆け抜けそうです。このところ浮かないのはやはり小6の仕上がりに不安を覚えているせいか。小5期の過ごし方が小6になってからの仕上がりを規定する、このことを今年ほどに痛切に感じたことはない。時間はいくらあっても足りない。小6の秋になってそのことがわかるのではあまりにも悲しすぎる。小5のときにいくらでも勉強時間をカットししてきたこと、その他の由無し事に時間を割いてきたことがどんなに無謀なことなのか、それがわかるのが、目の前に危機が差し迫ったときとは、あまりにも貧困な想像力ではなかったか。小5期ののんびりとした先送り姿勢と小6になってからの失速がこれほど明らかにその因果の関わりを示したことはあるまい。さらに言うならば、やはり小4早期からの取り組みがまた大きな意味をもつということが見えてくる。都立中受検を志すとして、まず小4早期から始めること、これは間違いない。そうとして近くの大手塾に行くのは百害しかない。小3だから、小4だから、と近くの大手塾に入れるのは、とんでもない過ちを犯すことになる。そもそもまず自分の子がその器かと考えることも必要である。少なくとも通知表の「よくできる」が8割前後なければ都立中に受かるなどという夢は持たない方がいい。わたしは8割基準を満たす子を学校の優等生と呼んでいるけれど、優等生間での能力も実はピンからキリまでというのが現実である。ところが、世の中のというのは、「よくできる」が5割前後しかない子ほど、桜修館だ、小石川だ、と夢を見るわけで、親も「もしかしたら」と本気になる。が、そもそもの前提から無理があったのです。学校見学で憧れるというのはそうなのでしょうけれど、実際に合格するには余程の覚悟がいると思います。習い事や稽古事、スポーツにと忙しい子にはもともと無理があります。それに都立中受検の親というのが、動き出すのがいかにも遅いわけです。たていては小5からでも早いと思っている親ばかりですから、小4から始めるなんて言っても飛びついてくる親はほとんどいないですね。まあ、これも子どもの知能いかんにかかるのが大きく、小5からでも間に合ったという子はたいてい知能は高く、かつまじめに努力するタイプであり、親、家庭も勉強に価値を置くのが普通で、いわゆる家庭の事情というのがほとんどない。

 家庭の事情というのが受検にとっては最大の妨害であることは間違いないのですが、当の親にはそういう意識はないようです。頭のいい子の親はそれでもなんとかなると思っているし、頭が普通の子の親は家庭の事情優先の論理に迷いがないから影響については思考停止しているとしか思えない。翻って考えてみるとかなり知能が高くて模試の結果も残しているのに落ちたという場合は、まず十中八九家庭の事情の多い家である。家庭の事情による先送りばかりしていると、子どもというのは、家庭の事情がないときも先送りの癖だけはしっかりと習慣化しているものです。

 今年もわたしの想像を遙かに超える親子というものに出会ってきましたが、わたしのものさしではとても測りきれない親、子というものが世の中にはけっこういるのだという思いを新たにしました。親の特別な価値観、性格に子ども翻弄されているというのはよくありますが、親があまりにも過保護に育てて、子どもの順応性が欠落しているというのもたまにあります。過保護な子というのは、いろいろな意味でやりにくいと思います。わがまま、つまり自分か中心にいなければ収まらないとか、とにかくなんでも自慢したがる子とか、言うのが多いですね。こういう子というのはまず我慢というものが効かないわけです。だからこつこつ勉強するということにも耐えられない。もっと最悪なのは、過保護な子に多い、誤魔化しとか、嘘です。嘘で取り繕うということをやるわけです。カンニングというのも動機はそのへんにある。カンニングしても自尊心は護りたいというわけです。

 過保護もそうですが、最初から生存競争にあるということに背を向けている親が多い。これほど勉強難民が溢れているのに、そしてその難民というのは結局は社会難民予備軍なのに、親は今の日本の社会が裕福からなのか、まるで生存競争などないかのように振る舞う。学校は生存競争のひとつの舞台です。もちろん子どもたちは将来社会に出て様々な試練にもまれる、だから集団にもまれる、ミニ社会でもまれる、社会は競争であるとということを教えなければならない、それも教育である、小学、中学、高校、大学、それから社会人、とにかくずっと競争である。わたしたちはそこから目を離してはならない。競争というのは、遺伝子的な行動の帰結ではないだろうか。優秀な遺伝子のみが生存することができる、人類の進化というのは、優秀な、強い遺伝子のみが生き残るという真理を内に秘めた言葉です。生存競争に休みはない。家庭の事情はない。できなくても、どんなにできなくても、頑張る子がいます。模試の結果なんかもいつもよくない。でもあきらめることなくがんばる。わたしはこういう姿勢というのがとても健全に見えるのです。なぜって、もっとも遺伝子生き残り競争、生存競争にかなっているではないですか。頭がいいのに、先を見越してすぐあきらめてしまう、過保護なゆえに傷つきたくないから競争を避けたがる、こういう子たちのほうが余程変です。競争を避けてはだめです。そして競争の途中で家庭の事情で休むのはどうかと思います。そんなことしてたら競争で勝ち残ることなんかできないでしょ。うさぎとカメのお話しでは、家庭の事情でお休みしたウサギが負けました。

 生存競争というと他人との戦いを思い浮かべる人も多いかと思いますが、実は、真の敵は自分の内にある。そして家庭にある。

 「他人の不幸は蜜の味がする」という本がありますが、人はなぜ他人の不幸には冷淡でいられるのか、いや笑ってさえいるのはなぜなのか。身内の不幸に涙を流して悲しむのに。この本の著者が合理的な説明として、もちろん論文などを根拠にはしているのですが、遺伝子、つまり生存競争において、他人の不幸は、生存競争からの脱落を意味するからだ、と述べてたのはわたしの心に響いた。実は、無意識のうちに説明しがたいもろもろの行動というものを生存競争という概念で説明しているとなぜかつながることが多い。

 今勉強するのは、休まず勉強するのは、生存競争を戦っているからです。そして将来の生存を確かなものにするために今こそ勉強するしかないのです。過保護はその子をひ弱にします。つまり生存的には消滅を画していることになる。順応性を欠くのは生存にはマイナスです。適応力がないのは生存には不利です。

 わたしたちは子が将来生き抜いていくために早くから生存競争の中にいるということを教育しているのです。わたしが教育とはがまんすることを学ぶことだというのはこの文脈で理解してもらえればと思います。

 それから最後に竹の会という塾にほんとうに偶然なのでしょうが出会えた人たちはもう過去にも未来にもないであろう、希少な経験をされている、そうなのだと思います。わたしの深奥に燃えるのは、この生存競争の真っ直中にある子どもたちを強く逞しく鍛え抜くことでした。中学生で勉強しないのは生存競争からの離脱にほかならない、わたしはそう思います。少なくとも竹の会にいる条件は勉強する、生存を戦う、生き残るという強い意思のある子に限ります。

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  京都永観堂

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