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小6から始めて小石川が獲れるか/選択という教育/都立戸山への道

2016.06.08

 おはようございます。季節はすでに梅雨入りということですが、今のところ雨の日は少ないようです。このままだと夏の渇水も心配されるそうです。さて本日は、渋谷Aの指導日となっております。

 渋谷Aは水曜日は16時~20時で実施しておりますが、よくあるお問い合わせの中に、学校の授業の関係で16時開始に間に合わない、という声があります。16時開始というのは、別に、16時から授業開始と同じ意味で指導開始ととらえられてのことかと思いますが、そういうものでもありません。子どもたちが開始時間にみな揃うと言うことは想定してはおりません。指導というのは、一斉に同じ指導を開始するものではありません。飽くまでも個人個人に合わせた回転軸(指導軸)というものがあり、だれがいつきても来たときからがその子の指導開始ということです。一斉指導開始が16時だということ、16時開始に間に合わなければどうなるのか、という心理には、大手の一斉授業開始というものが意識されたのかわかりませんが、さすがに17時までに間に合わなければ問題ですが、少なくとも17時までに間に合うのであれば問題ないかと思います。指導日当日の指示と指導をし、前回課題の提出、添削答案の返却、新課題などの重要な仕事はすべて問題なくこなせるかと思います。なお、16時開始ですが、教室は15時から開室しております。

 さて本日は都立中、九段中などを受検するとして、合格するほどの力をつけるにはどれほどの期間が必要か、ということに関して私見を述べてみたいと思います。

 6年生から始めてどうか、です。これは平成19年当時とそれから10年経った今とでは、同じではない。当時は中学受験など考えたこともない層が一斉に都立を受検すると言い出した。だから受検層の学力は全体に低かった。それから10年の歳月を経て、都立中の環境も制度の成否を含めて定まってきた。例えば、小石川の受検層というものが、私立難関中の受験者で占められているということ、桜修館や両国についても、私立難関中受験者が併願先としている傾向が強いこと、武蔵についても今後は小石川と同じ運命をたどることになる、ということなど。九段や桜修館については、飛び抜けた少数の上位とその他大勢という構成になるのではないか。特に、九段は、区内枠が足を引っ張る構造は変わらない。多摩地区には大泉、南多摩、立川国際などあるけれど、これらはあえて立川、国立、東八王子などの準トップ都立高校を蹴ってまで行くところかというてらいがあると思う。23区では、都立富士の立ち位置が微妙である。本年の都立高校入試では、この富士と白鷗はほぼ定員割れしていた。高校入試であえて行くところではない、という判断である。富士高校というのは、もともと駒場、新宿には行けないという層が選ぶ定番高校だった。今の桜修館の前身、都立大附属と似た立ち位置にあったと思う。都立三田も似ている。今は駒場や新宿を回避した生徒が行くのは文京高校かもしれない。

 かつてグループ制の頃、都立大附属の下に都立広尾があり、その下に都立目黒があった。が、今は目黒が上で広尾が下だ。いずれにしても公立中高一貫校制度から10年を経て、目黒、広尾の影は薄い。いや大学受験で都立目黒は「ない」であろう。21グループ時代のトップ校戸山、それに次ぐ青山、そして新宿、駒場が、最低ラインであろうか。

 今は、日比谷、西、国立というトップ都立、それから戸山、青山などが都立の精鋭と云えようか。共通問題出題校では、都立駒場、都立小山台も難関とされる。それと同列なのが単位制、独自問題出題校の都立新宿ということになろうか。

 小石川を獲るには、少なくとも小4の2月指導開始が望ましい。いやこの小4の2月という時期は、すべての都立中、九段中において共通する開始時期ではないかと思っている。小6から始めてどうか、ということであるが、判断には子どもの学力、実行力、国語力、合格への強い意志の有無などに左右される微妙な要素の斟酌を要する。なぜ国語力かと言えば、小6からきて成功した子の共通点として、国語力がすぐれていたことがあげられるからである。平成25年白鷗合格の女子は、漢検2級であったし、難関中の論説文の正解率はほぼ100%であった。もちろん算数の理解力も高かった。平成25年小石川合格の女子は、小5の3月、つまり小6直前にきたが、漢検3級、難関中の論説文の正解率は100%近い。この難関中の論説文というのは、たとえば、開成や早稲田、灘などの国語の問題の中で論説文のみを抽出して解かせた場合をさす。過去ほとんどの小6が挑戦するもせいぜい10%ほどしかとれなかった問題である。国語力のある子が合格する蓋然性は非常に高いと言わねばならない。

 だからこうした状況にない小学生が、小6から受検のための準備を始めるということがどんなものかということがおわかりになるのではないか。

 そういうわけで竹の会では、超専門化した算数指導はもちろん小4の2月に遅くとも開始するとしても、国語の指導に力を入れざるを得ないわけである。

 国語、特に論説文の読解というのは、小学生にとってはかなりの難関ではないかと思う。この読解が全くできないという子が合格する可能性はほぼない。今年都立戸山高校に合格した男子が小学6年時にこの論説文を解いたときの正解率は2割弱であった。いやたいていはそんなものであった。この生徒は戸山受験時には国語偏差値70、本番では87点をとっている。なにがかれを変えたのか。現在竹の会で国語の定番レジュメとして使われている「新国語読解」がもたらした奇跡である。彼は最初このレジュメはほぼ0点であった。国語の読解というのを自分で考えて解くと誤解していたのである。そうではない。国語というのは、抽象と具象の織りなす本文から、問いで問われたら、抽象には本文に具象の言いかえを探し、具象には本文に抽象の言いかえを探す、これである。決してあなたの、自分の見解を書くのではない。

 考えてみれば、思考という精神作用も実はそういう風になっている。われわれは、具体的なもののなかからその共通項を引き出して、抽象的な価値観として頭の中にシンプルに整理する。そして抽象的なものは具体的なものに還元していく。頭がいいとはこのような精神作用ができることをいう。頭が悪いとは、具体的なものが超個別化して固定された状態でしか認識されないことをいう。いわば精神の運動がないのである。

 合格するほどの精神作用を獲得するというのは、畢竟こういう精神域に達したことを言う。

 抽象化能力を鍛えるにはどうすればよいか。物事を定義の形で言いかえることである。定義というのはその通用性、一般性のゆえに抽象的言語でしか語れない。わたしたちは、言葉というものが思考の道具として有用にはたらくとしたら、それは抽象化作用という精神作用のおかげだとしらねばならない。定義とは、「・・・とは・・・をいう」の形式で述べられるそれである。

 ○選択という教育

 親というのは、選択をすることによってその選択の対象を教育していると信じて疑わない。ここでの命題、判断が抽象的であるという。さてそれでここから今わたしが述べたことを具体的に敷衍していくことになります。例えばです。親が月曜日は書道、火曜日は珠算、木曜日はピアノ、金曜日はバスケ、土曜日は水泳を習わせるという「選択」をしたとします。これが別の親なら、月・火・木・金は塾というのもあるでしょう。まあ、とにかくいろいろと「選択」をする。どういう「選択」がなされているのか。前者の例では、習い事、稽古事がある日は「勉強はしなくていもい」という選択をしているのです。そしてこの暗黙の前提というものが、実は子どもには親の隠れた意志、意向としてそのまま「教育」されているということに親たちは気づいていない。何かを選択するということは、選択しなかったことを「否定」したという教育がなされたということです。習い事、稽古事、スポーツに夢中になる、部活に夢中になるという選択は、その選択のうちには、選択されなかったもの、例えば勉強を否定している、あるいは消極に解しているということを忘れてはなるまい。

 親が平日の4日も5日も習い事を子どもにさせるという選択は、あきらかに勉強を蔑ろにしてもいいという選択が示されている。子どもというのはそういうところは実は敏感に反応している。つまりそういう教育がなされているということである。親が大手塾を選択したとき、大手のやりかたを肯定して受け入れたとき、子どもは「考える」という時間も方法も価値なしとして否定されたことに気づいていないけれど、ここではそういう教育が日常的に選択され続けるということである。

 進学塾に週4日通うという選択はどうか。難しいからわからない、授業も理解できないけれど、とにかく板書をノートに写す、そういう作業をするだけという子も多いでしょう。授業を理解するのは一部の天才だけですから、秀才と言われる子たちも含めて「わからない」ということが日常のはずです。ここでの教育は、わからないこと、理解できないことを日々確認するという教育がなされていることになります。さてこういう人格否定にどこまで耐えられるか。最後はただひたすら答を覚えるだけ。よく受験直前に志望校の問題を繰り返しやりいつしか答を覚えてしまい、90点取ったなどとほざくバカがいますが、親も半分あきらめてそういうことを是認していますね。末期的症状の典型です。こういう輩というのは、いつしか過去問と同じ問題が出ると信じて疑わないまでにバカが固定して、本番では、必ず「今年は新傾向だった」と言う。それで落ちても仕方ないと親子で納得する。ばっかじゃないの。だいたい本番で「今年は新傾向だった」などという子は頭が固い、勉強量の足りない子に決まっている。

 ひとつのことを選択するということは、他の選択したもの以外のすべてを否定、捨てたことになるという教育をしていることに気がつかねばならない。習い事、稽古事が盛りだくさんというのは、ズバリ勉強というものを捨てたということである。そういう教育を無言の内にしているということである。また特別の選択ばかりを意義あることとしているのは、日常の平凡な日々を無価値とする選択をしていることにほかならない。家族旅行で、家族で食事をするので、家族で出かけるので、といつもこの特別の選択が頻繁に行われているということは、結局平凡な日常というもの、それは実は勉強というものを蔑ろにしている、そういう教育を施していることにほかならない。

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