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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

あれ! この子は!

2021.11.19

 

 

◎あれ! この子は!
 竹の会の都立中高一貫校指導体系がほぼ完成して、この体系のセオリーなら、実力をつけていると思っていたら、ここ2年はっきりとこのセオリーに反する子が出てきた。いやおそらくこれまでもそういう子はいたはずであり、見逃されていたというか、それと気づかなかった可能性がある。
 算数力、すなわち思考力がついたと思ったのに、模試で結果が出せない、どころか極端に悪いのだ。
 思い返せば、25年桜修館に落ちた子もそうだったように思う。幸い、この子は中学でも竹の会に残り、3年後無事都立戸山合格した。ただ、戸山合格までの道のりは平坦ではなかった。中2の頃は退塾の話しも出た。なんとか乗り越えての合格だった。
 この子の場合は、いろいろな事に熱中する癖があり、勉強に軸を軌道修正するのに苦労した。
 ただこの2年、竹の会では、算数の上級にいながら、模試の成績が悪いケースがある。塾の指導で、適性レジュメができない、進みが遅いとか、塾ではそれなりできているが、模試は最低の成績をとるとか、様態は区区である。
 気がついたのは、共通して、消極性回避的傾向が、かなり強いことである。言われなければやらないとか、課題を減らす、なかなか出さない、季節指導では、なるべく時間の少ないほうを選ぶとか、なにかにつけて、消極志向が目立つ。
 近年、模試の精度が上がり、模試の成績が悪ければまず受かることはない。
 高校入試では、V模擬の精度は高い。都内の志望者が、志望校単位に、ほぼ全員集まるからだ。もっともW合格模擬と分散される可能性はあるけれど、そこを計算して何年も判定してきたわけで問題はない。
 難関私立受験では駿台模試が信頼できる。難関校の場合、サピや早稲アカなどの模試もあるけれど、一般的ではない。駿台模試だけでいい。
 消極志向、回避的傾向というのは、受験では、完全にアウトである。わからないから解説を見るとか、何時間も(実はいくらも考えてない)考えたけどわからないので教えてくださいとか、一わからないので明日にするとか、わからないから放っておくとか、とにかく消極行動からくる負のスパイラルは終わりがない。
 一問解けたら「心配だから」とまた考える。理科が「心配だから」理科の課題をやる。忘れるのが「心配だから」解き直しをする。作文が「心配だから」暇さえあれば作文を書く。
 受験とは、「心配だからと積極に追究するものなのである。
 指導の時間は少ないのは「心配だから」と指導は休まない。
 よく中学生にある、定期試験の前だから休むというのは、実は、合格者にはあまりいない、ということも知っておいたほうがいい。
 定期試験に間に合わないというのは、普段の勉強が不十分なのことの現れなのだから。
 親の勘違い
 塾は魔法の力を持つわけではない。才能のない子がいることは誰でも知っている。そしてそういう子が塾に通えばなんとかなるということもない。
 特に、竹の会は、入会試験を実施して、才能のある子だけを指導する建前をとっている。才能のない子を合格させることはできないからである。
 竹の会でほとんどの子が時間をかければ「伸びる」ことはわたしには自明のことです。しかし、それは「伸びる」ことが受験に成功することまでを意味しない。
 親の勘違いは、才能がなくても塾に通えば、合格するという思い込みにある。そうではない。
 合格するには、才能が必要なのである。
 試験とは、才能のある子の戦い、競争なのだということである。例えば、開成を受けるとして、それは開成を受けるだけの才能ある者の戦いなのである。才能のない者が努力して受かるという制度にはなっていない。それが都立中高一貫校でも事情は変わらない。開成ほどではないとしても、普通の子が受かることはないのである。学校の優等生と言われる子でも落ちることのほうが普通なのだ。
 学校の優等生が通用しない?
 学校で先生の受けがいい、模範的優等生は、必ずしも才能があってのことではない。しかし、才能がある子も中には当然いる。しかし、それでも成功しないことのほうが多い。なぜか? 優等生だけあって、学校の勉強はきちんとこなす、宿題もきちんとやる、ただそれだけではない。親子で習い事、稽古事に熱心である。家族の行事も優先事項である。つまり、なにもかもこなす、だから失速するのである。器用貧乏、八方美人ということだ。
 力を分散し過ぎるのだ。
 才能とは、勉強にのめり込む才能である。常に、挑戦する姿勢が象徴的である。だから、消極志向、回避傾向の強い子とは違う。消極、回避の対象は、紛れもない「葛藤」である。葛藤に消極、葛藤から回避、つまり逃げるのだ。だから、解き直しとか、復習を好む傾向が強い。新たに葛藤しなくてすむからだ。だから長い指導時間に耐えられない。葛藤から逃げる子は決して伸びることはない。
 葛藤して解くことを重ねてきた子が模試の成績を上げている。
 言われたことしかやらない。言われたことしかできない。言われたことはできる。これはロボットと同じである。
 残念ながら、ここに才能は見られない。
 言われたことしかできない。言われたことだけはできるではだめなのだ。

 ※すぐ「わからない」と持ってきて、説明を聞いては「わかった」ということをやってきた子は模試では点が取れない。葛藤がなにもないからである。
 言われたこともできない。そういう子は、本来、竹の会に入れなかった子たちである。可能性に配慮して入会試験を甘くしたこと、不合格の場合に、6か月の約束で仮入会した子たちがそのままいる。今後の入会試験の課題となる。特に、今の入会試験のレベルでは、才能ある子ばかりでなく、どうしても指導困難な子が紛れ込む。しかし、入会試験をあまりに難しくするのも躊躇がある。磨けば光る子もいるからである。特に、小2は、可塑性に富み2年後が見通しきれないところがある。だから小2は入会試験なしでとにかく成長を待つこととした。
 小3についても小2に準ずることにした。
 ただこうは言える。本当に才能ある子は幼きにてもその才は隠しきれないものである。
 試験とは才能ある者を選抜するのが目的である。
 小石川合格者を振り返ってみれは、23年小石川合格者は、小3夏入会、入会した時からその才能は光るものがあった。25年小石川合格者は小5末入会だが、類稀なる国語読解力を発揮したし、算数、理科の理解も深かった。28年小石川合格者は、小5入会。秘められた才能に期待した。令和2年小石川合格者は、小4入会。入会当初から高い知能を思わせる才を発揮した。
 試験というのは、才能に恵まれた者の競争であり、生存をかけた戦いである。才能のない者には最初から勝ち目はない。いやそもそもの受検そのものがありえない。

 過去の合格者で「才能」を感じなかった者は、都立富士合格者を除き皆無であった。都立富士には才能のある子(早稲田政経合格)もいたが、努力型の子が受かった印象が強い。
 
 
 成績は伸びます。時間をかければ竹の会なら伸びます。しかし、。試験は才能がなければだめです。

 自分で葛藤して解くという経験を積み重ねてない子はだめです。
 わからないと、説明受けて、わかった、これでは、葛藤がない、だからだめなんです。あなたたちに必要なのは、葛藤です。
 
 
 

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