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京都の秋/割合がなぜ思考力の形成に適しているのか/指導するということはどれだけの苦しきことか

2016.11.24

 秋が深まるというよりいきなり冬の到来、この頃の季節は移りゆく趣もない。

 さて近頃改めて徒然草を読み返す、ことしきり。「世に語り伝ふること、まことにあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。」 虚言とはつくりごとの意。

 割合が思考力の形成になぜ適しているのか、かつて「割合ばかりそんなにやるのですか」と不審げに母親が訊いた。

 大手などが、いや巷の塾でも、テキストの一単元としてやるだけ、そういうことが背景にあるのであろう。

 割合というのは、現実世界の数量を軸となる数を1として、その軸となる数から見た世界にする技術である。軸となる数からみた社会といってもいい。

 子どもたちが割合で混乱するのは、これまでの指導経験から、元にする量を曖昧なままに、いや元にする量の意義をよく理解しないで、ただ○%などの数にあたふたするところにある。これには割合というもののからくりをどうしても理解できない、悲しさがつきまとう。元にする量から「子」元にする量、「孫」元にする量というつながりがもつ意味、それは原始の「元にする量」が生き続けているという意味、それを理解できるのか、ということである。割合という魔法を子どもたちが使いこなせるようになるまでには山あり谷ありなんですよね。ちょっと複雑にするにはこの元にする量の連鎖を問題にすればいい。

 そもそも割合というのは使い勝手がいいから使われるわけですよね。その使い勝手とは何ですか。何%増えた、というとき、増えた量をイメージできることかな、イメージ図を描く、割合の使い勝手を知るにはこれはいいかも。

 %というのは、100基準なんですよね。100と比べてなんぼ、ということです。%基準というのは1基準でした。だから0.01と1を比べてた。なぜ100基準にしたかというと、それの方が実際的だからでしょ。小数というのは日常的には使わないということですね。割合というのは常に何かと比較しているという前提があるわけです。

 ここで割合の顔ということについて触れておきたいと思います。

 %としての顔、歩合としての顔、分数としての顔、つまり、顔は違うけど、表現したいことは、一つなんですよね。ここのところを子どもたちがわかるか、ということなんです。ここで、最近わたしは子どもたちの理解の層を何層にもするにはどうしても抽象化訓練というものが必要なのではないかと思うに至ったわけです。

 さて、分数の仕組み(構造)ということについても少し触れておきましょう。

 分数というのは、真ん中に線があって、線の上と下で分けられている。上が分子で下が分母。分母は母、分子は子というわけですが、どうも深い意味はない。

 分母というのは、基準量、分子は比較量、ですね。この理解は割合です。分母は元にする量、分子は比べられる量、というわけです。この見方は、分子は分母の何倍か、を問題にするものです。自分自身を1としたときに、分子はどういう数で表されるか、を問題にしている。

 こういう説明もあります。分母は1を何個に細分したか、分子はその中のいくつか、を表している。このとらえかた方は分数そのものを意味あるものにする。分数を通分するというとき、この細分化したものの1個分の大きさを同じものすればカウントすることができる、そういう発想につながるものです。この細分化思想が、前提になっている理解から、元にする量が同じ大きさでなければ、細分したものの大きさを比べようがないとか、小数にしてしまえば、たちまちどんな分数も比較できるとか、いろいろと思考を発展させることができるわけです。

 この視点から、わたしたちは、割り算にも2つの意味があることを知ることができるのです。同じ単位どうしの割り算の商は、単位はつけません。なぜか。㎝÷㎝=1 だからです。実質的には、そういう類いの割り算というものが実は倍率を出しているからです。これが単位が違うものどうしを割るというのが、単位あたり量を求めるものであるという理解につながっていきます。

 わたしが割合というもの、割り算というものについて、本格的な研究に没頭し始めたのは、平成17年前後あたりからであったかと思います。その当時のわたしは寝ても覚めても割合のことばかり考えていました。子どもたちに割合をどう理解させるか、そのことばかり考えていた時期がありました。一口に子どもたちに割合を説く、というのは生半可なことではない。ひとつ何かを指導するというときも、自分なりに、考え、書物を読み、また考え、創作的思考に没頭する、これは苦悩、苦悩でしかない。曖昧なままに子どもたちに教えるのは罪である。そんな教師が子どもを無駄に苦しめる。

 考えてみれば、わたしが高校入試の数学を極める日々は、そういう苦しみの日々にほかならなかった。高校数学とはちがう、独特の世界にどう対峙したか。わたしはまず過去問を解く、自ら解く、ということを課した。偏差値70から始めて60へ、過去30年分の過去問を解き尽くした。おそらく数年を要した。実は、同じことを中学入試についてもやったけれど、これはより根源的な算数論について学ぶ必要性を知らされただけであった。高校受験の数学を極めるには、根底に流れる、大学受験数学の理解が絶対必要と思った。平成15年ごろ東大理系志望の西高生を指導したとき、いっしょに東大の数学を解いていた。そして、この時期にわたしは開成高校の数学の根底に流れるものを理解したし、慶應の数学が整数論や確率論に流れる傾向の必然性も理解した。わたしの数学指導の根底に流れるものとは、そういうところからきているのであろう。今でも昔でも受験情報にやたら詳しい親というのがいますが、わたしも実はそんな情報をよく親御さんから教えていただくこともありますが、平成27年戸山合格者の親御さんや28年の文京合格者の

親御さんからも貴重な情報をいただきました、しかし、情報はありがたいけれど、それで合否が左右されるなどということはまずない。合否を決めるのは、学力であり、どこまで問題に対処し、解ききれるか、であり、傾向もくそもない。受験というのは、説明会でいくら情報通になってもそんなことで決まることはない。実力、素の学力だけである。わたしが、塾の先生として、やっているのは、傾向とか、制度の変化に詳しくなることではない。わたしが見つめているのはただ一点のみである。いかにしてこの生徒にこの力をつけるか、つけしめられか、である。

 英語も同じ。これはかなり勉強した。高校生指導用の書物は読みあさった時期というものがあった。教師用英語指導書を何冊も読み、研究した時期というものがあった。竹の会の英語にしても、数学にしても、指導する、教えるということの厳しさをいちばん知っているのは私自身であり、ひとつ指導するというとき、わたしがそのために費やしてきた研究は言葉に尽くせないものである。

 算数、これは難関である。これを指導するためにわたしはどれだけ悩み苦しんできたか。算数ばかりは実は世の中にろくな文献はない。わたしの、竹の会の算数はすべてわたしのオリジナルな創作です。学者の算数論もピンとこなかったし、研究者の論文も読んだけれど、役に立つことはなかった。いつか読んだ香川大だったか、論文は、算数の転移という概念についてのものであったが、転移という概念について、ひとつのひらめきがあったことは確かであるけれどその論文から示唆を受けることはなかった。巷には算数の参考書がやたら出ているけれど、ろくなものはない。だからわたしは自分でひとつひとつの概念を問い直し、ひとつひとつ定義していった。わたしが曖昧であったらとても子どもたちが理解などできるはずもない。

 大手の学生講師がいくら頭がいいと言っても、わたしは教えることなどできない、と思っている。また巷の塾の塾長や雇われ講師が、月並みなテキストを使って、授業をやるかぎり、算数そのものをあるものとして、既製の説明をあてはめるだけなのはあきらかで、これでは子どもたちが気の毒と思う。

 バカは、「他者の知恵にまったくの敬意を払いません。他方、自分自身のそれには、満腔の自信を以て敬意を捧げます」という文が頭に残ります。世の中のバカは理性的態度というものを知らない。バカは語るけれど、真の知恵あるものは、聞くのみである。虚心坦懐に。政治家が、弁護士が、医師が、怒るのは、自分の専門的領域に口を出した、ただそれだけの理由です。内容がどうのこうのということは彼らには関係がないのです。自尊心を満たしたかだけが根拠なのであるから。

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京都北野天満宮

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