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大手塾の偽装と「体験」という親の精神構造

2015.11.03

 おはようございます。新しくなったホームページのお問い合わせフォームが実は旧のままだったということが分かり慌てて制作会社に手直しをお願いしました。今は、実は、ウェブ関係はすべてわたしの手から離れています。過去の「草枕」の整理もわたしが手がけものではありません。旧「草枕」には検索機能が新設されています。そこに例えば「回顧録」などと検索をかければたちまち過去の記事が出て参ります。

 竹の会の初の全国出版となる「ミクロマクロ 魔法の算数」の原稿が上がり、校正にまわっています。「はしがき」も「あとがき」も原稿をさらりと書いて、その他の編集もわたしの手から離れました。わたしのやるべきことは終わったので、少し解放されました。それでも出るまでには3か月はかかりそうです。

 わたしはとにかくこれからは受験指導に専念したいと思っています。今は、「適性問題Ⅲの研究」、「適性問題のための計算」、「独自校の数学第2集」を仕上げることに専念しております。「独自校の数学」は、まず問題をコピーして、それからすき間時間に解くことから始めます。解いたらレジュメ化します。勘が鈍ったのか、解の道を見つけるのに時間のかかることもあります。たいてい先入観念、あり得ない道にこだわったことが原因です。人間というのは、思い込みの神話、呪いにかかると、もはや逃れられない、という気がします。

 この前の日曜は、「体験したい」という母親と「見学」ということで約束していましたが、結局来ませんでした。これまでにも何度かありました。「体験」させてほしいという問い合わせの場合、こういうことはよくあるのです。大手の塾が「無料体験授業」というものを新学期などに組むことがあります。あれは結構効果があるそうで、たいていの親があれでそのまま入塾するらしいです。その流れで竹の会にも以前は「無料体験をさせてくれ」というのが結構ありました。大手のように授業1コマなんぼでやっているところでは、つまり、時間を切り売りしているところではその流れもありなのだと思いますが、竹の会では考えられないことです。

 まず、竹の会には授業というものがない。竹の会では指導という概念を使います。それは子どもの考える能力を引き出し育てるというところに着眼した概念です。指導はある程度の期間を見込んで育てるという思想があります。だから時間を切り売りするという発想はない。だから竹の会では振り替えをやらないのです。1回振り替えて休んだ分に見合う何かを売るという発想はありません。考えさせるというのは、平気で1時間、2時間費やす。その振り替えなど意味がないのです。よく退塾するとき残り2回なり3回なりを出るというのも意味がない。指導とは将来に向けての見通しをもった概念であり、これから止めようという子に将来の見通しをもってあれこれ指示することはないのです。ただ時間を消化して親の気が済む、というのは、そもそもその親が竹の会の精神を理解していなかったということでもあります。だから退塾するのでしょ。

 体験を希望する母親の心理というのは、前提として塾を疑っている、それで本物かどうか見定めたい、という心理がある。それが筋なのでしょう。しかし、現実は違う。まず体験を言う母親はたいてい過保護である。塾が子に合うかどうかを考えているにすぎないのである。つまり、子どもに合わせた塾を探しているのである。子どもが環境に合わせるのではなくて、子どもに環境を合わせようとするのが昨今の母親である。が、さらに母親の心理は、すでにして、実はぶれていない。こういう母親というのは権威主義的であり、たいていは大手に心を置いており、結局いろいろと無駄な動きをして、周りを騒がせて、大手に行くことになっているのです。

 大手とはそんなにすばらしくて、信用絶大なところなのか。三井不動産や野村不動産の販売する住宅のモデルハウスを見学に行ったことがあります。中の設備は感嘆するものばかりでした。耐震構造の模型もすごかった。これだけ至れり尽くせりの工事をやっているのかと私の脳から懐疑が吹き飛んだ。みな大手だからと信頼する。しかし、実はそうではなかった。「選択」という雑誌を購読しているのですが、大手の手抜き構造はすさまじいものであった。わたしたちが信頼の根拠とする大手というのはその存在だけで根拠たりうるものなのか。

 大手塾というのも同じである。宣伝にかける資本は半端なものではない。大手というのは主たる業務は親の洗脳ではないかと思うほどに宣伝にかけるカネは巨額である。わたしから、言わせれば、大手というのは、偽装と虚構にカネをかける、張り子の虎である。実がないのである。実体がないと言ってもいい。

 大手の実績は大手が作った実績ではない。もともとの天才を集めた結果にすぎない。大手がバカを集めて天才にしたわけではない。1%の天才がいれば、あとは99%のバカを集めるだけである。体験でもなんでもバカな母親を騙す手は完璧である。豪華なパンフレットには学歴はあってもまるで見識のない母親を騙す言葉が散りばめられている。教材も見た目で動く母親には刺激的なのであろう。なぜ1%の天才か。竹の会の子どもたちが大手の主催する模試を受けたら、2000人の大手生の上位1%のところにいた、そこから推測しただけである。 竹の会は別に天才を集めたわけではない。まあ学校で「よくできる」を比較的そろえた子にしぼってはいるが、とにかく1年かけて思考を鍛え上げてのことである。

 それからわたしは「教える」のではない、「指導する」のだ、ということをよく言うけれど、仮に「教える」ということを捉えてみても、自慢ではないが、わたしほど「教える」のが天才なのはいない、であろう。わたしは、もう30年間子どもの心理と付き合ってきた。「わからない」という子どもの意識と対してきた。曖昧、漠然、不明瞭が支配する子どもの脳、意識と対してきた。子どもの意識に思考の枠組みを設置するのが「教える」の意味である。子どもが考えるときの根拠、枠組みをまず用意してやるのである。それから子どもの不明瞭な意識に明確に命名された概念を認識させていく、漠然としたものに名前をつけてやるのも教えるときのこつである。なんで急にそんなものがでてくるの?という疑問をかぎ取って、名前をつけてやるのである。見たこともない犬に名前をつけてやるのも同じ発想である。子どもは名前をつけてやると安心するものである。子どもの意識を読み取りながら、次の手を打っていく、これが教えるということである。子どもがとうてい理解できないステージの問題をなんとしでも、わかりやすく教えてやるという塾の講師や家庭教師は、ただの教えたがり屋、教える側の天才、つまり自分のことしか考えていない、実はアホである。そんなこともわからないで「あの、先生は分かりやすい」、「子どもと相性がいい」など宣う母親がいるけれど、なにも分かっていないアホである。「子どもと相性がいい」などという意識をたどれば、子どもに合わせた環境を求める精神構造、つまりは過保護の構造が透けて見えるでしょ。

 

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