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小石川中等、桜修館中等にロック/最低でも都立戸山へ/23年小石川合格者からの報告など

2017.03.11

 3月という日を大切にしなければと思っております。小5に本格的に適性対策指導を開始したのが2月のこと、早3月も中旬の突入し、近頃は日中などどうかすると汗ばむほどの気温でもうすぐ春がすぐそこにという実感もわいてきましたが、朝夕の冷え込みは真冬並みで油断は禁物です。小5の1年間をどれだけ真剣に取り組んできたのか、その答えが今出ているのであろうと思います。適性問題は難しい。だからこそそれなりの思考訓練を経ている必要がある。小5の1年間をフルに訓練に使うためにはどうしても小4早期での入会が理想とはなるが、現小5でそのような条件を満たす者などひとりもいない。小5も遅ければ遅いほど適性問題で失速する蓋然性は高い。ただこれも能力との相談みたいなところはあるけれど、現実にはその日の予定の指導レジュメを時間内に終わらせることができないで持ち越す子たちが続出している。これをもって失速というべきか。小4の2月にきて1年後の小5の2月になって失速するかどうかは、1年間の努力、そして能力も大いに関係することになる。それにしてもやり残したレジュメは次回の指導日までに終わらせておかなければ次回にはまたその日のレジュメが課されることになる。積み残しが許容限界を超えたなら退塾も視野に入れたほうがいいのかもしれない。それからレジュメをなくす小5が必ずいるけれど自分のやったレジュメの管理もできない子に受検など無理なのではないか。

 それからレジュメをクリップで留めてくる人がいますけどあれは邪魔ですね。まずレジュメが傷みます。それからクリップがやたらひっかかり実に添削しにくいのです。レジュメの種類ごとに仕分けしているのでしょうが、順序よく重ねて提出していれば十分です。それから過去の提出レジュメをすべて出す人がいますけど無駄です。その回の問題レジュメはもちろん、解き直しのときは解説・答案レジュメも一式出してください。

 それから6月に漢検をやることになりました。受検を希望する人は教室に申込書を置いています。

 ◎23年小石川合格者からの報告

 昨日平成23年に小石川に合格した男子から、大学受験の結果の報告がありました。見事第一志望の東京工業大学に合格した、とのことです。受検はしなかったけれど彼と同期に竹の会にいた、26年都立駒場高校合格の女子が、先頃、学習院大学文学部日本語日本文学科に合格した、との報告を受けたばかりでした。

 昨年は22年桜修館合格の杉山太一君が京都大学法学部に一般入試で合格したという報告を受けたばかりでした。

 19年九段中等合格の男子が25年に東京工業大学に合格したとの報告がありましたが、実は、20年に都立西に一般入試で合格した女子からは24年にお茶の水女子大に合格したとの報を受け、同じ20年に桐蔭理数に合格した男子からは24年に東京大学文Ⅱに合格したと直接に竹の会に来て報告を受けました。

 平成13年都立西合格の男子は、その後3年間を竹の会で過ごし、16年に早稲田理工に合格するも東大再受験で敵わず慶應理工に進みました。

 平成11年青山学院高等部合格の女子はその後3年間を竹の会で過ごし、14年に慶應義塾大学総合政策に合格しております。慶應大学には、ほかに法学部合格者、商学部合格者がそれぞれ出ております。

 平成10年に早実に合格した鈴木君は13年に無事早稲田大の商学部に進んでおりますが、実は鈴木君の同期で竹の会でともにがんばった男子が都立駒場に進み一浪して同じ早稲田の商学部に進んでおります。早稲田にはほかに教育学部に合格した男子もいました。ほかに慶應の文学部に合格した都立青山出身の女子もいました。

 思い出せばキリがないほどに竹の会で学んだ子たちから大学合格の報をもたらされてきました。竹の会では竹の会で小学時代から中には中学時代を過ごし、育っていった子たちが、いつまでも竹の会で過ごした頃のことを忘れずにいてくれて、いやとても懐かしがってくれて、折々にいろいろと報をもたらしてくれます。

 ◎勉強をしないという選択ほど無為な選択はない

  人生の指針は何かと問われれば「無為に時を過ごすことなかれ」という言葉をまずあげておかなければならない。もちろん習い事、稽古事に夢中になることが決して「無為に時を過ごす」ことであるとは言わない。言わないけれども、あなたたちは将来大学を出てそれぞれに職業に就く。そしてその職業で一生食べていくことになる。そういうことをふまえて将来どのような職業に就きたいかということに真摯に向き合って今自分が何をしなければらないかを考えてほしい。今もっともやらなければならないことは学問にほかならない。学問で身を立てる、そういうもっとも落ち着きどころのいい思考をしなければなるまい。さてそこで勉強するということが基本的に揺るぎのないことであるのなら、無為かどうかはすべてその初心に従って判断するのがよろしかろうと存ずるのであるが如何であろうか。勉強というものを中途半端にしかやらないという選択はありえない。世の中の現実の受検においては、ほとんどが落ちる、8倍というのはほとんどが落ちる倍率である。そして落ちるのは中途半端な勉強しかしてこなかった、その他大勢のみなさんである。この人たちは、受検といいながらいくらでも勉強しない日を設けて平気である。稽古事、習い事、それにまつわる発表会、天下御免の法事、絶対に避けられない家庭の事情等なんでもありである。そういう人たちに限って合格への思いは人一倍強く絵に描いた餅を現実のそれと錯覚して止まない。

 無為とはあるがままにして作為しないことと定義される。何もせずぶらぶらしているさまをいう、ともある。作為がないとは、勉強に向けた積極的な行動がないということである。怠惰というのが不作為の典型例であろうか。原発の安全義務を放置したのも不作為であるけれど、こちらの不作為は前提して作為義務があり、その違反ということである。義務は法的義務であった。通常の不作為は作為義務違反ではあるけれど法的なそれではもちろんない。不作為は人間を堕落させる。無気力にさせる。ひいては自分の人生を最初から捨てることになる。それでいいのかということである。もちろん自己責任である。堕ちていくのは自分であるから。

 合格を絵に描いた餅にするのは無為に時を過ごすことに寛容な自分の悪しき心に違いない。

 ◎マルバツ思考の弊

 子が悪いのか、それとも親が悪いのか。いや子どもの幼さからくるマルバツ思考というものはある程度はしかたないとしても親が筋金入りのマルバツ思考の人であっては子が幼さから脱皮するのは容易なことではない。学校のテストからしてマルバツ思考なのであるから、子どもというのは日常的にマルかバツかで考えるように教育されているということである。

 一方が正しければ他方は悪である、という論理、つまりは二元思考というのは、思考のありようとしてはこれほど楽なことはない。善悪二元論は、勧善懲悪思想と結びつき、見事に子どもたちの単純化に功を奏してきた。「いる」の証明は簡単だが、「いない」の証明は難しい。後者は悪魔の証明などとも言われる。してみれば「いる」と証明するにはたったひとつの例をあげればそれで終わりだが、「いない」の証明は、「いないこと」の証明は「いない」例をあげても「いない」ことにはならないから、ほぼ不可能である。そこでこれをマルバツ思考で天秤にかけることがそもそもおかしかったのである。マルバツ思考というのは、マルかバツかの判断の前提として比較される対象の等価を前提とする。しかし、等価が前提として成り立つものは少ない。「ある」か「ない」かの判断は、「ない」の過程にかけられるエネルギーが甚大すぎておよそ成り立つまい。善人であることを証明するのは一つの悪行で崩されるほどに難しい。

 マルバツ思考というのは、何も考えないに等しい。マルの根拠を問う、バツの根拠を問う、証明できるのかを問う、悪魔の証明ではなかったのかを問う、もし悪魔の証明の問題なのに、まるで確信に満ちて判断する人間がいたらこの人間は信じてはなるまい。わたしたちは伝聞を根拠に自分の意見を形成してはならないのであって、常に、証明如何を問わねばならない。

 思考とは「過程」である。思考とは、論理の積み重ねである。思考を鍛えるというのは、この論理の積み重ねを訓練することにほかならない。論理とは、前後矛盾のないつながりのことである。答案に「つながり」を示せないのは悪い兆候である。マルバツ思考、つまりは思考なしの判断をする子がその自らの陥穽に気がつけば幸いである。しかし、マルバツ思考から抜けられる子は少ない。

 ◎いつ、止めていただいてもいい、そういう気持ちになってから、心が軽くなりました。いやわたしはいつ竹の会を止めるのか、そういうことをいつも考えるようになりました。生徒がいなくなればその時は止めるでしょう。渋谷教室はおまけですからいいのです。渋谷駅徒歩圏にある塾が夢でした。ずっと叶わぬままに辺鄙なところで27年が過ぎていたのです。2011年の原発事故の年が節目でした。生徒も減少傾向でしたし、それで止めることを考えました。27年の歳月が経ち、その間に大小の夥しい数の塾の栄枯盛衰を見てきました。竹の会はこの27年を生きながらえてきたのです。渋谷教室に移転したのは、2012年5月6日のことでした。今年の10月には満32年になります。今はもうわたしのやりたいようにやりたい、そう思っています。親や子に阿ることはないですね。塾の理想のありようにしたがいたい、指導の根本にそぐわなければ止めていただく、そう思っています。それで生徒がいなくなれば塾を止める、そう思っています。

 

 

 

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