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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

大手塾(エナ・栄光・日能研・四谷大塚など)という選択~竹の会を知って知る本物の塾というもの

2016.04.02

 おはようございます。今日は一日曇りのようです。やはり桜には青い空が似合う、降り注ぐ日光の下で仰ぎ見る桜は青いキャンバス地に見事に桜のピンクが映えて絶妙である。そういう桜を見たかったけれど今日は曇り空、どんよりとしたねずみ色のキャンパス地に桜を重ねるのはどうも気が重い。 

 本年小石川に合格した女子は、一番遅くに竹の会に入塾して先に入塾した子たちが先に進んでいることを天文学的な差と感じて、とても追いつけないのではないかといつも気にしていたということです。結局、いちばん遅くに入塾した彼女が合格したのは皮肉な結果でした。何がちがったのか。彼女は、早稲田進学会の模試を6回受けて5回成績優秀者として名前をのせています。一度だけずっこけたもののそのブレのない安定ぶりは随一でした。どんな難問が出されても、他の竹の会の子たちがそのために「死んだ」と騒いでいる中、常に名前をのせていたのです。いや竹の会でレジュメをこなしていくうちにいつのまにか古参の子たちを追い抜き、合格はんこをとり続けていたのです。 

 何がちがったのか。それは勉強するということにブレがなかったからでしょ。他の小石川組の子たちが高い知能を有しながら成績がブレまくっていたのは普段の勉強に斑があるということでしょ。特に、小5の2月から小6の8月までのわたしが最も重視する期間に悔いなく勉強したのは小石川組では彼女だけでしょ。夏にわたしはよく勉強時間を訊いたものですが、彼女はどんなに少なくても7時間弱という返事が返ってきました。他の子たちが、3時間とか、4時間弱ばかりで絶対的に、合格に必要な勉強時間の物理的条件を満たしていなかったことは明らかでした。勉強時間が極端に多かったり、極端に少ないという人は、全体に勉強時間は少なく、成績もブレているものです。特に、趣味やスポーツ、習い事、稽古事で勉強しない日がある、いや特にそういうこともないのに勉強しないという子もいる、それはただ「ほどほどに勉強する」という本人の性格からくるものですが、そういう子ほどもっとも充実して力をつけていくべき時期にブレるものです。そもそもの物理的必要時間の不足はじわじわと効いてきます。

 こういう勉強への態度というのは、子どものテンションに見事に反映されるものです。合格する子というのは、ブレのない子ですが、冷静で感情の起伏というものが普段は小さい。これとマイナス思考の暗い性格とは区別しなければならない。何事にもセーブする力がはたらき、全力を尽くそうとするパッションに欠けるという子です。「ほどほど」のところで満足してしまうのです。合格する、ブレない子というのは、素直で、従順で、明るい子です。これに対して、感情の激しい子、感情の起伏の激しい子というのは、受検には合わないと思います。失敗する蓋然性は限りなく高いと思います。後から、合格した子と落ちた子をこの基準で見てみるとよくわかるはずです。勉強というものを感情でコントロールしようとする子は感情がブレれば勉強は不安定この上ないでしょ。普段から騒ぐ、ふざける、そういう子というのは、実は見込みがない。そういう視点から見込みがないわけです。感情でいちいち反応しているからです。勉強に対しては常に理性的であって、冷静であり続けられ子が成功するということです。

 知能が高い子に限って、自分の力の何分の一で「終わった」ことにするものです。あるいは、その程度で満足し、その余の時間を他のたわいのないことに使うものです。たわいのないこととは、趣味であったり、スポーツであったり、読書であったり、ととにかく息抜きと評価されるものです。要するに、全力を尽くさない、出し切らないのです。失敗して当然でしょ。

 勉強とは全力で立ち向かうものです。全力を尽くすものです。自分の力をセーブして受かろうなんてありえない。自分がどれだけのものと思っているのか。自惚れるのもいい加減にしてほしい。野球やサッカー、空手、珠算、習字、ピアノ、まだありますか、なんでもいい、やるのは構わない、だがそれで「合格する」と言えるには、勉強に全力を尽くしたか、という問いに、イエスと答えられるときだけだ。すべての時間を勉強に捧げてもどうなるのかわからない、すべての時間を勉強に捧げている人と比べて自分はそれでも受かると言えるのか、である。それでも受かると考える、自分をそれだけの天才と思うのは勝手だけれど、判定するのは、自分ではない。総じて、試験を舐めるということである。

 竹の会を知らない方はもちろんわからないでしょうけれど、竹の会に入塾された親子というのは、決まって同じ反応を示されるものです。子どもはたいてい「竹の会が大好き」になります。わたしと面談するとたいてい子どもは緊張感とわたしの外見から「恐い」と感じるようなのです。ですが実はわたしが優しい先生だとわかるのか、慣れてくるとみなニコニコしています。子どもがニコニコするのは、もちろんそういうところではありません。ずばり勉強がわかるようになる、わかりながら進めている、という実感があるからです。事実、客観的に見ても、勉強は確実に前に進められています。ただし、入会試験を経たはずなのにどうしてもこのセオリー通りにいかない子というのが超例外的にいることはあります。セオリーどおりに勉強が進む子というのは、勉強が楽しくなるものです。竹の会に入塾すると、たいてい親御さんが子どもの変化に驚嘆しますが、変化の起こるのは知能の高い証拠でもあります。このような竹の会の指導の中では、1日休むとかなりに遅れるということが特にできる子たちの通念になってくるようです。1日休むとこなせるレジュメの量で大きな差が開くからです。レジュメが家庭学習でやれるものならいいのですが、指導が必要な指導レジュメが多くなると、実際に出席してでなければ進めることができないということがあります。竹の会では、入塾時期に1か月の差があるというのは、初動の指導でも、直前期の指導でも、大きな超えがたい差になっていることを実感するはずです。

 今年も4月23日九段で行われる公立中高一貫校を知る会に合わせて、竹の会ではチラシを配付する予定です。小5・小6対象ということですが、小6ならもう大手などに通っているでしょうから、小6に配っても無視されるのはあたりまえで、また竹の会としても小6に入ってもらいたいとは思っていませんので、無駄を承知で配付しています。辛うじて小5のみなさんに読んでいただきたいという思いですが、実は小5でもやや遅い感は否めない。特に、小石川志望だときつい。竹の会としては、新小4がほしいところです。

 情報不足・知識不足、そのために選択を誤った、と言って(自己弁護して)いいのか。

 情報に根拠も与えないで、信じる人のなんと多いことか。多くの親たちの入手できる情報は、大手のもの一色である。大手側からの好意的な情報にのみ接する機会しかない。いやこれだけインターネットが普及した時代にはそれはない。ただそういう親たちが怠慢か、心情的なだけなのだ。大手という判断は、その時の判断としては、心情としてまちがっていなかった、という親たちの自己弁護は、山本七平の指摘のとおりである。

 そういう論理はなににも使える便利な嘘である。世の親たちは、山本七平流に言えば、「これが正しい」ということを、まるで幾何学の証明のように証明してくる何かがあるかのように信じている。だからこそ選択のあやまりを認めないで、心情的にあやまっていない、などというのである。そうなのだ、親たちはすべて実は「心情的に」判断しているにすぎないのだ。

 人というのは、まず「心情的に」信じる。次に、その信仰を裏づける情報しか耳に入れなくなる。そしてその人が自己の信仰や主義に誠実であればあるほどそうなる。(山本七平)。

 だから大手を信ずる人というのは、誠実な人、まじめな人が多い。そういうまじめさが、最初に自分が「信じたこと」以外には目もくれなくなる由縁である。しかし、幾何学的証明のように予め正解があるわけではないのだから、根拠のない情報を信じたことの代償は身を切って払わざるをえない。その選択の失敗は、ひとり親だけの心情的弁護で終わることはなく、子の未来にかかわることになる。

 この原稿を書いていて、わたしはわたしたちの「選択」というものが、もたらす結果の重大性、リアルさといものを思わざるを得ない。「選択」にどんな客観的な根拠というものがあったのか、と考えざるを得ない。いったん「選択」すると、まじめな人ほど、その信仰を裏づける情報しか耳に入れなくなる、というのも示唆的である。受験生には、いったん「選択」したのになかなか心が定まらず、また「選択」からやり直すということをやる人も多い。デカルトの「方法序説」には、このような人について、結局、その後にどんないい選択をしたとしても、最初の、よくないと思った選択をそのままやっていた方が早くに目的に到達したであろう、というようなことが述べられている。勉強に関する選択のアドバイスである。

 問題なのは、最初の「選択」が、客観的な根拠のない、まさに心情的な選択であったことであろう。

 さて、わたしは塾というものの理想的なかたちというものがどういうものなのかはわからない。ただわたしは30年に渡って塾の理想的な形というものを追い求めてきた。さまざまな葛藤の中でわたしがなんとかたどりついたのが、今の竹の会のかたちであった。平成23年に都立文京高校に合格した子の親御さん、平成26年に都立駒場高校に合格された子の親御さんから期せずして、「巷の偽物の塾とちがって、竹の会は本物の塾だった」というお言葉をいただいたときは竹の会を続けてきてよかったと思いました。あるいはわたしの知らない人たちが、竹の会のことを「あのスゴい先生の塾」と噂されているということをあるお母様から教えていただいたひとがありましたが、これもうれしいお話しでした。竹の会は理想の塾のかたちを追い求めてさらにさらに進化し続けなければならないといつも思い努力をしております。

 

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