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合格をもたらす、ひたすらな思い

2019.01.22

本番まで 12日 初日不算入本番の日まで

 静かな本番前の時間と空間に恵まれて感謝です。インフルエンザが入り込むこともなく、あるお母さんは、学級閉鎖になったので、本人はいたって元気ですが、6年生のことを思いお休みさせます、と連絡してきた。お心遣いに感謝いたしております。咳が出る、熱があるときは、どうかあと少しだけですので、6年生のために、出席をお控え願えればと思います。

🔵合格をもたらす、ひたすらな思い
 合格する子とは、ひたすらに思い詰めて黙々と努力する子である。その真剣な真摯な思いが、通じる、天に届く、それが合格であった。
 慢心という他人を見下す価値観、人を、世間を見くびった態度、上の位置からの余裕、屁理屈を言う子、総じて、自分の主張というものが、絶対的な子というのは、柔軟性を欠き、失敗しやすい。「うちの子は〇〇が嫌いで」とは、よく母親の言う文句だか、これは、自己主張の激しい子ということであり、わがままな子ということを告知しているにほかならない。受かるというのは、謙虚であり、遠慮深いものである。
 昔から、わたしに失礼な口を利いた子が、受かった試しがない。自己主張の激しい子、軽口を叩いて何かとdisrespectしてくる子、つまりディスってくる子というのは、本質的に、不遜であり、このゆえに受かることはない。頭のいい子には、二通りある。謙虚な子と不埒な子、不遜な子である。これと呼応するように、親にも二通りいて、慎み深い親と、多弁な親がいる。多弁な親は、心の底では、塾の先生に信頼を置いていない。自分が、自分の考えが、判断が、一番だと信じているからである。多弁な親は、言い訳をよく言う。しかし、最後に必ず自分の子の優秀さを誇示することは忘れない。というか子のことをはっきりと自慢する。合格者の親で、自慢した親を知らない。もちろん学力不振の子の親が、自慢することはないのは当然で、ここでの対象ではない。子が、優秀なのに、謙虚な親というのがいる、のである。
 自分の子の能力を自慢する親には、何か危うさを感じる。確かに、成績もよく、優秀なのであろうが、その慢心した精神に何か不穏なものを予感してしまう。こういう母親は、不合格がどうしても受け入れられず、「落ちた」ことを認めることに抵抗する。が、切り替えも速くむしろ落ちた方がよかったというような正当化をすることで切り替えていく。
 屈託のある子は、優秀でも、受からない。小6の夏休みの課題学習で、周期ゼミについて夏中調べた子がいたが、知能の高い子特有の興味あることにはのめり込む性癖が、裏目に出る。
 自己の殻に閉篭もる、知能の高い子の、失敗確率が高いのは、素直に従えない、どこかに自分流を持ち込もうとするからなのかもしれない。
 合格する子には、不思議と共通したところがある。
 学びの姿勢は、どこまでも謙虚で、真摯である。師に対する姿勢は、礼儀正しく、敬愛の念に満ちている。
 合格する子の知能は高い。ただし、知能的には、並でも、学問に対する姿勢において謙虚であり、努力を惜しまないという子が、受かったりすることがある。あるいは、国語IQの高い子が受かることがあるのも適性ならではのことである。
 合格する子は、精神年齢が高い。総じて男の子というのは、保育園児並の幼さを持ったまま成長するために、行動が幼く、ふざけるのが好きで、甘えた性格、他人のせいにする、つまり責任観念が不在である。そういう子が、多い。合格する男の子というのは、精神年齢の高い子である。
 責任感のある子、これは多くの合格者に共通する。合格者に、課題を疎かにした子は皆無なのも、このことを裏付けている。課題をスルーして1年過ぎたら、その差はもはや絶望的である。数センチのバインダー2、3冊にはなろうか。一年間作文を書き通したという努力の積み重ねは、短期間で挽回できるはずもない。
 合格する人は、実行の人であった。知能優秀でも実行しない人が受かることはなかった。
 習い事、稽古事、スポーツに明け暮れる人が受かる確率は1%と考えていた方がいい。世の中には、知能が高くて、実行力もある、スポーツ能力も高いというスーパー少年がいることは認める。しかし、それは1%にも満たない、0.01%であろう。
 だから普通の人が、掛け持ち、両立などやって、受かることは100%ない。
 週1だけ習い事とか、土日はサッカー、野球とか、そういうことをやって受かろうと思っている人の頭の構造がわたしにはわからない。物事は、集中して、初めて成就すると信じている私には理解困難な人たちである。
 落ちたという人たちについて、思い起こせば、私には、ありえない行動をとる人たちであった。
 思いつくままに落ちた人たちの、受かった人たちは絶対にやらなかった行動というものを羅列してみる。
  ●空手の昇段試験でお休みします
  ●珠算の昇段試験でお休みします
  ●ピアノの発表会でお休みします
  ●連休は家族でキャンプ旅行に行く
  ●夏は一週間前後の実家帰省
  ●法事という名の実家帰省
  ●家族旅行
  ●サッカーの合宿
  ●バトミントンの試合
  ●バトンの練習
  ●サッカーの大会
  ●夏休み海外にホームスティ

 やったから落ちたというのでなくて、受かった子は決してやらなかったという事実を示しています。
 あと、子ども単身で遠くに住む、年老いた祖母、祖父に会いにやる。これについては、28年九段合格者が、小5の春に北海道に行った例があります。普段は勉強に専念する子の場合、影響は小さかったということか。
 大きな考え違いをしているのが、例えば、一週間の実家帰省が、疲れ、前後期間の精神の高揚、休みボケ、怠け癖といった副次効果から、一週間では済まないということである。親や子は、一週間だけと単純に考えているが、その損失は、計り知れない、致命的なものになる。
 勉強の中断のもたらす効果については、このブログの別のところで述べているので、参照されたい。

 最後に、合格する子の親には、切実な、ある意味思い詰めた思いがある。子のことを心底思う気持ちがひしひしと伝わってくるほどに、堪えているような健気な姿がある。
 不合格となる子の親には、何か傍観しているところがある。離れたところから見ている、そういうところがある。密着という言葉がそぐわない。子をどこか突き放した見方をしているような、そういう感覚である。第三者的に、客観的に、見ている。そういう親の子というのは、やはり不安定のような気がする。その不安定さが、実行できない、ことに、弱さに表れているように思う。
 子というのは、いつも母親や父親に見ていてほしい、関心を持ってほしい、そう思って勉強している。親が、傍観者では、どうだろうか。逆に、親が口うるさいのはどうだろうか。いつも言葉は少ないけど心配してくれる母親、一緒に悩んでくれる母親、そういう母親が、子を育てているのではないか。
子が、実行するのは、母親の深い慈愛にかかっている、一体感の故でないのか、そんな気がする。

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