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悩める母親に捧ぐ「心の指導」竹の会阿部雄彦著平成10年刊

2019.12.20

以下の文章は、平成9年執筆、平成10年刊行の拙著「心の指導」から転載したものです。

第四編 心の指導
 私が『指導論集1』を出してから、早七年の歳月が経とうとしています。あの頃に比べると随分竹の会も変わりました。今では、私の執筆したテキストも相当な数になります。
「私の指導技術と指導理論はこの七年間で変わったのでしょうか。」指導論集を今読み返してみると、荒削りで一途なある意味でかたくなな若ささえ感じます。しかし、そこで述べた主張の根底は今でもなんら変わるところはないような気がします。いやそれどころか、その後の私の指導理論は七年前の私の考え方を実証しながら、確固とした指導技術へ具体化していく過程であったのだと思います。
 本書の第一編では、さまざまな識者の主張を引用していますが、みな私が指導論発刊後に読書を続けるなかから出会った意見です。あまりにも私の考えと近似するものが多いのに驚かされたものでした。第一編では「心の指導」ということで書き始めたのですが、私の指導との葛藤がついには「こころの問題」ひいては「母親の問題」にまで及んでしまいました。なんだか、書い
ているうちにかなり現代母親批判論のようなことになってしまい母親のみなさんに叱られそうですが、ここでは言いたいことを歯に衣着せずに言わしてもらい、問題を提起しておくことのほうが大切だと思いあえて書きました。

 第一編では、西岡常一(にしおかつねかず)さんの話を引用させていただきましたが、実は西岡さんには『木に学べ』と題する口述筆記の著書があるのです。この本は私に生きることの意味を強い説得力をもって教えてくれました。西岡さんは1930年代から法隆寺昭和の大修理に携わり、その後、薬師寺の再建に着手して、薬師寺宮細工棟梁として活躍されてきた名人といわれてきた人です。以下には、西岡語録を引用しながら、西岡棟梁に人生をそして指導論をお教え願おうと思います。
 (引用部分には、『…』を入れました。引用は要約してあります。)
 法隆寺はヒノキで造られています。法隆寺は千三百年前の建物です。これがちゃんと建っているのは西岡棟梁によると樹齢千年のヒノキを使っているからだということになります。『ヒノキという木があったから、法隆寺が千三百年たった今も残ってるんです。ヒノキという木がいかにすぐれていたか昔の人はすでに知っておったんですわな。』『自然の木と人間に植えられてだいじに育てられた木では当然ですが違う。自然に育った木は強い。なぜ。木から実が落ちてもすぐに芽を出さない、いや、出せない。ヒノキ林には地面までほとんど日が届かん。種は何百年もがまんする。スキ間ができるといっせいに芽を出す。何百年もの間の種が競争する。それを勝ち抜く。だから、生き残ったやつは強い木です。それから大きくなると、となりの木、そして風、雪、雨・・・木はじっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残る。千年たった木は千年以上を勝ち抜いた木です。』

 生きぬくことの厳しさを木に教えられる気がします。がまん強く生きぬくこと、ヒノキは私たちに飛鳥の昔から必死にその生きざまを、生きることの真理を訴え続けていたのかもしれません。『五十メートルの木の高さやったら五十メートル下まで根がはっている、といわれている』

 生きるためには土台がしつかりしていなければだめだということでしょうか。 子どもは大人になって自立してひとりで生きぬいていけるように土台を築いていかなければならない。

『( 土壌の条件 )厳しい条件のところで二千年以上のヒノキが残る。 台湾のヒノキは士壌がない。 岩ばっかりや。 風化して割れてる。 その間に水がしみ込んでいる。 ほんのわずかの水をめざしてヒノキの根が岩の間に入ってくる。 こういう条件だからこそ二千年の木が育つ。 人間も同じ。 甘やかし欲しいものがすぐ手に入ったんじゃ、 いいもんにはなりません。 木は人間に似ている。 環境と育ち方が木の性質を決めてしまう。 土地によって木の性質が決まってくる。 木を知るには土を知れ。 』

 人間でいえば、 環境と育ち方が子どもの性質を決めてしまう、 ということでしょうか。

環境とは、 木の場合は根をはる土ということです。 人間の子どもの場合は、 家庭とくに母親ということになります。

『ヒノキならみな千年持つというわけではない。 木を見る目がいる。 木を殺さず。 木のクセや性質をいかし てそれを組み合わせて初めて長生きするんです。 堂塔の木組みは寸法で組まずに木のクセで組め。 木のクセは木の育った環境で決まってしまうんです。 そのクセを見抜かなくてはいかんわな。 木というのは正直や。 千年たった古い木でもぼっととれれば右ねじれは右にねじれてしまう。 人間と大分違う。 動けないところで自分なりに生きのびる方法を知っておるんでしょ。 木のクセのことを木の心や言うてます。 風よけて、 こっちへねじろうとしているのが、 神経はないけど 心があるということですな。 』

 子どものクセは子どもの育った環境で決まってしまいます。 子どもがヒノキのように正直なら子どものクセをつまり子どもの心を子どもを殺さずいかすことができます。 人間とは大分達うといっていますが、 クセの部分では同じような気がします。 子どものクセをいかす指導というのも考えてみたいですね。 でも、 甘やかしの結果のクセはいかしようがないと思います。

『 二千年の正し い木は 二千年相応の葉の色をし ています。 葉の色が渋いものが中は詰まっているんです。 そういう木は決まって大きな幹があって枝が出ています。 』

『 人間というのは知恵があってすぐ れた動物やからなんでも自分の思うようにしようとするけど、 そんなの自然がなくなったら人間の世界がなくなるんです。 そう考えたら木も人間もみんな自然の分身です。 おたがい等しくつきあっていかなあきません。 それがむやみに切ってしもて。 もう使えるヒノキは日本にはない。 今になって緑や自然やゆうても…。 人間賢いと思っているけど 一番アホや。 動物は食う量にし ても木や自然とうまくつりあっ とる。 それが人間はすぐ 利益をあげようとする。 今は金のためならなんでも刈ってしまう。これじゃ木はなくなる。 自然を忘れて自然を犠牲にしたらおしまいや。 近ごろの人は自然を尊いものと考えておらん。 今は太陽はあたりまえ。 空気はあたりまえと思っている。 心から自然を尊ぶという人がありません。 』

『 資本主義も結構やけどね、 日本の資本主義というやつは、 飽くなき利潤追求ですわ。 適正な利潤追求ではない。 日本中が金もうけのことばっかりや。 飽くなき利潤追求ということは、 みんな押し 倒してしまうということやからね。 』

『 女性は家庭におって、 男の人の後ろ姿を見て、 あれが悪いこれが悪い、 これだけ取りのけて、 子供に良識を植えつけていく。 そうせんと次の世代は開きませんわ。 』『 男は現世

を生きていくために、 自分の家庭を守るため、 又社会人とし ての責任も果たさなならん。それだけでせいいっぱいですがな。 女の人の役割りというのは、 現世的なもんやないんです。 ただラクをするとかトクをするとかだけ考えてたらあきません。 』

 以上『 西岡語録 』のほんの一部ですが、 私が特に共鳴したところを少しずつ紹介し ていきました。 最後に引用した女性論は男女同権論者や女性の地位なんとか論者などから、 ひ んしゅくを買いそうな意見です。しかし、 最近の少年の凶悪犯罪の増加と家庭で子どもを育てない、 はたらく女性の増加とは無関係ではないような気がします。 昔は、 きちんと母親が子どものそばにいて、 子どもをやみくもに甘やかすということもなく教育し ていた。母親がそばにいるというだけで、 子どもは幸福であった。 子どもの心は限りない安心感に 満ちあふれ安定し ていたのである。 物はなくても、 母親は十分に子どもに心を与えていた のである。 テレピなどでキャリアの女性が堂々と論をはっているのを見ることもめずらし くはない時代です。 彼女たちは自分が人並み以上に子育てに時間を割いていることを強調します。 それは結構なことですが、 実際そういう母親の子どもの心には母親の心に飢えた満たされない不安が醸成し続けていることは間違いないはずです。 母親が子どもを育てる ということは、「 ながら 」育てることでは不可能なのです。 子どもはいつも母親に見てい てほし いのです。 そうし て初めて子どもは情緒が安定するのです。 これは悔し いけれど 男 には代替不可能だと思うんです。 だから、 男は思いっきり虚勢をはって子どものために盾になってやる、 そんな父親の気概が子どもの心に届けばいいんです。 男は淋し いものです。

 昔は貧乏だったけど母さんがいつもそばにいてくれました。 腹をすかし て学校から帰ってくるとやさし い母さんがニコニコしながらイモを蒸かし ていてくれました。 イモを食べるとすぐ 外に遊びに飛び出し てもう暗くなるまで時を忘れて遊びました。 暗くなって遊び 仲間が一人減り、 二人減り、 いつしか私一人なってしまうのです。 そこでようやくお腹のすいていることに気がついて家をめざしてかけたものです。 家の近くにくると台所の方に 明かりが見えおいそうなにおいがし てきます。 母さんが夕飯のしたくをし ているのです。 私はうれしくて心が弾むようでした。 ずっと昔にまだ幼かったころに家に帰ると母さんが いなくて大声で泣きながら母さんを探したことを今でも鮮明に覚えています。 今はもう死 んでいなくなったばあちゃんが怒ったように私を慰めてくれたことを思い出します。 中学、高校と父親に反抗するようになって母さんを苦しめてきました。 高校も何度かやめようとしました。 高校を出てからも父親との仲は悪くなるばかりで私には心の休まる日がありませんでした。 睡眠薬を呑んでフラフラになったこともありました。 心配した母さんと叔父 さん( 母さんの弟 )にカウンセラーのところに連れていかれたこともありました。 その叔父さんは私を本当によくかわいがってくれ、 私は「 ショウ兄チャン 」といって慕っていました。 その叔父さんもガンで亡くなり今はいません。 ショウ兄ちゃんが死んだとき私は電話口で声をあげて泣きました。 ばあちゃんが死んだのは私が九州大学に合格した後の夏でした。 いままで迷惑ばかりかけてきたばあちゃんがみんなに私のことを自慢し てたそうです。 安心したのか、 あっという間に死んでしまいました。 私の心に深いキズを残し て。 今もふと気がつくと「 ばあちゃん、 ごめん 」とつ ぶやいていることがあります。 私が父親と 喧嘩し て東京に飛び出したことが母さんを苦しめ、 ばぁちゃんを悲しませてきたのです。 私はやけくそでした。 東京で大型トラックの運転をして生活し ていました。 高校を出ると すぐに大型免許をとっていました。 私の心にはいつも優しかった母さんとばあちゃんの心 がありました。 わたしが大学へ行くことをあきらめずにいられたのは少年のころやさしか った母さんのことをいつも思っていたからだと思うのです。 故郷で生活し ているばあちゃ んがいたからです。 私は故郷の別府に帰り父親に頭を下げて大学受験をすることになりました。もともと私の父は私が大学へいくことを望んでいたのです。 それでも結構皮肉をいわれました。 入試まであと五か月という時でした。 その頃の私はなぜか心に落ち着きを取り戻し平静に受験勉強ができました。 毎日、 午前中は九時から十 二時まで、 午後は一時か ら六時ごろまで、 それから近くの温泉にいき、 七時ごろに夕食です。 この頃父は駅長にな っていて官舎住まいで母もいっしょにいっていましたから、 私は祖母と弟の三人で実家に いました。 姉はすでに嫁にいっていましたから。 そういう環境が私に勉強に集中させてく れたんです。 ばぁちゃんが一生懸命私のために夕飯やら昼ごはんをつくってくれたんです。弟は高校でてから今のN T T に入り内部の専門過程に進学しました。 すでに社会人だった んです。 私ひとりがはぐ れ者でブラブラしていたわけです。 それでいてなにかにつけて父親と衝突するわけですから、 まあ母と祖母にとっては本当に心配の種だったと思います。

 お正月もなにも関係なく勉強のリズムを崩さずに生活しました。 私が初めて素直な気持ちで生活できた頃かもしれません。もうだいぶ東京で鍛えられてきたので多少がまんすることも覚えたのだと思います。 わずか五ヵ月ほど の勉強で大学に合格できたのはまさに奇跡でした。 父は 二期校をすべり止めに受けろと厳しく言いましたが、 私は九州大学だけを受験しました。 もし落ちたらそのときは、 ひっそりと故郷を去る決意でした。 今度は横浜で働こうかななどと考えていました。 今、 私は東京にいます。 武田鉄也ではありませんが、思えば遠くへきたものです。「 故郷を離れて十五年  今では女房  子供もち  あの頃恋しく思いだす  振り向くたびに故郷は  遠くなるような気がします 」

 私がここまで立直れたのは、 少年のころのやさし い母さんの夕飯をつくる姿がいつもまぶたの裏にあったからです。

 今の子は物には不自由しないけど 母さんはいつもいないんです。 外で遊んでいても家に帰れば忙しそうにはたらいている母さんがいる。 少年の心は安心感で満たされるのです。いつか家で淋しそうな母さんを見たことがありました。 私はなぜかし ら悲しくてしようがありませんでした。 ニコニコして動き回っている母さんが好きでした。

 西岡棟梁の資本主義批判は私も同意見です。 飽くなき利潤追求は、 世の中すべて金の風潮を蔓延させました。 一番の被害者は子どもたちです。「 物 」に支配されて「 心 」をもたない少年たち。 ヒノキの心を自然を敬うことを教えなければいけなかったのは私たち大人たちなのに、 その大人たちが物に踊らされているのです。「 ほどほどにしておけ 」「 腹八分 」など という言葉がありますが、「 飽くなきまで 」はやはり愚かです。 動物は必要なだけ食ったらもうそれ以上はからない、 ということですが、 この点はやはり自然の摂理に従っているわけですから、 偉いですよね。 人間はなまじ 知恵がはたらく分始末が悪い。 自然を馬鹿にする。 飽くなき物欲が結局人間自身を追い詰めていくのでしょうかね。

 長い間、 子どもたちを指導し てきて、 いつも思うことは、 子どもの心にいつもその母親の心が重なってあるということでした。 子どもの心の中にはいつも母さんがいるのです。そしてたくまし い頼りになる父さんが子どもの誇りになっているのです。 やっぱり父さんはタテなんです。 西岡棟梁が言うように、 子どものクセは母親で決められてしまうとおもうのです。 だから、 母親が正しく子どもを育てているかということが、 やはり子どもの運命を決めてしまうんです。 ヒノキを育てた土壌のように母親が根の部分をしつかり支えてやることなんです。 根は精神的な独立心というか、 強さみたいなものです。 ヒノキが風雪に耐えながら大きくなっていく、 強く生きぬく、 心の支えなんです。 母親が土壌とし てはしまう。 土壌は根にとって決し て優し い条件であってはならない。 厳し い土壌が強いヒノキを生むのです。 そういう厳し い土壌はこんなにりっぱなヒノキを育ててくれたんですから、 ほんとうはあたたかい愛情にみちた包み込むような母親の愛の土壌だったんです。たらいていないと、 いつまでも自立できないアダルト・チルドレンみたいなことになって根にやさし い土壌はヒノキを殺します。『 青々とした木に限って枝がうつむいている。黄ばんだ渋い色の葉はいったん上を向いて出て、 それから下に下がる。 中が空洞だと上にあがった枝が重いから耐えられんのです。 それで下を向いてしまうわけです。 』

子に甘くすることが、 結局子を殺すことになる。 これは深い母親の愛とはいえないと思うんです。

子どものクセは、 母親のクセでもあるわけです。 こう述べてくると、 私は指導ということで母親すなわち土壌と対し ているということになります。 子どもの根の部分をしつかりと支えている土壌なら根をはるような指導ができます。しかし、 根がグラグラするような土壌だと根をはるどころではありません。 指導がここではできないのです。 ここで必要なのは子どもの指導ではなくて、 実は母親の、 つまり土壌の改善のほうなんです。

 私の最近の指導理論がどうし ても母親論にいってしまうわけです。 ここで最初に私が掲げた命題を想いだしてください。

「 私の指導技術と指導理論はこの七年間で変わったのでしょうか。 」

いままでに私が書いてきたことがその答えになるでしょうか。 それまでの私は子どもと対するとき子どもとしか向き合っていなかったと思うのです。 私の指導理論はあげて対子どもに向けられていました。しかし、 最近の私は、 子どもの心の中に棲む母親をも視野に入れて子どもを見ていると思うのです。 子どもひとりひとりのクセを見抜いてそのクセを生かしながら教え導くことを考えるようになりました。 そのために指導技術も変わってきたと思います。 子どもを見るときは母親を見て、 つまり土壌を見極めて見るようになりましたから、 子どもひとりひとりのとる行動を見て、 クセを見て、 指導技術を生かすことを考えています。

 西岡棟梁の言葉を借りていえば、 子どもはヒノキです。 真っすぐ としたいいヒノキに育てるために私は少しばかり世の母親の皆さんのお手伝いをさせていただいています。 樹齢千年のヒノキは風、 雨、 雪に耐えてがまん強く生きぬいてきたのです。 子どもをかばうあまり子どもが悪にさらされることばかりを恐れてはいませんか。 子どもが強く生きぬく術を身につけるためには悪にさらされることも必要なんです。 子どもが悪と葛藤し ているとき母さんは子どもの根をしつかり支えてやるいい士壌になってほし いと思うのです。

 私の母さんは歳をとりましたが、 まだ故郷で元気に暮らし ています。 姉も弟も母のいる故郷で暮らし ていますから、 母は私のことばかり心配し ています。 父もすっかり歳をとりました。 そし て丸くなりました。 私との確執が何もなかったかのように、 無邪気に孫を相手にし ています。 私は、 遠く離れたところから、 いつも父さん母さんに謝っています。 そして天国にいったばあちゃんに「 ばぁちゃん、 ごめん 」といっています。( 終 )

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