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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川、桜修館、九段、富士/その他

2018.10.21

 おはようございます。久々の秋晴れです。秋の長雨と言いますが、秋は一雨降るごとに寒くなります。今日はもう21日です。あっという間に10月も下旬へ突入です。これからの季節は日にちの経つのが速い、そう感じるはずです。多くの方は受験、受検の恐さを知らない、本当の恐さを知らない。これからの時期、子どもたちを襲うのは、来し方の勉強不足がもたらす様々な疾患です。あれほど希望に満ちていたのにたちまち物憂い失速感に襲われるのもこの季節の特徴です。わたしが時間のあるときに勉強しなさい、と言ってきた意味がようやくわかるときです。時既に遅しという子が満ちあふれるのがこの時期です。勉強しないできた者から脱落していきます。このときほどわたしの指示をきちんと実行してきた子たちが伸びる、飛躍する時期はありません。わたしが小5の皆さんに言っておきたいのは、時間のあるときに思い切り勉強しなさいということです。毎年のように、小6の2学期になって脱落していく子たちが出るのは残念なことです。

大手の嘘

 人は、堂々とした嘘にいとも簡単に騙される。人は、嘘をついているのが、一人よりも二人、二人よりも三人と、多ければ多いほど、騙される。人は、小さいものより、大きなものに騙される 。 人は権威に無条件に平伏す、権威とは、中が空洞の大伽藍のようなものである。 これだけ偏差値の高い中学にこんなにたくさん合格しました、あるいは、都立中高一貫校にこんなにたくさん合格しました、あなたたちもここに来れば受かりますよ、こう言いたいのでしょ。私立中学の受験に成功するのは、もともとの能力のある子たちです。はっきり言って、大手には、もともとの理解力の備わった、天才しか、合格させることしかできない、のです。公立中高一貫校向け大手だって本質は変わらない。ただ私立受験の進学塾大手とちがうのは、集まる天才の質が違う、量も少ない。その程度の天才で受かる。 例えば、芝中レベルに受かるには、もともとの知能が高い子に決まっている。学校にもよるが、そんな子はほとんどいない。一人いたり、二人いたり、もちろん開成なんかいないのが普通。公立中高一貫校の場合、「よくできる」が、8割あるくらいの子から選ばれる。もちろん一般的にです。 さてです。そういう大手塾に小3から、あるいは小4から行かせるとどうなるのか。まず、天才以外は、落ちこぼれる。これは特に進学塾にあたる。そもそもこういう普通の子に授業することは不可能であった。テキストを読んで理解するということはできない相談であった。親や家庭教師が手助けしてやるということ自体が、無理だったということを語っていたのである。授業を受けて理解するほどの天才のみが生き残る。そういうところにやる親がバカなのである。 小3、小4の普通の子たちは、教えるのではなくて、訓練をする、こういう子たちには、訓練をして、自ら考えるということ、ひいては勉強のスタンスというものを植え付ける、習慣づける、これがまずやるべきことなのでわある。 普通の子とはどの程度の子を言うのか。 学校の内申を基準にすれば、「よくできる」が、8割前後以上ある子である。5割、6割では、まともな理解力は期待できない。普通はそうである。だから、竹の会の入会試験は、内申8割が、合格の前提とされてきた。5割、6割しかない子たちのほとんどが、進学型大手や公立一貫型大手に吸い取られているのが、今の真実ではなかろうか。こういう人たちは、もともと能力のない、人たちなのであり、芽がでることはない。 竹の会で、仮合格という形で、6か月を目安にに指導を引き受ける、というのも、仮合格の子は内申5割ほどの子が大半だから、もともと理解能力の劣る子たちを前提にしており、基本的なものの訓練を施す、そういうことまではできるであろう、と考えてのことである。こういう子たちは、ある程度まで進んで、わたしが仕掛けた、これからの指導が成功裏に進められるかどうか、判断するための隠し問題が解けないことが多く、実は、この時点で、指導を打ち切るというのが、仮合格の主旨にかなう、というのが本音である。 わたしの課した試練を超えられるかどうか、超えられない子は、やはり無理である。仮合格でも越えられる子が多いのは、小4早期までに来た子たちの場合である。小3後期から小4早期、これがベストの入会のタイミングである。小3については、入会試験をクリアした子なら、かならの蓋然性で伸びてゆくが、仮合格でもかなり有望かもしれない。わたしには小3は、未知の領域であり、竹の会の訓練が思わぬ効果を発揮することがある。ただし、勉強に関心の薄い、幼い子は見通しが立たない。つまり訓練そのものを施すことができない。指示通りにできない、そういう子には無理である。指示が実行できない子に指導はない。

 訓練を施すべきときに、大手で落ちこぼれたとか、家庭で自由にさせていたとか、これは、訓練開始のタイミングを外しており、正直こういう子の指導はしたくない。小6になって、来た子たちは、たいていは、受検には失敗する。それで高校受験をやるということで、竹の会で指導継続することがある。しかし、こういう子たちが中学で成功するかはかなり率が悪い。それは、小6から来た子たちには、基本訓練期間というものがないからだ。もちろん知能の高い子なら別であるが、普通の子が、訓練期間なしで小6に来ても成功する可能性は実はない。それほどに基本訓練期間というのは、大切である。 基本訓練期間というのは、竹の会の基本訓練を言っている。他塾が何をやっているのか興味もないが、どうせテキスト使って授業しているだけであろう。そうではなくて、竹の会の言う訓練とは、徹底した計算訓練及び割合訓練を言う。小4期の1年間を竹の会で充実して過ごすことである。入会して計算は3か月でマスターするとして、割合思考の構造を立体的に頭に組み上げる、これに一年をかける。訓練であるから、竹の会に授業はない。指導する、解かせる、それが訓練である。 どこかのバカ親が、「公文と同じですか」と言ったけれど、そんな低レベルの認識しかできない、浅い親は最初から来ないことだ。竹の会の、わたしの指導の効果が、あまりにもあからさまであることがあると思う。多くの親が竹の会の指導を続けることを期待するのだと思う。わたしはそう理解している。竹の会の月謝は、定額である。もう二十年近く変わらない。竹の会は施設費やらテキスト代やらの名目でカネをとることはない。そういうことを除いても、大手の費用の方がずっと高いと思うけど、問題はそこではない。高い費用に見合う効果が得られたのか、そこでしょ。一年も通って高い費用を払って、バカになっていれば世話はない。そういう選択をした人たちが竹の会の費用を単純比較して、高いだどうだなど言って欲しくない。効果がなかった、バカが固定された、そういうことを棚に上げて、高いだ安いだは語れまい。竹の会には、おカネをもらっているだけの仕事をする、効果を、結果を出すのは、義務と考えており、それがプロということではないか。だからおカネを取れないという事態になれば、潔く指導を打ち切る。つまり退塾をお願いする。これも至極あたりまえの論理であろう。

 まあ、受検という特殊性から、訓練時期を終えてからは、勉強しない子は脱落するしかない、という別の問題がある。塾の果たす役目とは別に子どもたちはとにかく勉強することが前提である。勉強しない子をどうこうすることはだれもできない。勉強しない子は最初から竹の会に来るべきではなかったのである。習い事、稽古事、サッカーなどに没頭する人たちが来るところではない。竹の会は勉強するということに迷いのない人たちの集まるところである。勉強に不活発な人、家庭は来てはならない。

 さて、勉強しないでごまかして、過ごせるのは、小5まで、小6になれば、勉強しないということが、模試で、浮き彫りになる。もう逃げるしかなくなる。こういうのはわたしの指導の枠外にいる子たちであり、腐ったら、自然に落ちていく果実と同じで、わたしがどうのこうのするまでもない。これは高校入試の中3が、かつて突然、たいていは模試の悲惨な結果を受けて、脱落していくのと同じ根である。中1、中2まで、勉強しないできた結果である。竹の会の指示を先送りした結果である。日比谷なら何をいつの時期までにやる、という譲れない前提がある。部活、スポーツを優先させてきた親子が、模試で点が取れないのはあたりまえでしょ。部活も、スポーツも、勉強しないことには変わりがない。習い事、稽古事も勉強しないことに変わりはない。家族旅行、法事という名の家族旅行、みな同じ、勉強しないという大義名分とはなっても勉強しないことに変わりはない。模試とは、勉強しない、してこなかった子たちの懺悔の機会にほかならない。それは本人の意図しない結果をともなう懺悔である。

 さて、「遅い」という害悪について。遅いというのは、勉強しない子たちの、外から見た姿である。問題が解けない、いやその以前に問題の意味がわからないのがほとんどで、ここで「わかりません」と出してくるのか、でたらめな答えを書いて出してくるのか、なんとか考えようとして時間がかかる、が、結局できない、この3パターンがある。前二者は、できてないのだから、そもそもここでの「遅い」という議論の外にある。論外である。前二者が「受かる」ことはない。が、最後の「遅い」の型も、また受かることはない。 できる子、受かる子は「速い」。これが経験的事実である。 最後まで考えようとして時間がかかり結局できない、という子は、将来的には、成功するかもしれない。しかし、それは高校入試、大学入試の話しであり、当面の受検ではない、ありえない。 時間内に解ける、これが試験である。なぜ、時間がかかるのか、それはこれまで勉強してこなかったからである。習い事、稽古事、その他に時間をかけたからである。勉強しない人間には、時間と思考のせめぎ合いがわからない。駆け引きがわからない。思考は訓練によって、速くなる。しかし、勉強しない者には、それがない。 思考が浅い、思考が足りない、簡単にトリックにはまる、簡単な仕掛け、罠が見抜けない、というか読み取れない。文章の意味がわからない。だから、遅い人は、よく問題を読んで「これはどちらの、意味ですか」「この意味はどういう意味ですか」などと訊いてくる。これが「遅い」人間の特徴である。つまりは勉強が足りないのである。ノロノロと動いてほとんど進まない。これとサッと読んで、根拠もなく、答えを、書いてくるのとどちらがいいか、という議論もありそうだが、とちらも破滅型であるから、比べる意味はない。

 高校受験にしても、普通の子のそれは、すでに小4の過ごし方で、結果は、ほぼ出ていた、という話しである。小5、小6で、その辺の塾に行って、バカを固定化するか、塾に行かないで、ぽかーんとしたまま高校入試を迎えるか、どちらかであろう。 小4期の訓練は、それほどに重要ということである。そして、巷の塾が、テキスト使った授業という、昔ながらの方法で、授業についていけない多数派の普通以下の子たちをスポイルしていく。 もうお分りであろうか。小4期に、しっかりとしたコンセプトのもとに、訓練に値する訓練をやる塾などない。竹の会を除いてはない。そして竹の会は、世間の親という親が、大手しか目に入らないという現実の中で、小4など来てくれない、小5だって来ない、そういう中で、細々と生きながらえてきたのである。親が、子どもを結局カスにする構造というものを、悟らないという、のが今の現実である。なんとありふれた親の多いことか、世間からこの種の親が廃ることはない。かつて竹の会を鼻であしらった母親がいたけれど、偏狭な新興宗教を盲信する信者のように、この人に何を語っても虚しいだけど悟ったことであった。だからもうこういう人たちを説得する、竹の会を認知させる、そういう無駄なことはとうにやめた。宗教を信仰する人は、どんな不都合でも、自分に都合のいい解釈をするけれど、大手を信じる親は、大手の信者であり、子どもを犠牲にするなどとは到底思ってもいない。宗教に子を入信させる親のように、被害者という意識はない。受検に失敗しても悪いのは自分で、努力が足りなかったと納得するのは、信仰が足りないからと得心する。受験に失敗したというのと同じである。努力が足りなかったと得心する。まさに信者である。

 竹の会にこういう親が邂逅することはない。こうして竹の会に邂逅する人は稀有の人たちとなるわけである。竹の会と出会えたことを「幸運だった」と言われる母親の皆さんがなんと多いことか、わたしはそういう言葉を幾度となく耳にしてきました。実に竹の会はこういう人たちに支えられて生きながらえてきた、それはこれからも変わらない、と思います。23区に少しだけいる、ほんとうに少数の方たちが、竹の会に心惹かれた人たちが、竹の会を支えてくれています。竹の会が、細々と生きながらえていくことは、これからも変わらない。やがてわたしが竹の会に別れを告げるまで。23区のほとんどの人に気づかれることもなく、道端に、凛として咲く雑草のように、竹の会は振り向かれることもなく、ただ偶然にその価値を認めてくださる人に目をかけられる、そういう存在、塾です。

 

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