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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川中等、両国附属、白鷗附属、富士附属合格の手順/都立戸山、都立青山合格の手順/高校受験シュミレーション

2019.06.07

6月7日 金

 

第1章  高校受験シュミレーション

準備段階 思考、勉強習慣の形成 小学期の早期訓練が大切なのは変わらない。
トップ都立か、私立難関か、で異なる手順
⚫︎例えば、日比谷か、開成か、で、シュミレーションしてみる。
数学 (日)指導要領の範囲の中で、時間のかかる問題を出題
  (開)指導要領に囚われない、高校数学の考え方も取り入れた出題
英語 (日)指導要領の範囲内で、いくらでも難しくできることがわかる出題
  (開)旧センター試験レベル
国語 (日)70%取れる出題
  (開)70% 取れる出題  ※古文有
理科 (日)100点も取れる出題
  (開) 教科書逸脱問題
社会 (日) 100点も取れる出題
  (開) 教科書逸脱問題

スタート 小6 2月〜
第1ステージ 中1
 英語  中1〜中2の文法事項をマスター
    竹の会では、膨大な数のレジュメで、徹底的に、体に染み込ませるまで、基本の文法を練習させる。
    中学三年間の文法を一冊(100p)にまとめた「新英語指導案」で、一気にマスター

    数学 中3までに履修する事項を終わらせる
    中2までの単元は全てレジュメでマスター、レジュメは、定義から入試問題までを、網羅
    中3単元は、2次関数、三平方の定理、立体の3分野を軸に、過去問を網羅、円、相似を3軸との絡みで、扱い、
      まず、計算を終わらせる。多項式、平方根、二次方程式。
第2ステージ  中2夏休み前まで
英語  中3で履修する関係代名詞などの重要文法を終了
   ※新英語指導案で完璧
数学  第1ステージの続き
第3ステージ 中2の夏〜3月

英語   英文解釈中心
    ※高校用英文解釈初級ほか
数学  「過去問撰」
理科、社会   整理用問題集配布(〜3月)
国語   独自校レベルの問題
第4ステージ 中3前半(夏まで)※V模擬、W合格模擬スタート
英語  英文読解を軸に
   ※読解用教材が勝負
数学  「独自問題撰」/私立難関問題撰
理科、社会  高度な問題集にあたる
国語  過去問

第5ステージ  中3後半 ※駿台模試
英語  過去問 「入試英語指導案」
数学  過去問
理科、社会  過去問
国語  過去問
注意  このシュミレーションは、日比谷、開成を念頭に描いた、竹の会の指導スケジュールを大まかに示したものです。実際の指導では、いや実際に指導していく中で、具体的な問題が生起し、そのたびに、その解決を図るための修正がなされる、つまりチューニングアップがなされることは、最初から織り込み済みです。

第2章 自滅論
1 部活という自滅の選択
  部活のために勉強を犠牲にする。これはそのまま高校受験の失敗を意図的に選択したことになる。失敗とは、トップ都立、難関私立はもちろん、まともな都立、まともな私立にも行けない、という意味である。もっとも酷い、しかし大多数の、生徒が、行くのが、低偏差値私立ということになる。高校とは名ばかりの、Fランク高校、中途退学者続出、そういう高校を出て、まともな職業は期待できない。私は、親が部活に夢中になって、あるいは部活ということが、勉強しなくても仕方ないと、免罪符になる、親の頭が、理解できない。かつて毎日部活で夜8時以降にやっている塾を探して竹の会にやってきた母親と女子中学生がいたが、疲れて塾では眠ってばかり、すぐやめたけど、こういう親というのは、部活は勉強に絶対優先という態度が明瞭で、家庭学習もない、部活バカを、塾とは、成績取れるようにしてくれるところと決めつけていた。部活偏重、部活優先で、やるなら結構で、勝手に自滅して、行けばいい。

2 塾へ行かないという自滅の選択、実は無選択
 塾へ行かない、という選択が、もたらす悪魔の悪戯とでも言おうか、無邪気な無知という事態は、塾に行かないのではなく、行けないという家庭もいるであろうから、やむを得ないこととは思うけれど、実際、塾に行かないという選択は、人生における、望ましくない、もしかしたら最悪の選択をしているかもしれないということは知っておいたほうがいい。
 ここでも元々の天才とその他大勢の凡人とで、また歩む道が異なってくる。天才は、塾に行かなくても、学年1番をとったりもする。多いのは、中2までは学年1番、中3になって
流石にそれは維持できず、結局目黒レベルの都立に落ち着くというケースであった。天才以外のその他大勢の凡人はこうはならない。たいていは最初から酷い成績で、これで部活やるからもう吹き溜まりで 高校は偏差値もないような、Fランク高校に行く。行っても卒業までいるかは疑問で、中途退学率は高く、そういう人間が大量に社会に吐き出される。実は、この社会というのは、こういう社会的落ちこぼれが大量にいて、初めて、選ばれし少数の人間の恵まれた生活が成り立つようにできているのである。裁判官でも、弁護士でも、医師でも、〇〇師でも、一部上場企業でも、国家公務員でも、地方公務員でも、限られた職業を、勝ち得るために、人は、戦っている。塾に行かない、という、つまり、後ろ向きの、消極の、回避的な、先送りの、不作為の、選択が、社会の最下層に定住する人間の共通した目印であるということは偶然ではない。

3  過保護、甘やかしという、子の自滅飼育
 子を躾けない親ほど、害悪なことはない。わがままで自己主張の激しい子というのを見てきたが、自尊心が異常に発達し、人に傷つけられことを極端に恐れ、自慢話しが好きで、自分がどんなに恵まれているか、親自慢、兄弟自慢、家自慢、金持ち自慢と、そういう話しばかりする。嫌われるのはあたりまえである。自分が試されることを嫌い、競争を避ける。回避と先送りで、破綻は目に見えているが、自滅の道を歩んでいることの自覚もない。
 子に欲しい物を何でも、どんな高価な物でも、買ってやるのは、子から自制心を奪い、我慢という自己を律するという心の根本の機能を奪うものであり、我慢を知らない人間が、これからのストレス社会、軋轢社会を生き抜いていくために、もっとも大切なものを与えないで、社会に放り出してどうなるのか、自明である。
 ペットならいい。死ぬまで可愛がり、面倒見るならいい。しかし、子はいつか自立して、つまり自ら食べる物を買う金を稼ぎ、食べていく、生活していかなければならないのである。高齢になっても親が、子の生活の面倒を見るのは、悲劇でなくて何か、これが自滅なのは猿でも分かる。

4 大手塾選択という自滅
 何もわかっていない親たちに、危機感も何もない。能天気としか言いようがない。何も深く考えないで大手塾なり、地元塾なりに、子どもを放り込む。進学塾なら、余程の天才でないと落ちこぼれます。男の子だと、たいてい共感性が欠落しているから、集団授業では取り残される。聞き逃してもただ黙っているだけである。聞き取れないこともあろう。聞き取れても理解できないこともあろう。しかし、共感性のない子というのは、そのままにしてしまう。後で質問することもしない。もっとも質問しても、授業の合間の休憩時間に何人も行列になるというのが、大手だから、質問もまともにできないから、いずれどうでもよくなる、しなくなる。つまり、大手というのは、レベルの高いことをやっていることもあり、子どもたちは、分からないままに、ただ先へ進む、という事態に陥るのが、必然で、天才以外は、落ちこぼれることが、最初から前提されたのが、大手という装置なのである。

 女子は比較的共感性がある子が多いから、落ちこぼれるとしたら、能力が届かないということがほとんどである。
 大手でも、公立中高一貫校対策を売りにしたのが、エナとか、栄光ゼミナール、である。この手の大手塾は、進学塾とまた違ったリスクがある。まず基礎学力をつけるという機能を果たしていない。自前のテキストでカリキュラムを組んで、学生講師が、授業をしていく、というのが、実際なのであろう。この手の塾の致命的な欠陥は、小学生でもっとも大切な「訓練」という概念が、抜けていることである。テキストの単元を進めるだけの学生にそれ以上の何をいったい期待できるというのか。計算のやり方を教えれば、テキストの問題を与えて、つまり子ども任せにして、先へ進める。こんなところに子どもを平気で預ける親の気持ちがわからない。一年、二年と通って、結局ただ、テキストを使った授業が終わっただけということではないか。実態は、一年前、二年前と何も変わっていない。思考力なんかつくはずもない。ただ通っていた、という事実があるだけです。またこの手の大手のやり方というのが、適性問題の過去問を真似した、類似問題で、親や子どもを惹きつけている、ということも考えて見なければならない。この発想の奥底には、「似た」問題が、出されるという下心があるのであろう。これは子どもたちが、未知の問題について考えて解くという姿勢、育成を否定する、やり方である。親も子ももしかしたら出るかもしれない問題を追う心性に囚われることであろう。
 問題の本質はそんなところにはない。まず当局が、試しているのは、未知の問題に対して、課題を発見し、解決の道を探り、自己の考え方の道筋を示す、ことである。だから対策は、小学で習う基本的なことを踏まえて、思考力を深める、思考を鍛える、訓練する、ことであって、決して類似の問題を際限なく、当たっておくことではない。大手の夏期講習とか、冬期講習とかが、こうした「もしかしたら出る」かもしれない類似問題の提供を売りにしているのは、浅はかな親たちには、格好のエサかもしれない。
 ただこういうやり方でも、天才なら自分を見失わずに抑制した勉強ができるかもしれない。ただ私が栄光に行っていたという桜修館を落ちたという子を診断したところ、竹の会の割合レジュメ「割合問題編」に出てくる問題は正解を出していたから、こういうできる子が、本番で点が取れていないのは、どうしてなのか、と訝った。どうもスポーツをやっていた節もある。勉強量が足りなかったのかもしれない。ただもし竹の会であったら、これだけ頭のいい子なら合格しただろう、と実感した。
こういうことを言うのは、大手には、たくさんの元々地頭のいい子が、いる、と思われるからである。大手にいたから、失敗した、という例が、かなりの数あるのではないか、そう感じたからである。

第3章 プロだから泣く
 三年間頑張ってきましたね。なぜ落ちたのか。よく考えます。実力はあったと思います。何か足りなかったのか。内申?  それなら仕方ないですね。でも課題はずっと出してこなかったのは、どうしてなのですか。でも最後は本当によく頑張りました。読み取りに時間がかかる。これはまずい兆候ですよ。読み取りで読み取れてない、誤解をする、これもまずい。問いに答えない子が多いだすね。問いを読んでいないのか、指摘されて、「あっ、」という子が多い。知能の多寡とはあまり関係ないようだ。問題によっては、問いが、複数に渡り、細かい指示もある。小数第3位を四捨五入せよ、と言ったかと思えば、次には、小数第2位をという。あるいは、十万の位までの概数を求めよ、というのもある。問題は丁寧に読まなければ、必ずミスる。
四百字以内と言えば、少なくとも9割、つまり三百六十字は書かなければならない。
 レジュメや過去問を添削、指導しながら、子どもたちには、「問いに答える」ということを、しつこく注意するが、問いを外す子は後を絶たない。
 問題を丁寧に読んでいないのだ。サーっと読み流している。読み飛ばしている。問いを自分で勝手に、適当に、理解して、適当に答えている。どこでそのような癖を身につけたのか。家庭 で、学校で、物事を注意深く、観察するということを躾けられてこなかったに違いない。さらには、もともと物に関心、好奇心を持つなどということがなかったのかもしれない。
 子どもたちが、真摯に受検しよう、受験しよう、という気持ち、これは試験が近くなればなるほど、わたしの心に、突き刺さってくる。だからわたしもなんとかしてあげたいといろいろと算段する。課題をサボってきた子が、しなくていい苦労をする、習い事、稽古事に時間をかけてきた子たちが、時間不足、勉強の絶対量不足からくる失速で喘いでいるのを見て、わたしの心は暗い。結果はどんなに足掻いてもたいてい変わらない、見えている。それはわたしのセンサーがそう教えている。死を悟った動物のように、運命を悟って悲痛な思いに心は突き刺される。そう、努力に見合った結果しかない。それが現実であり、奇跡などない。子どもたちが、そういう心に追い詰められたのを見るのは、辛い、これほど辛いことはない。
 掲示板に番号はない。もしかしたら、と思って見ても、現実はない。
 しかたない、しかたなかったんだ、と何度も思い返す。
 試験も終わり、結果も出て、二か月ほどすると、また当面の指導に追われて、落ちた子たちのことも忘れる、いや頭から退く。
 何かの折に、ふと落ちた子たちのことを思う。無我夢中で問題に取り組んでいる姿が目に焼き付いている。遠くの風景を見ていたら、涙が一筋頬を伝う。また一筋、子どもたちに合格を与えてあげられなかった悔恨とそれでも笑顔の子どもたちの顔が、重なり、思わず、泣いてしまう。プロだから泣く、悲しくて泣く、いつも思う。掲示板の前に立つ。その時に番号があることの喜びを、ないことの悲しさを、わたしの指示に素直にしたがってほしい、いつもそう思う。

第4章  勘が教える危険センサー
 こういう仕事を長くやっていると、危険を察知する勘というか、センサーみたいなものが、自然と備わってくるようである。私も後から、本番前に持った嫌な気持ち、懸念といったものが、本番が終わってみれば、見事に結果を暗示していたことがわかる。こういう経験を何度となくしてくると、ある時、一瞬持った、嫌な予感が、気を重くする。
 都立本番の前日に、月の満ち欠けの問題を質問してきた生徒がいて、嫌な気持ちがしたが、この不安は、的中し、やはり前日に、もう何か月も前に当たり前に理解していなければおかしいことを質問してくるのは、ありえない、不自然すぎる、というわたしの懸念はまともなものであったわけである。
 遅い、時間がかかる、課題を出さない、嫌な前兆は、いくらでもある。合格ハンコがほとんどない、というのは、もちろん嫌な前兆である。字が汚い、読みにくい、読めない、読む気がおきない、これもたいてい落ちる(例外有)。作文が書けない。原因は、幼い、つまり自己中心的、視野が狭い、自己とその周りのことしか書けない、つまり「私」界にいる。みな嫌な気持ちの原因となる。
 それでも子どもたちの「受かりたい」という思いはひしひしと伝わってくる。なんとか好転しないものか、そんな思いで日々指導してきた。課題を出してこないのはなぜなのか。よく考える。習い事かな、何かスポーツかな、いずれにして親の監視はないようだ。作文の酷い子は字も酷い。字の酷い子は作文も酷い。読めない字を書く子を親はどうして放置してきたのだろうか。忙しくて手が回らなかったのかな。特に、男の子に多いのは、男の子が、外遊びに夢中で、落ち着いてじっくり机に向かうことのない、活動的な、ことが多いのと関係しているのかな。とにかく手取り早く済ませて遊びに出る。だから字も乱暴になる。細かく観察することもない。大雑把に書く。そういうことなのかな。長じて、というか小学生高学年になって、酷い字が直ることはほとんどないのを見てきたので、親というのは、特に、男の子には、じっくりと付き添ってでも字を丁寧に書く躾をしてこなければなるまい。
 私は、小学生の都立中に行きたい、という、強い願いに、突き動かされて、合格するために、処方箋を作る。しかし、本人の甘い認識、親の試験に対する認識の甘さからくる漠然とした楽観が、立ちはだかる。どうして親、子は合格から遠のくことばかりをやるのだろう。習い事や稽古事に時間を使うことが、勉強の進捗に影響しないと思っているのだろうか。野球やサッカーを夢中でやりながら、それで合格に必要な勉強時間を確保できると思っているのだろうか。お盆一週間帰省しても合格できると踏んだのはどういう根拠からか。余談だが、一週間休めば、前後を含めて2〜3週間は、勉強が中断することも知っておいた方がいい。帰省から帰って、遊びボケした子がそれまでの勉強をそのまま継続できることはなく、中にはすっかりそれまでやったことを忘れてしまって、また最初からということもあったし、休みボケで中々勉強のリズムが戻らずダラダラとだらしなく、緊張感のないままに、1か月も引きずったという子もいた。親が考える一週間は、子には、1か月、そして思うように捗らないという厄介を抱え込むことにもなる。
 それでもわたしはそういうことも呑み込んで何とか合格をとまたまた処方箋を書き直す。相変わらず、ピアノの発表会、空手の昇段試験、親族の集まり、秋祭り、法事、クリスマス、大晦日、お正月といったいどれだけ勉強時間が割愛されたことであろうか。それでも試験直前には健気に頑張る姿を見てまたまた心を動かされる。戦い終わって、やはり番号はない。危険センサーが機能するのは、勉強ファーストの子についてである。あえて危険な、つまり合格から遠ざかる行為をする子、親にはもともと、センサーは働かない。危険センサーは、合格に近づこうとすることにエネルギーを費やしているときに、それから遠ざかる行為に対して働らくのであり、最初から遠ざかる行為をする人間にはもともとセンサーなどないのである。
真面目でわたしの指示に素直に従い、努力を惜しまない、親と子、そういうところに初めて合格を妨げる危険センサーが働らく。

第5章  迷いの研究
 迷いは、判断を狂わせる。しかして、人間は、迷う動物である。たいていは二者択一を迫られる。人間は、判断を急かされるとマイナーな方を選ぶ傾向がある。冒険しない方が生存には無難だからであろうか。迷ってきるときの判断はたいてい間違う。迷わない、もう自分の中で迷いがない、という場合がある。迷いの研究は、ここに絞られる。幼児が迷わないのは、選択肢がそれしかないからである。欲しいと思ったらそれしか目に入らない。つまり、幼児には、選択というものがない。比較というものがない。況してや比較考量などという高次な思考など持ち合わせていない。幼児は基本的に好き嫌い、好悪で判断する。小学生、中学生も変わらない、選択がない、欲しいものは欲しい、迷わないのである。
 迷うのは大人である。なぜか。子どもと違って、制約があるからである。社会的制約、経済的制約、家庭の制約、法的制約、肉体的制約、年齢的制約、とにかく大人というのは、子どもと違って、意識しなければならない制約に取り囲まれている。
 子どもにも制約はあるではないか、と言われそうですね。その通りです。ただ子どもは、制約を制約として意識するほど制約に行動を縛られていない。だから自由なのである。
 こうして、迷いは、制約から生まれる。

 自信のないことには迷う。過信する者には迷いがない。迷いというのは、危険を察知して迷うのであり、危険センサーにほかにらない。して見ると、人間は迷うことを本質とする。迷いは生存本能からくる、生存のための危険の知らせである。してみると一概に迷いを否定するのは適切な態度ではない。 

 が、それでも迷いを断たなければならないときがある。迷いがときに生存を脅かすこともあるからである。3.11の地震のとき、津波から逃げるか、そのまま動かないでいるか、迷いが危険センサーとしてはたらいた人とはたらかなかった人に分かれた。正常性のバイアスによって、そのまま「いた」人たちが結局犠牲になった。

 人生の選択では、迷うのはあたりまえである。ここでも将来の生存を脅かすという意味の迷いがセンサーとしてはたらいている。

 迷うとき、どうしても保守的な方、マイナーな方を選んでしまうのは、人間の生存本能かせそう指示しているとしか思えない。そしてその指示はたいてい間違っていることになる。冒険的な選択はリスクを査定できないだけに生存センサーが反応することになる。

 迷いについての分析はまた次の課題として、再び再論したいと思います。

第6章  勉強の方法論考
 最初に言っておかなければならないのは、少なくとも高校入試までの勉強で、方法も何もないということである。もしどこか塾に行っているのなら、塾の教えに従えばいい。少なくともまともな塾なら、それでうまくいくはずである。もしうまくいかなかったとしたら、あなたたちが、部活をやっていた、しかも勉強を犠牲にして、といった事情でもないかぎり、その塾が、酷かったということになる。商売熱心な塾は、教育などそのための世過ぎに過ぎない、つまり、塾屋だったということであり、ご愁傷様としか言いようがない。
 世の中には、塾屋、つまり商店としての塾がある。塾屋は、商売人であり、客を取るためには、多少の嘘は、商売上の駆け引きであり、つくのは当たり前と考えている。よくあちこちのスーパーでやる、セールも得意で、2割引とか、3割引とか、無料セールとか、やるのも同じである。客をうまいこと言って騙すのも彼らには当たり前の話である。教材費とか、施設費とか、冷房、暖房なんでも勘定項目があれば、カネはとります。なにしろ商売ですから。
 講師を雇うにしても、できるだけカネのかからない人材を探します。大学生の講師が、安くていいわけです。正社員を雇うなどコストがかかりすぎるからやりません。時給は1700円くらいとわりと細かい。一つの教室、例えば、〇〇駅前の教室で、学生40人ほど雇います。それで学生の都合聞いて、授業のコマに割り振り、回すわけです。まあ、塾屋の話はこれくらいにしておきます。
 大学受験や国家試験というなら、これは、やり方がある。ただ、国家試験にしても、予備校が、かなり信頼できる。大学受験の予備校は、単純ではない。というのは、すでに高校卒業時に、実力があったという場合と、力が及ばなかったというのでは、意味が違う。後者でも、落ちこぼれていたという場合は、予備校は、まず役に立たない。予備校というのは、一年で受からせるのが、仕事である。イロハからやるというところではない。だから勉強の方法というのは、予備校に行かなくて、独学する人の話になる。この点は、国家試験と同じで、勉強の方法言うなら、それは独学の場合である。
 こう見てくると、勉強の方法などというのは、独学の人しか、問題にならない。
 いい塾とはどういう塾か、
 塾の提供する資料だけで、間に合う、これである。
 もし、塾に行っていて、いろいろ工夫してやっているなど言うなら、その塾の指示だけでは不安ということであろうが、それはいい塾ではない、ということを無意識のうちに認めたということではないか。
 とにかく、方法を言う人というのは、例外なく、実行してない人である。方法が決まらない、定まらないから、勉強もはじめられない、「待ち」の状態にある、という人がいる。こういう人は、永遠に方法を追い求め、本体の勉強に踏み入ることはない。方法というのは、とにかく勉強した、実行した、継続した、中から、夢中でやっていたことを後からそういう方法を取ったと言ったまでのことである。最初に方法があって、その方法に従ってやったわけでは決してない。方法は勉強から生まれるものであり、勉強と関係なく、独立してあるものではない。
 方法が生まれるのは、実行という、現実の行動があるからである。実行は方法を生む。方法だけが、一人歩きして、世の受験生や親たちを惑わせるが、方法は実行がなければ存在しない、パラドックス的存在に過ぎない。
 方法で、息子が娘が、東大に受かった、と本を出す、テレビに出る、マスコミが囃し立てる、意味わからん。

第◎章  割合般若心経 未稿未完成執筆中
「は」わる「の」〜 何が出る〜
倍率が出る〜 100倍したら何になる〜
パーセントになる〜
パーセントとは何〜 塗り絵のデッサン〜
100等分とは何〜 0.01倍するとどうなる〜
「の」パーセントとは何〜
「の」は、元にする数じゃ〜
パーセントを小数になぜする〜
小数は手足だからじゃ〜
パーセントとは、何じゃ〜  手足のない数字じゃ〜
へっ、
注 亀吉君の井戸は、深さ10㍍、
  蘭子さんの井戸は、深さ20㍍
  比べたくなるでしょ
  どちらを元にしますか?

第7章 わかるまで読む
 わかるまで読む、これは勉強の基本姿勢です。
 竹の会には、入会試験があります。その第1問は、平成24年入会試験が始まった時から、使われている名作です。これが解けるかで、まず指導が可能か否かがわかります。
 下記は、ある小2の子が、私の用意した、入会試験の問題、基本Lの第1問と第2問を試しに挑戦してみたときの、お母様のお話しです。

 いただいた問題を自分で考え抜いた事が心から嬉しかったようです。
「最初は第一問の意味が全然わからなかったけど、何十回も問題文を読んだら、わかったんだよ」
と、帰り道に満面の笑みで教えてくれました。

 感心したのは、何度も意味がわかるまで読んだ、というところである。私なども本を読んでいて、うん、ここは何を言っているのか、わからないなー、ということがある。そしたらまた読み返す、それでもわからなければまた読み返して考える、何度も読み返す。これは算数や数学の問題を解くときも同じで、問題の意味がわからない、それでまた読む、またわからない、また読む、ということはよくやります。先日も、わたしの作った理科のレジュメに答えだけ、つまり結果だけ、載せていたら、ある子どもに「わからない」と質問された。それでその問題を家で取り出して(パソコンから)読んでみた。一読しただけでは確かに理解できない。極軌道衛星の問題である。軌跡を、縦に緯度、横に経度を取った世界地図に書き込む問題です。これが難しいのは、地球の裏側をこの極軌道衛星が回るときの様子です。余程具体的に考えないと錯覚というか、思い違いする。こりゃー、難しいわ!
 やはり事態を理解する、悟るためには、何回も読まなければならない。
 いいですか。考えるということは、何回も読むことなんです。読んで考える。わからない、それでまた読む、また考える、わたしなかんかそういうことを何回も何十回も諦めずにやってきた。ろくに読みもしないで、すぐに教えてくれ、と言う子が多いですね。大手では、授業形式をとるので、読むよりも、まず解き方の要点を説明してくれ、という態度が染み付いた子が多い。極端な話し、もう読まない。読まないで、いきなり問題の解き方を聞いてくる。私が大手でも、地元塾でも、バカ製造所と言うのは、こういう実態を踏まえてのことである。
 まず聞く前に何度読んで考えたか、でしょ。「先生、もう30分も考えたんですけど、わからないので教えてください」と言ってくる男子がいたのですけど、これを繰り返していたら、案の定、次のステップで全く解けない、わからないことになった。そもそもわからない、の内容は何なのでしょうかね。問題一度読んで眺めてただけでしょ。そもそも考えたという子はそんな簡単には諦めないし、聞いてもこない。だって読むというのは、その意味がわかる、ことですから、わかるまで読む、ことなのです。一、二度と読んで「わかりません」というのは、先程の小2にはるかに劣る、でしょ。
 聞いたら終わりというのがある。問題が「わからない」として、人に説明聞いたら、あなたは、せっかくの思考を学ぶ、思考とは何かを経験する機会を見す見す捨てたことになる。そういう思考というものの本質を悟らないままに、説明を聞いて理解した、「わかった」とすることで、できたと勘違いして、大切な思考を培う機会を捨てることになる。こういう説明聞く型の子というのは、いよいよ問題のレベルをあげて取り組む段になって、自分の思考欠落を突きつけられることになる。全く解けない、できないのである。
 説明聞いて進めた子は、思考がない。たとえ難度の高い問題の説明を理解できたとしてもだ。
 いいですか。わかるまで読む、問題の意味を読み取る、これが考えるということなのです。
 まず問題の意味がわかる、これがわかるなのです。ところが、問題の意味をわかる努力もしないで、問題の意味までも説明してもらって解き方を覚えようとする。こりゃー、自殺行為です。
考えるというのは、問題の意味を考えるということです。問題の意味がわかるから、解けるのです。解けなのは問題の意味がわからないからです。ここを説明したら、子どもは育たないでしょ。大手ではこういうところをわかりやすく説明する、教えるから、ダメなんです。もう意味がわかった問題なんか、何の役にも立たない。問題集を形だけ終わらせて、勉強頑張ったなどと言うな!
 飛行機の操縦では、飛行経験が問われる。外科手術では、手術経験が問われる。それと同じです。勉強では、問題を読んだ経験と考えた経験が問われているのである。

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