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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

公立中高一貫校6年型教育か都立高校3年型教育/両国高校附属というすき間の選択/勉強というものを軽く見た代償

2017.02.16

 おはようございます。低温と青空と太陽の変わるところのない朝を迎えて今日もブログの更新ができますことを感謝しております。どうもこのところの風邪の菌なのかウィルスなのかもやもやしていまして気分もすっきりしません。春が近づけば杉花粉が舞い始め目も鼻もすっきりしない状態が続くのかと思うとやや気分もブルーになりますが鼻水のほうはアレルケアという乳酸菌をもう3年ほどのんでおりそのせいかあの最悪の症状は近年ないように思います。

 渋谷Aでは小5に対する適性指導が開始したばかりですが、感じているのは、「その他編」を済ませたはずの子でも失速気味、まだそこまで達してない者でも合格はんこをとりながら進めている、小5遅くに来た子は「その他編」にまで進んでも即席の思考という感じでやはり失速気味、といったことでしょうか。1年間みっちりと思考訓練してきた子というのはいい兆候を示している。「その他編」を早くに終えたはずの女子などが適性問題で苦労しているのを診るといろいろいと疑念が湧いてくる。ほんとうに自分の思考で解いたのだろうか、と素朴に疑問が湧いてくる。課題レジュメの解き直しというものを一切やらない小5がいるけれど、解き直しは「やりなさい」というのがわたしの指示です。桜修館の作文の訓練が始まりましたが、これだって何回でも納得のゆく作文が書けるまで「書き直し」するのがわたしの指示です。22年桜修館合格の杉山太一君は作文でわたしがD評価をつけたとき、Aをとるまで17回も書き直してきました。この書き直しを繰り返すことによって、合格する作文とはどういうものか、がわかってくるのです。課題添付の参考作文を読んでそれで終わりなどということをやっていたら合格作文なんて書けるようになるわけがない。

 今年受検の小6には勉強とは何かがわかっていなかった。受検直前のあの緊張感のなさからはとても受かる子たちには見えなかった。真摯なまじめさに欠ける。勉強というものを懼れる、敬う心に欠けていたのではなかろうか。勉強を敬う者は当然に指導者を敬うものである。過去の合格者にわたしに対する不遜な態度をとる子などはほとんどいなかった。28年戸山合格の生徒は反抗期と思春期ということもあってその葛藤でもやもやしていたということであったと思うけれどそれでも最低限わたしに対する礼を失するという一歩手前で踏みとどまっていたのかと思う。思春期というのはやっかいで、時として受験、いや人生そのものを狂わせることが往々にしてあった。情緒の不安定がもたらす勉強放棄は悲劇的な結末をもたらし、そして悲劇的な人生の選択を余儀なくさせる。受験期においてすぐれて情緒の安定した子たちが成功していくというのがいちばんノーマルであり、もちろん大多数はこれに属する。

 たとえば、出された課題をいつまでも放置したままにしておく、わたしが尋ねるとようやく遅ればせながら出してくる、言わなければ1か月も2か月も放置したままというのはどう見ても受かる子の姿ではない。事実こういう子が受かった試しがない。というか、それよりも勉強というものをなめているところに驕りらしき心の弛みを感じていた。勉強を軽視する行動をとる者が勉強で成功するなどということはない。いろいろともっともな理由をあげて、塾を休む、家族優先の行動というのもいいでしょ、習い事、稽古事で塾を、あるいは家庭学習を犠牲にするというのもいいでしょ、ただこうした行動というのは決して勉強というものを敬った行動ではないということだけは知っておいたほうがいい。勉強しない、できない理由というものがいかに揺るぎない理由であったとしても、それが勉強を軽視しているという、その事実だけは確かな事実としてあり続ける。

 勉強を軽視した者が試験に落ちても嘆くにはあたらない。ほんとうに合格するために勉強というものを敬ってきたか、蔑ろにしてこなかったか、問うべきはここであり、なにかと勉強に優先させて、つまり勉強を蔑ろにして、ほかの何かをやってこなかったか、である。勉強というものの取り扱いがまるでわかっていない人たちが受験などというのはおこがましいことではないか。

 勉強というのは、実行力にのみによって担保される。まずこのことを理解していない親、子があまりにも多すぎる。27年受検者たちが夏にわたしが「1日最低でも7時間の勉強」を要求したところ、実行したのは2名のみ、その2名が小石川と九段の合格者であったことは偶然であったの。平成21年の夏、わたしは受験の小6に「土日は1日最低10時間の勉強」を求めた。このとき1日17時間をやった子がいた。杉山太一君であった。実行力のともなわない勉強なんて絵に描いた餅に等しい。勉強は実行してなんぼである。わたしが5時間やってほしいというときは5時間を実行した者だけが生き残る。「考えろ」と言っているのに、正解を先に「知る」挙に出るなどは、勉強に対する冒涜である。自分で解いたことにこだわりをもたなくてどうするのか。レジュメの進捗のいい子が必ずしも合格はんこをとれないのは、真実の断面をわたしに教えている。「わからない」、それで解説を読んで、「わかった」として次へ進む、そういうことをしてればスカスカの頭になり、スカスカの実力しかつかない。理解は、わからないと苦しんだ、その苦しむという心の状態を通して見て初めてもたらされるものだ。指導している者に不遜な態度をとる者が成功などするはずがない。神と崇めて敬うほどに懼れるほどに心を清くした者だけが合格という福音を手にするのである。

 いいですか。問題を解くというのは、苦しみ、迷い、悩むというフィルターを通さなければ意味がないのです。そういうフィルターなしに人からいつも簡単に教えてもらっても、それはフィルターなしのコーヒーを飲むようなもので、コーヒーなんかではない。

 作文が書けないと悩むなら、悲しみというフィルターを手に入れるしかない。あの杉山太一君の作文には深い悲しのフィルターを通してにじみ出てきた言葉があった。家族をテロで失った悲しみが彼の心にフィルターをかけていた。そこからものごとを見る、そういう姿勢が感ぜられた。幸せで物欲に満たされた環境にあって作文の書き方などを勉強しても愚にも役に立つまい。

 勉強とは実行力と表裏である。実行をともなわない勉強なんてそんなの勉強ではない。勉強しない、しなかった言い訳なんてどうでもいい。法事、帰省、発表会、正月、盆、旅行、部活、合宿、なんでもいい。勉強しないというそのこと、実行しないというそのこと、それだけが不合格の根拠であることに変わりはない。

 掲示板に自分の番号を見つけること、これができるのは実行した者のみである。陸に勉強してこなかった者が合格を期待して番号があると思っていることが図々しすぎるのである。

 なあなあにしかやらない人は永久に成功することはない。勉強というものを懼れ敬うことを知らない者は永久に成功することはない。

 入会試験に落ちても優しく見ていられるのは実行する姿があるからである。実行しない者、しなくなった者にもはや竹の会に居場所はない。課題をきちんと出し、解き直しをきちんとし、問題には自分で考えるということだけは妥協せず、安易に正解を知ってズルをすることを潔しとしない心意気を持ち、真摯に取り組む姿勢さえあれば問題ない。家庭でどれだけ勉強しているだろうか。わたしに疑いをもたれるようでは勉強に対する姿勢を疑われてもしかたない。

 実行していますか。それならいい。実行していないのなら退塾したほうがいい。実行しない人間が竹の会にいるのはあってはならないからである。

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