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リトマス試験

2015.11.10

 指導というのは、常に「思考の深さ」、「理解の程度」を測る所為である。   「理解の境界」、「理解の壁」を越えられない子たちのことを考える。 理解といいうのは、本人だけがなしうることであり、他から理解を実現することはできない。指導というのは、理解を構築するさまざまな試みを内包するが、この成否は当人の能力に依存することは否定できない。いかに指導の達人でもできない境界がある。

 入会試験というのは、指導可能な限界に線を引く。竹の会の入会試験は、この2年の試行を経て、ほぼ完璧に逸材を抽出するまでに完成度の高い作品となった。この試験で、A合格(5/6)、S合格(6/6)をとるほどの子であれば、都立中合格の可能性は高く、また将来高校入試においてトップ都立(日比谷・西・戸山)に合格する蓋然性が高いものであることは客観的な真理に近い。

 指導のプロというのは、常に子どもたちを客観的に、冷徹に見ているということについてはもちろんである。わたしはわたしのレジュメに「リトマス問題」というものを忍び込ませている。これがとければ「この子はわかっている、理解している」と証しを得るための問題である。 子どもというのは本質的にずる賢い。わたしが解答集を見るときに「盗み見る」子がいる。気をつけてはいても忙しいとついうっかり見られてしまうということがある。「おかしい」と思ったときは「式を書いてきなさい」と言うこともよくある。100%書けることはない。1時間経っても2時間経っても式は書けないでいる。時として、「答えの数値が出るようなでっち上げの式」を書いて持ってくることもある。式の意味を問うと答えられない。頭のいい子、悪い子もみな同じことをする。 指導というのは、子どもが「果たしてほんとうに理解しているのか」ということを常に試すことが求められている。実は理解していないのではないか、いつもわたしは疑っている。基本的に子どもの「わかった」という言葉は信用しない。何がわかったのか、さっぱりわからないから。

 わたしの飽くなき「リトマス問題」という挑戦に、正解を出す、合格はんこをとる、そういうことでしか、子どもを信用できない。わたしのレジュメは常に子どもを試している。合格はんこをとれた者はわたしの解説レジュメを読むことによって大きく理解を進めたと確信できる。 「わからない」という子に解説レジュメを読ませるのは、失望と淡い期待しか残らない。これでほんとうにわかってくれるのだろうか、思考はないのに。これで「わかった」と言われても思考というものは何もなかった。合格はんこをとれない子は、次の問題でもとれない。そのことだけは確信が持てる。前のレジュメを理解したことが次の糧にならない。

 いつも考える。どうしたら理解をさせられるだろうか。理解を深められるだろうか。レジュメを作るために過去問集からいい思考のネタを探しながら、考えこむことも多い。 「リトマス問題」が子どもの裸の力を露わにする。子どもの赤裸々な実力をさらけ出すことは、わたしには指導に欠かせない所為である。そこからまた新たな仕事が始まるからである。

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