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受検まで10か月を切る/都立高本番まで10か月余/勉強しないから落ちる

2017.04.12

 おはようございます。気持ちのいい朝です。青空と太陽が戻ってまいりました。朝起きると目がすっきりしないのはおそらく杉花粉のせいでしょう。昨日は一日雨が降り最高気温も10℃ほど下がったということで改めて春というのは人の切なる願望にすぎなくその実体は冬であるということを実感いたしました。桜というのは一度開花してしまうと、もう後戻りのできない、何か秘めたる悲壮感みたいなものを感じます。今年は桜を愛でる時間もほとんどなく、パソコンと向き合う日が多くなりました。疲れて散歩がてらに渋谷に出てジュンク堂などを回って小一時間ほどで自宅に帰るとまた仕事を続けるというのがここのところの日課です。これからの10か月が過酷な日々になるのであろうということは覚悟はしていますが、さてわたしの体がそれに耐えられるのか、はなはだ自信のないことでとにかく一日一日なすべき仕事をこなしていくほかはあるまいと達観の境地です。

 それにしても世の中のみなさんは勉強というものがまったくわかっておられない、そう感じております。勉強といっても小学生と中学生では全く質がちがうし、中学生と高校生でも小学生ほどではないが、質的ちがいは大きい。これが大学生や社会人となってくると初めて勉強というものを語れるのかなと思います。

 小学生というのはまだ勉強というものが手探りの段階であり、能力的にもまだ未開発の領域がほとんどですから、勉強の前段階のところで能力を開発するための訓練、だからその期間というものが必要なわけです。わたしの経験では、小学生にまともに勉強というものを期待できるのは小6の時期であり、小5の1年間はそれはもう能力を開発する訓練を重ねなければならない。理想は小4の4月から8月までであろうか。この時期に始めるのがいちばんいいように思います。このタイミングを逸すると勉強ということでは成功することが難しいと考えておいたほうがいいと思います。それほど小4期の早期というのは重要な時期だと思います。小学生の間に、中学、高校で自立できる勉強の姿勢、作法というものをしっかりと身につけておくということです。

 小6になって平日5時間の勉強ができるほどになっていなければならない。休日は最低7時間です。わたしが習い事や稽古事、そして部活などに批判的なのは、そういうことに時間をとられている人が受検する、受験するということが、どういうことなのか、わかっていないからです。週の5日は習い事や稽古事でうまっていて、2日だけ竹の会のために空けているという子がけっこういましたけどこれで受検がうまくいくと考えているところが信じられないわけです。親子そろってバカなのか、とにかく現実というものを空想と区別していないとしか思えないわけです。

 なぜ試験に落ちるのか、なぜ試験の結果が悪いのか、ということですけれど、これは「勉強しないから」に決まっています。大学生、いや高校生になればわかりますけど、つまり勉強というものとひとりで取り組まなければならない段階なのですけれど、こういう段階の勉強というのは、何かをマスターするために必要な勉強の総量というものがもう決まっているわです。例えば、英語なら大学受験に必要な英語をマスターするには1500時間なら1500時間必要ということが予めわかっているわけです。この1500時間というのは平日なら3時間、休日なら7時間ほどやってれば1年間でなんとかなる時間です。ただ英語だけではない。数学も物理も地学も日本史も国語もそれぞれに必要な時間の総量というものが決まっているわけですから、それはもう勉強以外に時間を割く余裕など少なくとも普通の人には「ない」と思います。わたしたちはもともとの天分に恵まれた人間を参考にはできないのです。

 中学生というのは、この勉強というものの性質を身をもって理解する機会なわけです。これが小学生になるとそういう勉強というものが総量が予め予定されていてその総量をこなすという対処ができるのは小6の10か月だけです。なにしろ小4では計算もできない、割合も知らない、だから受検というものに勉強総量論で対応するどころではない。しかし、たとえば、小石川なら小石川に合格するために必要な勉強の総量というものは厳然としてあるわけです。それにはできるだけ早くからその総量計算ができる段階にしておかねばならない。できれば小5から総量を算定できるほどにしていたい、そういうことから小4早期に指導開始という発想が出てくるわけです。

 ところが世の中の親というのは実にのんびりとしたものです。小4までは、中には小5までという親子もいますけど、習い事や稽古事は続ける、それはそれで結構なことですけど、確実に総量計算できる前段階の期間を引き延ばし、結局小6になっても時間の足りないという、つまり合格に必要とされる総量が足りない、ということになるわけです。

 これからの10か月、小6のみなさんがどう過ごすか、これにすべてかかっているわけです。とにかく合格するには、ある勉強の総量というものが決まっています。それが1500時間だとしたら、これから受検まで1500時間勉強しなければ受からない、簡単な理屈です。世の中の大半の失敗者というのはこの必要な勉強の総量にはるかに足りない勉強量で受かるつもりでいるわけです。

 それから勉強時間というものは、集中力×時間 で成り立つものです。実質何時間勉強したか、です。体裁だけ10時間勉強したというバカがいますけどそういうものではない。つまり勉強の総量をどれだけ消化して減らせたかが問題なのです。

 稽古事、習い事その他で勉強の総量を確保できない、だから落ちるのです。中には、部活をしながら集中力でカバーするという向きもあるかもしれないけれど、集中力だけでカバーできるのにはやはり限界がある、勉強の総量はやはり必要なのである。

 さて勉強総量説はこのくらいにしておきましょう。

 ただ竹の会のみなさんは塾にきていますから、勉強の総量をある程度減らすことはできるわけです。それは独学でやる際の非効率から解放されているということです。塾というのは、最短距離を示さなければならない。とにかく無駄なことはしない、目的に向けて「効率」を常に示し、最短で導くことを示さなければならない。小学にしても中学にしても竹の会の教材群はそのような目的に資するものであることはもちろんです。高校受験生なら効率よく数学と英語をマスターしていくことができる、そのように設計された指導手順というものが完成してるわけです。

 受験に失敗する子というか、親子というのは、余計なことばかりに時間を使って、肝心の勉強に正味使った時間となると極端に少ない、足りないということなのではないかと思います。中学受験をやる子の親、特に母親なんですが、過干渉、過保護で、やたら無駄な受験情報だけは豊富で、それがなにも身になっていないということは、受験に失敗したことでわかろうというものですが、情報ばかり多くて、正味勉強にどれだけ時間を費やしたかとなると甚だ心許ない。基本勉強さえしていれば子どもには徹底して甘いというのもこの親の特徴です。こういう親の子というのは、高いプライドと自信のなさに特徴的です。自信がないのは、まともに勉強していないということがわかっているからです。ただ自分はほんとうはできるのだという過去の記憶だけが今の自分を支えているように見える。今の自分はまだ実力を出し切っていない、と考えて止まない。ただ他の同級生とは「ちがう」ということを普通でないポーズをとることでアピールするわけです。他とちがう、他があまり狙わないような学校を選んだりするわけです。これはただ他の同級生との競争を回避しているだけなのですが、そうつまり、常に「避ける」、「逃げる」ことで自分を維持しているのです。この人たちの勉強姿勢は常に「手抜きする」ことに特徴的です。まともにきちんと勉強することができない、そしてその結果として試験に向かって行くという気概が微塵もないのです。

 それから勉強に大切なものとして「継続性」というのがあります。勉強というのは、特に、語学なんかそうなのですが、中途半端な時期、過程で勉強を中断すると、もう必ず振り出しに戻る。これについては過去のブログでも再三触れてきたところですが、双六みたいなものです。中断すれはゼロになる。勉強のこつということがよく言われますが、特に、母親が「うちの子は勉強のこつがわかっていない」ということを言いますけど、わたしから言わせればこの母親の言うこつとは、勉強の要領のことなのでしょうが、そんなものはひたすら勉強して行く中で見つけていくもので勉強もしない、いやたいていこういう子というのは手抜き勉強しているもので、問題はそこでしょ。わたしの言う勉強のこつというのはほかでもない勉強の継続についてです。何かこれをマスターするというときです。そういうときは一気呵成に集中してやるべきで、途中で中断したら振り出しに戻る、つまり何も勉強しなかったのと同じになる、ということです。関係代名詞をマスターするために100時間かけるとして、それはもう一気呵成に集中して継続すべきで、途中で中断したら関係代名詞のなんたるかもわからないで終わるということです。勉強というのは何かマスターしたいことがあったらそれに集中して継続して勉強しなければダメだということです。数学なら二次関数の途中で中断したら何もしないのと同じだということです。佐藤優は勉強の踊り場ということを言っている。うまい言い方です。勉強というものを階段に喩えれば、階段の途中で休んではならない、少なくとも踊り場にまで辿り着けば、もう下に落ちることはない、そういう意味です。勉強をしたりしなかったり、解き直しをやらないとか、作文を書かないとか、要するに手抜きをする、そういうことをやっていれば、作文の踊り場、何かの踊り場に出ることはないわけです。総じて、試験直前の不安の正体というのは、ほかならないこの「手抜き」からくる自信のなさなのだと思います。

 なぜ勉強するのか、勉強しなければならないのか、ということがひとつあるわけです。佐藤優は「社会に出る」ではなくて、「社会に入る」ということを述べておりますが、これまで学校と家庭という保護されたところから「出る」という観念はごく普通の発想なのかなと思います。ここであえて「社会に入る」ということを強調するのは、社会に入る入り方を問題にするからです。入るのにどう入るか、が社会なのです。高校出てすぐ入るのか、大学出てから入るのか、一流と言われる大学を出て入るのか、何か資格を取って入るのか、難関国家試験に合格して入るのか、家業を継ぐ形で入るのか、職人見習いで入るのか、なにもなく入るのか、その入り方を問題にしているのです。社会というのはこの入り方で自分の将来の生活、地位、収入すべてがガラリと変わる、ちがうわけです。それが社会です。社会にいつ入るか、そのときに自分は社会に入るためにどのような切符を手に入れているか、そういうことなのです。勉強も何もしない、学校もどうでもいい、そういう形で社会に入ることの無謀さがすくなくともわかっているから親は子どもに勉強させるわけでしょ。そこのところから考えていかなければならないということです。

 よく哲学的に考えるということが言われますし、そのような「何々を哲学する」類いの本もあれこれ出ていますけど、哲学というのは、要するに、人間の根源から説明する、いやもっと存在そのものから説明をしてみる、そういうことなのではないか、と思います。

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