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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

塾難民都市東京/日比谷、慶應に受かるには/都立中高一貫校受検は落ちるのが普通の試験

2018.03.20

   ◎この東京にまっとうな塾などというものがいったいあるのか 

 塾難民という言葉を使った人がほかにあるかは知らないが、とにかくわたしの造語である。さまざまな子たちをもう30年以上見てきた。進学大手のトップにある天才たちの話しではない。多くのその他大勢の子どもたちの話しである。いったい塾は1年も2年も通う子たちに何を教えてきたのか。計算をやらせればろくにできない、割合の問題を解かせればちょっと表現が変わったらもうダメ。そのくせ親はテキストは終わった、とそれでもう次の段階へ進んでいることをあたりまえのように言う。子どもの学力のほんとうのところを何も知らないのである。ただ塾のテキストが終わっていること、授業が終わったこと、それでマスターしたと信じている。子どもの中身はほぼ空っぽだということに気がつかない。

 わたしは塾というものに懐疑的な人間である。まっとうな塾など見たことがない からだ。子どもを真のアホにしてしまう、巷の塾の罪は深い。親たちに蔓延る大手志向、至便な駅前塾を選ぶ傾向、そういう選択が、実は、取り返しのつかない結果となっていることがわかっていない。だれかに指摘されるまで自分の不明を悟らない。たいていは試験に落ちて、それでも自分の選択の誤りには気づかない。だから中学でも同じ間違いを必ずする。大手や地元塾に入れて、中3になってまともな都立を受けられないという事態に直面して、低偏差値私立の単願推薦で幕を閉じる、これが多くの親たちの歩む道である。

 あなたたちが、大切な我が子を通わせている、今の塾は、1年、2年かけて、子の大切な、飛躍の機会を無にしてしまう選択であったということを知る時が早晩来るでしょう。いや、だから竹の会に来い、というわけではない。竹の会は、時期を逸した子の指導など、やりたくはないし、その時間もない。わたしは、世の親たちの愚行を哀れんでいるだけだ。 わたしが竹の会でどうこうしようという話しではない。 ただ、世間の親という親が余りにも、塾というものに 騙されている現実を、言わずにはおけなかった。塾というものは偽物ほど組織だって見える、に違いない、とわたしは思っている。りっぱな建物、受付のお姉さん、教室、パンフレット、教材、講師、その他諸々の諸装置を見て、信じてしまう、こんなりっぱな装置なら我が子を託しても心配ないと思ったかどうかは知らないが、あなたたちを騙すには十分な装置ではありました。 あなたがたは、本物の塾が分かっていない。 子が生かされていないということを知るには1年、2年と経って後の話しとなろう。そういうしくみになっています。実によくできたしくみです。大手ならたいていは落ちこぼれるべくして落ちこぼれます。近くに「ある」、それだけで通わせる、そういう親もいます。それなりの外観と体裁を備えた教室に、騙されて、子を通わせる、 一年経ち、二年経ち、為すべき訓練をなされなかった子はバカに仕上がる。 そもそも千差万別の子をまとめて見る、つまり処理するわけですから、ひとりひとりが「できているのかどうか」など知ったことではないのです。そもそもが集団でまとめて子どもを教えるなどできないはずなのです。それをカリキュラムどおりに進める、テキストの目次どおりに進める、学生講師もその与えられた項目をどこまでわかっているのかどうかは知らないがとにかく授業の体裁で進める、それで1年経ち、2年経ったでどうなっているか、ということです。そんなシステムに子を預けていったい何を期待しているのでしょうか。

 わたしが塾で失敗したと思われる親子と面談して、驚くのは、そういう塾というものに騙されたという意識などないこと、いやむしろ「いい」塾だたったとさえ思っている節があることであった。彼ら彼女らにはいい先生にいい塾だったのでしょう。しかし、わたしがチェックした割合の理解力判定問題には全く手も足も出ない、わたしには、いかにいい塾かは知らないが、竹の会の子たちなら難なく解いてしまう、割合の問題も解けないような塾が、いい塾といえるのか、そんな思いに駆られる。いったい「いい」とは何がいいのか。

 笑えるのは、ネットなどに塾のナビサイトみたいなものがよくあるけれど、「いい塾」としてランク順に紹介されているのが、大手さながらなことである。いったいこのサイトの主催者がほんとうに取材してそういうランクをつけたのか、というと、それはないでしょ。カネ出した順にランクしたのかな。そういうランクを信じて親は選ぶのだろうか。竹の会を調べたけどまったく出てこなかった。

 東京に本物の塾を探すことは至難なことではないか。親は自らの足で赴いて自分で確かめるぐらいのことはしてほしいものである。わたしなどは長い間塾というものを見てきたので、世間の塾という塾はそういう塾なのではないか、そう疑ってしまう。テキストを使って集団に授業する、そんなことは不可能のはずである。 塾に子どもを預けて、熱心に通わせる、確認テストを受けて、授業を聞いて、宿題をして、とにかく熱心に親は通わせるわけであるが、一年、二年と通わせて、結局なんの力もついてない、それが真実である。塾というものの、どこを信じているのか。

 それから竹の会ももちろん塾のひとつですけど、それも無名で小さな、個人塾ですけれど、既存の塾とは一線を画しているつもりです。 竹の会は、常に、ダメなら、退塾の姿勢です。 退塾をさせないために、引き留めるために、阿る、媚びる、つまり、塾の本来の目的を犠牲にして、曲げて、子に厳しい態度を貫けない、そういう塾では、ありえない、ということです。子や親に阿る、媚びる、塾は、結局子にいい効果をもたらさないということ、 それがわかっているからです。

 🔵塾難民社会 の定義

 ①塾に行けない子ら‥真正塾難民

 ②塾には行っている‥不真正塾難民

 ①は、経済的理由。この中から、天才が、公立中で、頭角を表すことがある。しかし、塾に行かないことが、裏目に出て、並の都立へ進む天才もいる。時として、真の天才が、いることもある。塾なしで推薦で上位都立に入るという子らである。  ②は、元々の天才以外の子が、塾に行った場合を前提している。

 ア‥大手進学塾型

 イ‥大手公立中高一貫校専門塾型

 ウ‥中小進学塾型
 エ‥中小補習塾型

 注釈 ア型は、落ちこぼれという烙印を押されて終わり、イ型は、使いものにならない、バカになって、終わる。 ウ型は、ア型の亜流。落ちこぼれは変わらないが、ア型よりは、面倒を見てもらえる。正確には、介護してもらえる。 エ型は、介護型塾である。一生介護が必要。 介護というのは、独り立ちをさせるということがないところに本質がある。こういうエ型の塾に通わせる人たちについては何も言うことはない。それしか選択がなかったということもあるからである。

 塾は、介護ではない。できないなら「わかるまで教える」とか、できない子には無料で何時間でも補習するとか、何を言っているのか。そもそもその前提にある塾とは、教育とは、教えるところである、というのが、間違っているのに、わからない。「わかる」というのは、基本訓練を積み重ね、段階的なステージをそれまでの基礎の枠組みで考えて解決していく過程のそのそれぞれについて言う概念である。難しい問題をわかりやすく説明してわかってもらうというのは、完全に間違っている。既存の塾の先生はそいうことがまずわかっていない。つまり、学ぶ側の頭の耕しができていないのである。そういうこともお構いなしに「教え方さえうまければわかるようになる」と考える塾の先生がいるのにはあきれるが、それが今のほとんどの塾の先生なのであろうから、困ったものである。

 🔴部活で受験を棒に振るの愚 

 部活に流されて勉強しなくなる、平凡な中学生の行き着く先は、「しかない道」を進むしかない。いいことは多分ない。今の世の中は、勉強しなければ、たぶん一生社会の底辺に「いる」ということになっている。 都立といえる都立に行け‼️  駒場、新宿、小山台、青山、戸山、西、日比谷。多摩地区なら、国立がある。八王子東もいい。 中学生の1日の勉強時間は最低5時間と心得よ。もし戸山、西、日比谷をめざすなら、当たり前のこと。 受検が終わったら、途端に勉強しなくなるバカ、親も受検で大変だったからと大目に見る。こういう親子は勝手に脱落していくだけだから相手にしなくていい。 中学というのは、受検で頑張った以上の勉強をして、初めてまともな高校へ行けるのだ。凡人中学生が部活に時間をとられて勉強を疎かにするというのはもう嫌と言うほど見てきた。いつも落ち行く人は変わらない道を歩む。体育会系の部活で連日練習に明け暮れて、勉強時間が「ない」という人たちが、いる。それでも都立といえる都立をめざすとき、どうしても失敗のリスクは高まる。凡人は勉強にだけ専念しても成功するかわからないのである。凡人が部活と両立させるなどはありえない。

 今は新階級社会と言われている。固定化されていく貧困層と学問で道を切り拓く新富裕階級が社会を構造化していく。さきほど社会の底辺に「いる」道を選ぶと言ったけれど、貧困階級は何もしない、不作為、怠惰でさえあればいい、選ぶのではなくて、落ち行く先である。富裕階級に属するには、勉強する以外にないのである。勉強をまず考えることてある。部活に出ないと、部活の顧問に恫喝されたとか、内申で脅されたとか、よく聞くけれど、それで部活を優先させて、都立に失敗すれば世話はない。そもそも人間は生まれたときから生存競争にある。ところが過保護の親は、この自覚がない。できるだけ子に競争から遠ざけようとする。だからひ弱な子が育つ。過保護ゆえにわがままで、なにもかも満たされていることをまるで自分の力のように錯覚する。親は社会に出て使いものにならない子を作っている。過保護、甘い親からは、競争回避の弱い子ができる。面白いのはそういう子ほど自慢好きという特長がある。自慢好きな子は過保護でわがままに育てられた子である。人生が生存競争であることを自覚して、この熾烈な階級社会を生き抜くには、ひたすら勉強して、勝ち抜くしかない。部活というものが競争回避の、ただの自己弁護の道具にされないことを祈る。言い訳言って、勉強しないのは勝手だけれど、貧困階級へはそういう言い訳など関係なく勉強しないというただその一点で流し落とされる。

 

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