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合格道一直線

2021.10.30

 

合格道一直線
 
 「しんにょう」と「首」。
 白川博士は、夷狄の生首を手に下げて夷狄の地への道を清める、というようなことを言っていましたか。
 あなたたちは自分の足で踏みしめながら道を歩いていますか。
 道を外れることなく歩くのはなくなかに難しいものです。
 道が外れていないかどうか、を知るのは、比較的簡単かもしれません。出したレジュメがほとんど不合格なら残念ながら道は外れていますね。道を歩いてはいません。合格すると一歩前へ進める、そういうことなのです。
 合格がなければ前には進んでいない。だからできないからといって解説を読む、説明を受ける、それで終わらせて、次の問題に移る。しかし、それで力はついたわけではない。いや、全くついていない。少なくともそういう人の歩いている道は合格道ではない。迷路を歩んでいる、そう思って間違いない。
 わからないからと解答を読む、それで「ああ、こうやって解くのか」と覚える。解き方を暗記する。それで次の問題へと進める。これで何が育つのか、培われるのか。
 自分で発見する感動、喜びは全く経験もなく、ただ他人の書いた解答を読むだけで何が遺るのか。
 考えるというのはそれほど単一なことではない。
 語彙の絶対数、読書量、論理的な思考の体験、基本的な知識の理解の深浅、問題数経験量などが思考のレベルを左右する。
 高度な思考レベルに達するには、様々な基礎知識が必要である。
 竹の会は、算数、特に、割合を思考突破の鍵と見抜いた。多くの公立小に広がる算数難民割合難民を知っているか。学校で割合の授業を受けても彷徨う子たち。塾で割合を学んでも形式的な、形、表面だけの理解しかできない子たち。竹の会はこうした多くの割合難民を救済できる方法を発見し、体系化し、実際に、救済してきた。どころかわたしの指導を受けた子たちが眠っていた能力を開花させ、のびやかに脳力を伸ばしていく様はまさに奇跡の軌跡であった。都立中受検を契機として、能力を開花させていった子たち、それが竹の会の子たちである。
 そういう子たちでも、合格道を独歩するのはさらなる高い能力が必要とされる。
 わたしは教える者ではない。あなたたちが将来、近い将来一人歩きするまで手助けしているだけである。だからいつまでたっても介護が必要な子は竹の会の対象ではない。私が入会試験をするのは、少なくとも道を歩ける、そういう子でなければならない、という確信からである。竹の会の入会試験に問題があることは承知している。何よりもやや易しすぎることである。この試験に合格しても道に入れない子が出ているのは、そのためであろう。もっとも懸念しているのは、兄弟姉妹が入会試験を受けると何故か合格率が高いことである。兄や姉の受けた入会試験問題を事前に練習したのかと疑いたくなる。なぜって、入会後指導困難な子が出るからである。
 道を歩くとは、どういうことか。
 自分に正直に生きることである。ごまかして道を歩いても仕方ない。親に助けてもらって道を歩いても仕方ない。自分で本当に理解したのか、できたのか、常に、自分に質さなければならない。他からどう思われるか、そんなことはどうでもいい。自分が考えたこと、結果に一喜一憂しない、自分の考えをひたすら検証する、それが道を歩むということである。
 あなたたちはしっかりと自分の道を歩んでいますか。数には単位をつけるのは、単位が解き方の正しい方向を教えてくれるからです。単位をつけるというのは、常に、定義に戻って考えるというスタンスを身につけることになるのです。
 考えることを身につけたなら、もう何も恐れることはありません。一つ一つ、一文字に気を配りながら、慎重に、いや丁寧に思考を積み上げていきましょう。
 思考というのは、積み上げる手順が凡そ決まっています。
 時系列というのは、事実を整理する時に便利です。
 事実の整理、思考の整理には、「論理的な整合性に気をつけていきます。論理的に前提となるもの、論理的な前後関係に、注意します。論理的かどうか、を確かめるには、「したがって」で前後がつなげるかを検算してみるといいでしょう。
 「常識的」というのは、大切な分析道具です。「普通ならこうなるのに、なぜそうなっていないのか」、これは、コロンボ警部の思考でしたね。普通でない理由が必ずあるというわけです。
 考えるというのは、問いかけから始まります。
 それにしても、常識というのは、かなり情緒的な概念かもしれません。自分では常識と思っていることが、他人には常識ではない、ということがあるからです。世の中の人が、「常識だ」と叫んでいるのは、必ずしもそうとは言えないのが、常識のようです。
 翻って考えて見れば、これだけ価値が逆転する社会ではもはや常識なんてないのかもしれない。
 常識的な結論とか、常識的な○○なんか、そもそもないというのが常識なのか。
 コロンボ警部の「普通なら」の論理は、普通の人ならこういうときはこう行動するだろう、という経験則から疑いを持つものです。先ほどの常識が成立しないというのは、そういう普通の人ではないからです。普通では考えられない行動をする人が多数をしめるようになるともはや普通の論理などない。しかし。それでも人間は人間であることから取るであろう普通の行動からは解放されないであろう。新型コロナが日本人の特異性を炙り出した。それにしてもテレビのワイドショーなど見る気もしないが、芸人がまともな人間の振りをして、程度の低いテレビ局スタッフが低俗な番組を世論の代表などと勘違いして害悪を振り撒き、踊らされるのはIQの低い人たちである。テレビの視聴者層というのはかなり低いレベルに設定している。ワイドショーが害悪を振り撒けばたちまち街のおばちゃんやおどちゃんたちがスーパーに駆けつける。思考なんてなにもない。直感で行動する人たちである。
 「普通」というのは、自分の思っている普通です。その普通が一般の人の普通と齟齬がなければ普通論理は成り立ちます。つまり、偏見のある人、頭の硬い人、宗教なんかに凝り固まっている人、何かの洗脳を受けている人には普通の論理は通用しない。とにかく頭が自由でなければダメということです。
 先入観念という呪縛
 試験では、先入観念の呪縛で自爆する人が多い。思い込みほど判断を狂わせるものはない。こうだと決めてかかる。そうなると重要な事実にも目をくれず、自分の思い込みに合わせてものを見てしまう。
 この呪縛を解くには、根底の「ねばならない」を砕かなければならない。「合格しなければならない」、だったら「合格しなくてもいい、今の自分の力を尽くせばそれでいい、だっていくら背伸びしたって、自分以上のものは出せっこないんだから」と。
 「解けない、難しい、だったらみんな同じはずだ、俺はできるほうだった、その俺が難しいと思うのだから、みんな難しいと思っているのに違いない、だったら、落ち着いた奴が勝ちだ、解けなくてもいい、自分の今の力でわかることを書けばいいんだ」
 これである。
 試験なんて、所詮過失だらけの人間を試すものなんだ。だったらできだけミスをしないように注意深く読み進めていこう。
 一歩下がって全体を見回すのだ。ボクシングの竹原さんが、喧嘩自慢とスパーリングをやるのを見たことがある。喧嘩自慢は全身の力を振り回して体に力が入りまくり、竹原さんはそれを身体の力を抜いて下りながら流していた。感心したのは、常に相手の全体を見ていたことだ。これを余裕というのだろうか。とにかくよく相手を見てい。相手の全体を見ながら無駄な力をほとんど使っていない。相手は腕を振り回し、すぐにガス欠状態でもうフラフラだ。
 竹原さんのすごいところは、力を抜くところは抜いて、全体を鳥瞰し、相手の隙を見て一瞬のパンチを繰り出すところだ。
 そうなのだ。冷静になるとは、全体をよく見て判断することだ。
 大切なのは、力を抜くべきときは抜くこと、四六時中力一杯なんてできるわけがないのだから。
 合格道を歩むというのは、この竹原さんの姿勢に学ぶことができる。無駄な力は使わない。常に、全体を見ながら、自分の位置を見る。そして一貫して全集中する、である。
 こうして、最良の合格道は、普通を磨くこと、普通とは何かを常に問い続け、普通の感覚を研ぎ澄ますこと、そこから普通ならこうなるのに普通でないところに目をつけることである。
 合格道とは、普通を極めることである。普通を身につける。普通でないことは捨てる、でいい。
 パーレットの2-8法則というのがある。大切なのは、全体の2割である。残りの8割は捨てる。
 本当に重要なことは全体の2割である。合格する人は、重要な2割を知っている人である。
 我武者羅にやっても心は混沌とするだけである。知識を無闇に追い求めるな! 心の中に2割の大切なことだけを残すだけでいい。
 普通の感覚を研ぎ澄ませて心静かに道を歩く普通の感覚こそがあなたたちを合格に導く羅針盤となる。
 
 

 

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