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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

奇跡は起こらない‼️ 

2021.12.21

 

 

奇跡は起こらない‼️

 わからない!、わかりません!   教えてください、と説明を聞きに来る子は、頭に何も残らないというか、頭に抵抗というか、今風に言えば、抗体が残らない。ウィルスの仕組みと同じだ。ウィルスと闘わなければ抗体ができないのと同じように、実際に問題を読んで悩んで工夫を繰り返して遂には解くという過程が是非とも必要なのだ。
ちょっと問題を読んでわからないからというので、だれか、先生とか、家族に説明してもらう、あるいは竹の会でも「わからない」と訴えて説明聞いて「わかったヶと、次に進む、そういうことを繰り返しながら、かなり上級まで進んだけれど、頭はスカスカという事態が起きている。
 ほとんど工夫もなしにわからないからと説明聞いて先へ進めるというのは、抗体は皆無、なんの抵抗もなく他人の考えた説明を頭の中に取り込む、これは恐ろしいことである。考えた結果、生まれるはずの抗体がないのだ。考えた経験がほぼ皆無なのだ。考えた形跡がないのだ。脳にとっかかりというか、闘いの形跡がないのだ。他人の説明は、その場限りの「わかった」で、記憶に残らない、というか記憶の問題で、思考の欠片もない。思考を総動員してないのだ。他人の説明を聞く、それを理解するというのは、注射を打って解決するようなもので、まったく別経路による解決だ。それは解いたのではない。他人の解き方を注射しただけで、あなたが解いたのではない。あなたは「わかった」と思っているだけで、では次から解けるのか、というとそれはない。注射の効果はほんの一瞬である。抗体も残らない。あなたは全く同じ問題が出たとき、これはどうやって解いたかな、と教わった解き方を思い出そうとするにちがいない。運良く思い出してもそれを解けたとは言わない。暗記した解き方を思い出しただけなのであるから。
 いいですか。問題に対して、事実を関係的に読み取り、図をかいて工夫する。どうしたら解けるか、図をいろいろ工夫する。それでも解けない。それで問題をもう一度読み、見落とし、勘違いがないか、慎重に気を配る。再び図をかく、式にしてみる、とにかく悩む、工夫を重ねるのである。わからなければ何度でも問題文を読み直しいちいち意味を考える、図を工夫する、これを考えるという。昨今竹の会の算数上級テキストに進んだはずの子が適性問題を一向に解けないという事態が発生している。おそらくほとんどを説明してもらって先へ進み、「できた」と勘違いしているのではないか、と思う。同じ問題が出たら真似をして解くのだろうか。事実と渡り合っていないので、ちょっと事実が変われば思考停止するのは請け合いである。
 勘違いしてはならない。先へ進めるのが目的ではない。遅くてもいい。とにかく「考える」訓練をしているのである。「わからない」とすぐやってきて「わかんない」と投げ出す。説明してやると「わかった」と先へ進む。こういうやり方をやっていると待っているのは、適性問題不適性である。「わからない」と「わかったことにする」注射を射ち続ければ自然抗体はゼロのままに、ちょっと難しいと免疫がないのですぐ思考停止する。ちょっとひねると、打たれ弱く、白旗を揚げる。
 最近、このような症状を呈する子が目立つようになった。「わからない」とすぐ効き目のいい、「ワカル」薬を注射してもらいにくる。本人は注射のお陰で「わかった」とは終ぞ思わない。むしろテキストが進むたびに力をつけていると錯覚する。
 気になるのは、入会試験を受けてない子、入会試験不合格の子が、伸びることはあまり期待できないとしても、合格したことになっている子の中に明らかに学習不振児が紛れ込んでいたことである。

 課題についてもまだ無理というケースが出てきた。まともに出せないのだ。幼すぎて対応できていない。時期尚早ということだ。
 入会して六か月も経てば、指導しても無理というのはわかってきます。いや入会試験をクリアしていても「あれ、この子は…」という子が必ずいる。
 
 この子はなんとかなるかも、というのは、ある。本音を言えば、私は、そういう子の指導に絞りたいのですが、竹の会の指導を一度でも経験すると、親御さんがどうしても懇願してくる、そうなると無理を承知でやるしかなくなるけど、遅々たる進度ではあるが、確実に力はつけていくのは確かであるから、そうなるとますます「なんとかお願いします」と懇請される、しかし、そういう子は決して受験レベルの力はつけることはない。ここのところが親御さんにはわからないというか、見えなくなっている。
 余談ですが、字が読めないほど汚いという子、特に、男子に多いのですが、あらゆる点で不利です。

 勉強も早くから始めるのがいいと思いますが、その前にまず「字」を書く、覚える練習をしたほうがいいのではないか、という子もいます。
 文字が最低限読める形を成していない、というのは、文字の伝達機能が麻痺しているということです。
 社会に出てから恥をかくのはともかく、致命的なのは、特に、ノートが作れないということです。ノートに整然と記録することができないというのは、明らかに勉強にはマイナスです。中学なら、ノート提出というのがありますが、それ以前に、ノートに授業の板書などを記録する、ノートにまとめる、などといった勉強の核心を成す仕事ができないということが致命的だと思うのです。
 かつて東大生のノートという本が出ましたが、見事なノートでした。わたしが、感嘆したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの細密な、図入りノートでした。天才にしてノートなしには大成しないのだ、と感嘆しました。
 字を殴り書きする子は、その愚かさを知らないから無邪気なものですが、親はどう考えているのだろうとよく思う。字は後から矯正できない。字の汚い、殴り書きする子自身は、別に汚いと悩んでいないようにみえます。それが重大なことだという認識もない。周囲もそれを問題視してこなかったし、今更「なんとかなるだろう」ということなのでしょうか。
 字を丁寧にゆっくりと書くというのは、自己の身体を律することであり、指先をコントロールして、字に精神を集中させなければならない、全身を集中させなければならない行為です。
 手の力を緩めて、殴り書きする制御のない精神状態とはかなり異質である。
 字をただの手段として軽視するのは間違っている。それどころか、字はただの伝達の手段ではなく、思考の道具である。事実を整理し、一覧性を実現し、図をかくことによって、思考を視覚化するのである。全体を鳥瞰するのも字の働きである。
 これが可能なのは、人間だけである。活字が美しいのは「揃った」字だからである。まるで活字とみまがうばかりの字を見たことがある。そこに想像を絶する集中力を垣間見た。そうなのである。字は気を集中する訓練、ひいては鍛錬になるのである。筋トレというが、集中して字を書くことは、究極の脳トレではないか。
 それでもあなたはだらだらと殴り書きを続けますか。

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