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ヘレンケラー「奇跡の人」

2021.05.11

竹の会通信2021.05.11

 

◎夏の集中指導予告

 本年の夏休みが予定通りに実施されるのか、やや不透明ですが、今のところは通常通りのようです。例年8月第4周から2学期が始まる目黒区や大田区の例がありますが、6月には、ご案内できるかと思います。8月は通常指導はありません。夏期日程のみです。参加するかしないかは自由です

◎ヘレンケラー「奇跡の人」
ケラー〖Keller〗 
(1880〜1968)アメリカの社会福祉事業家。生後一九か月で盲聾啞となり、サリバン女史の教育を受ける。身体障害者の福祉事業に尽力、世界各地で講演。日本にも数度訪れる。

 何が奇跡か。
 三重苦(盲聾唖)の女性。作家。映画「奇跡の人」の中で、彼女が、物には名前がある、ということが分からずに苦悶する、暴れるシーンは壮絶であった。
 井戸水のポンプを押しながら、流れ出る水に手を差し出して、スペルで「ワラ(water)」をなぞる。名前というしくみ、目が見えていれば簡単な仕組み、それがわからずに苦しんできた。
 私が、あなたたちに、竹の会の皆さんに期待しているのは、そのようなものです。サリバン先生が、いくら説明しても意味が取れなかったこと、それを何かのきっかけで自分の中で自分の世界の中で意味がつながること、これなんですよね。意味がつながるとは、それで全体が見通せることなんです。
 私が算数の指導を通して求めているものは、それなんです。わからない、というので、すぐに説明を求める。それで意味がつながるのは、表層でつながっているだけです。繋がったと思っているだけです。
 ヘレンケラーのように、深いところで、氷解しなければ、本当に繋がったとは言わない。
 わかるというのは、算数を通して、深い、深層で繋がる、それは血管が全身に張り巡らされて、血液が脈々と指先まで流れる、そんなイメージです。

1周400mの池の周りをA君とBさんが同じ方向に同時に走り始めました。A君は分速250m,Bさんは分速220mの速さで走るとき、A君がBさんに初めて追いつくのは、2人が走り始めてから( )分( )秒後です。
慶應中等部の問題です。 

小4の子が取り組んでいるのを見て、説明することにしました。
まあ、無理かな、と思ったからです。
ここで説明してしまっていいのか、悩むところですけど、この小4がこのまま考えさせてもまず解けることはないだろう、との判断です。ここで指導しておくのもいいのか、と判断しました。

見抜いて欲しかったことはあります。
それは、AとBの距離の差です。出発するとき、既に、BはAより400m前にいる、ということを見抜いて欲しかったですね。
つまり、Aは400m先にいるBを追い抜くという図です。
それから、次に、AとBの速さの比です。速さの比というのは、進んだ距離の比でもあります。いや前提がありましたね。スタートから追いつくまでの時間は、AもBも同じということです。ですから同じ時間、進めば、速さの比が、そのまま進んだ距離の比になるということです。
したがって、距離の比は、A:Bは、25:22です。
その差3が400mにあたります。つまり、1は、400/3mです。
これで、道のりがわかりますから、速さで割れば時間がわかります。
40/3分と出ます。13分と1/3分、つまり、20秒ですね。

私が「受かる」と直感する子は、問題の深層に気づく子です。
この問題は、図にかいて考えること、その場合に、先程述べた、Bが既にAの前400mにいることを図に表す子なら、私の検査は合格です。並んで同時に出発するところで拘泥するとその先の思考が進みません。
 それから同一時間なら、速さの比は、距離の比に同じということを読み取らなければならない。
 

 説明すれば「わかった」として終わりか。
 
 深層が読み取れない子は決して受かることはない。たとえ説明して「わかった」と言っても7回解き直して完全にものにしたと言っても、本番で解けることはないであろう。
 算数の修練とは、事実の読み取り、図の工夫が、誰の助けも借りずに「できた」とき、初めてその目的を達成する。最後まで、誰かの助けを借りなければ解けない、解けた経験がないとき、失敗の可能性は強い。失敗の可能性があるものは失敗する、ことになる。

 従って、指導者は、算数の修練を通して、事実の読み取りと、算数的な思考法を意識的に訓練していく必要がある。これも低学年相手と中学年相手では、変えて行かなければなるまい。思考未熟な段階とある程度視野が広がってきた段階とでは、指導の方法も質も当然変わってくる。そうなのだ、指導というのは、子どもの理解の段階を見極めることなのである。理解の段階とは、視野の広がりに依存するのであるが、だから指導の目的は常に視野を広げることにあり、子どもの現在の視野から見れば「理解は無理」とか、「なら、もう少し視野を広げるため」に指導の具体的形を探して、試してみる、そういうことなのではないか、と思うのです。
 よく親が、「(竹の会では)授業はない」というと、「生徒はそれぞれ力に合わせてプリントをやるということですね。それで、わからないときは先生に質問する、そういうことですね」と言って、確認しているのだろう、と思いますが、私から言わせれば、そんな形のことで、すべてわかったということにされても、という思いがあるわけです。かつて面談に来た母親は、「前の塾もここと同じようなやり方でした」と言った。よく聞いてみると、予め子どもたちに、新小学問題集とか、新中学問題集とか、を渡しておいて、子どもたちは、混合教室で、それぞれ自習するのだそうな、それでわからない問題があったら、先生に質問に行く、そういうことなのだそうだ。
 私は、「へっ」と思った。
 それとは違うということを説明する気にもなれなかった。
 そもそも私はああいう塾用教材、四谷大塚の教材もそうなのですが、単元ごとに解き方、基本練習、発展などとなっている構成が、好きになれなかった。子どもたちは、予めこういう解き方という先入観を持って解くわけであり、予断を持って解くわけである。ここで働かせる頭は、何もないところから予断なしに働かせる頭の使い方とは明らかに違うわけである。私はまずこうした教材の構成が一般的になっているところから、市販テキストは使えないと切って捨てたのだ。だから中学の指導では、自前のテキストを執筆した。まだワープロ専用機の時代のことで、とても満足のいくものではなかった。
 竹の会が、レジュメ時代に突入するのは、平成17年を本格的とするであろう。小学は、さらに遅れて平成24年を待たなければならなかった。
 レジュメ指導が進化し、令和2年、指導に合わせた指導、指導に合わせたレジュメの段階に達した。いや私はレジュメのさまざまな機能に特化したレジュメの執筆の段階に入った。
 子どもたちの成長の段階に合わせて、それこそミリ単位で、レジュメを調整してきた。
 小数の計算で躓けば小数のレジュメ、逆算で躓けば逆算のレジュメ、例えば、「逆算早わかり」、「魔法の逆算」を開発し、「通分を極める」、「約分を極める」と作っていった。割合については、かなり細分化した。様々な段階のレジュメを工夫した。割合の仕組み、構造を、理解させるための、様々な工夫をした。竹の会の割合レジュメは、割合を何としてでも理解させる、という意思の表れである。「わからない」という子に出会うたびに、新作を工夫した。帯に短し襷に長し、というけれど、竹の会は、帯にもならない、襷にもならない、割合レジュメを作ってきた。子どもの知能の寸法に合わせる、言わば仕立ての思想だ。
 竹の会の指導をどう説明するか、ということが、世の親たちに分かりにくいのは、親たちが既存の塾概念を念頭にそのどれにあたるか、という理解のしかたをするからである。ところが、竹の会の指導というのは、そのどれにも当てはまらない。ある人は、個人的に指導しているのを捉えて個人指導だと言ってみた。しかし、いわゆる個人指導ではない。子どもたちは、教室の机で、ひたすら考えなければならない。その上でレジュメの問題の答えを式を書いてくる。図をかいてくる。そこで指導という形の審査を受ける。そのときに、理解の深浅、何が足りないか、新たな概念、解法の教示が必要か、そのために別のレジュメが必要か、新たなレジュメの創作が必要か、を判断する。だからわたしはこの過程を医師の診断に準えて診断、処方と呼び、新たに出すレジュメを処方箋と呼んだわけである。
 竹の会の指導はおそらく医師の診断、治療、処方という過程に最も近い。医師のやる検査というのもわたしはよくやる。
 検査指導と呼んでいるものである。診断の一つと見てもいい。私が、発するレジュメを通して、思考の偏ったところ、不備なところを矯正する。レジュメを通して、様々な指導、指示をする。このことを称して個人指導と呼ぶのなら、実体は違うが、外から見ればそのように見えるのだろう、という意味である。わたしは、常に、診察している。そしてその子の病的問題を見つけ、是正するような指示をする。これが個人指導に見える、というのは、実態は何も伝わらない。
 新しい概念を構築する指導では、割合を軸にして、あるいは単位当たり量思考を軸にして、例えば、縮尺、流水、仕事、面積図、ダイヤグラム、線分図の応用といった新しいう思考の工夫を持ち込む。これは割合の基礎が固まってきてからの、視点、視野の拡大である。
 私の狙いは、こうした指導の過程を積み重ねていって、いつか子どもの心に現れる変化、願わくば、ヘレンケラー的な知の革命をと狙っている。
 今まで見えなかったものが、見えてくる、欠けていたものが、全体の見通しを阻害していたものが、地道な治療で、見えてくる、つながる、立体的につながる、そこから全体が鳥瞰できるようになる。こうして視野がまた一つ広がる、そういうものを目指している。これが竹の会の指導の意味である。
 

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