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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日本一の公立日比谷を獲る決意/小石川、桜修館、落ちるのが当然と思え/継続が道を拓くということ

2017.02.08

 おはようございます。朝から仕事に追われまして今日はブログの更新はできないと思っておりまたが、少しだけ時間の余裕がでました。正直連日超多忙ですが、観念して仕事に没頭しております。不安なのは今年は多くの新作レジュメの執筆を抱えていることであり、本音を言えば、「渋谷B」をやりきるだけの体力があるのか不安です。しかし、熱心な子どもたちが遠くから休まず通ってくるのを見ていると、わたしも弱きになってはいられないと思い直します。指導というのは日々現場勝負なので、なかなか思考形成にまでいたらない子、これを指導不調と言っているのですけれど、そういう子についてはやはり指導を打ち切る、そういうことになるのか、と寂寥の感を強くすること頻りです。進みは遅くてもいいのです。確実に思考が作られているな、と思えるのならいいのです。「合格はんこ」がほとんどとれないままに推移しているということがわたしには重くのしかかるのです。粘り強くいつまでも考えてなかなか聞きに来ない、そういう子はたとえ合格はんこがとれなくても見どころのある子です。陸に考えもせずすぐあきらめて聞きにくる子というのは後々失速する可能性が高い子です。この子は家庭学習というものをほとんどやっていないなとか、親によく訊く子なのかな、親もまたよく教えるのかなとか、わたしにはわかるのです。それはもう長い間子どもたちというものを見てきましたから、その子の能力を見極め、その能力からはここまでという見切りというのはかなり正確にできていると思います。課題をやらないという子については、早晩他の子との差がもはやどうにもならないほどのものとなる。平成28年卒業の小6には、課題を不完全なままにやり過ごした子がいましたが、その子の場合は、週の何回かを習い事、稽古事にあてている、それもかなり熱心に取り組んでいたのではないか、だからそういう結果(不合格)なのではなかったのか、と見ています。課題にも正面から取り組まないと、とても竹の会の課題は太刀打ちできない、と思います。小4はまだ少なくていいのですが、小5だとそれはもうかなりの種類と量になる。今の小5でも、課題レジュメの量にかなりの較差が出ています。ほとんど出さない子もいます。毎回きちんとすべての課題を出し切る子もいます。また「解き直し」というものを全くやらない小5がいますが、これをきちんとやる子との力の差はかなりの差になっていくはずです。竹の会の課題を真剣に取り組むとしたら、もはや習い事や稽古事などやる時間などはないはずです。習い事、稽古事をやればそれだけ竹の会の課題で手を抜くしかないはずですから、その寛容な心は油断にほかならず、小さなことも何か月も経てばもはや取り返しのつかない差になっているはずです。すべて勉強とはそういうもので、日常のちょっとしたたいしたことはないという弛みも、塵も積もれば山となるで、時の経過に比例して大きな差になって直面することになるのです。

 課題はもらったら必ず次には出す、これが大切です。遅れればそれだけ次の課題が遅れていき、結局、きちんと出す子の何分の一もやってないという状態で本番を迎えることになる。よく課題レジュメをなくす子がいますが、レジュメの管理ができないというのは、責任感を疑われても、しかたない。幼さというのは、責任という観念がまだない状態です。親が代わりに責任を負う、それが幼児です。幼児に責任観念というものを学習させること、これは重要な教育のひとつです。責任というのは、自らが負うけじめです。わたしは教育とはがまんさせることだと思っていますから、子どもにはがまんさせることを強いる、これが親のやることです。子どもが欲しがればどんな高価なものでも買ってやるというのでは陸な大人にはならない。わがままなバカ息子、バカ娘にしたければそうすればいい。教育というのは親と子の我慢比べのところがある。子に我慢を強いるのは親にも我慢である。やせ我慢することもある。子どもがやってはいけないことをしたらこれは叱るのが当然で、こういうときは責任というものを教育しなければならない。課題がいい加減なのは親がなんとかしてくれるとか、自分がやらなくてもだれかがなんとかするということを教育してきたからでしょ。子どもの中には何かやらかしても決して「ごめんなさい」と言わない子がいます。そういう子がよくいます。これなんかは親が教育していないからでしょ。まず責任ということに無垢であるから謝るというところにいかない。親が我慢させないで好き勝手にやらせてきたからでしょ。過保護というのは子どもにがまんというものを教えないから、むしろ我慢しないことを教えているから、ダメということでしょ。社会に出て使いものにならない子に育ててどうするのですか。我慢を知らない子というのは、やらないこと、できないことの言い訳ばかりします。竹の会の課題ということを通して子どもの内面が透けて見えるのです。

 こつこつ続けることがいつか道を拓く。これも我慢のひとつです。あるいはぶれないということの別の局面での表現です。何度も稽古をしているうちにその要領を覚える。それが学習の基本です。初めて学ぶことは大変なことです。最初は要領がつかめずあれこれ失敗し落ち込むこともあります。これを乗り切るのはその対象に対しどこまで真剣に考えているか、です。情熱と言いかえてもいいけれど、より正確には、真剣度です。真剣だから、必至にいろいろ考える。わたしは18歳のときに、大型免許をとるために40日教習所に通いました。あのとき社会人ばかりでわたしを含めて11人が受講しました。店員とか、整備工とか、さまざまな人がいました。中には普通免許を持っている人、もともとの勘がいいのか、運転感覚を誉められる人もいました。しかし、わたしは全くの未経験者でそもそも運転などしたこともない。それがいきなり6㌧もある大型車の運転を習うのだから、メチャクチャです。最初はなかなかうまくいかない。まず発進がスムーズにできない。大型車のクラッチは重く、体重をかけて強く踏み込まなければならないし、ハンドルも重い。それよりも運転席から見た道路は狭く、とても通れるとは思えなかった。「道路の真ん中を走っている気持ちになれ」とか言われた。クランクとか、坂道発進とか難所ばかりだった。わたしは書店で関係の本を買って、こつをつかもうと必死に勉強した。キイーワードは「内輪差」という言葉だった。この内輪差を計算に入れて運転席から操作するのだとわかってきた。そしてその内輪差は大型車の場合、バックミラーで判断するのだということもわかってきた。いつしかわたしは要領がわかってきた。指導教員は、「クランクの鬼だな」とわたしのことをあきれながら言った。わたしのクランクのハンドル捌きを見てみんなが感心した。実技試験では、11人中の10人が合格した。高校3年生の春、わたしはこんなことをしていたのか。憧れの京大に行きたい、という夢を胸に、わたしは何かしたかった、じっとしておれなかった。

 「あてようとするからあたらない」。剣の道に入った15歳の子が師匠に剣の指導を受ける場面である。いくら打ち込んでもあたらない。そのときに師匠から出た言葉だった。ゴルフで1メートルほどのパットが優勝を決めるというときに、惜しくも入らない、という場面がある。これなどは、「入れようとするから入らない」ということになるのであろうか。

 「あてよう」というその気持ちが木刀をつかむ手に集中しているから、手に力が入るのだ、と師匠は説く。「力を入れるな」。何度も練習することだ。何度も稽古をしているうちにその要領を覚える。稲葉稔の時代小説には学ぶことが多い。真剣になればなるほど力が入るものだ。しかし、力を入れたら失敗する。だから難しい。わたしはテニスをやったことはないけれど、テニスはもちろん技術と体力が要であるとして、それ以上にメンタルの強靱さが問われるスポーツだということを錦織選手の試合を通じて知った。大学の教養課程でテニスを選択したことがあったが、ラケットの振り方さえもわからないままに終わってそのままで、息子が中学から大学までテニスをやっていたのでよくテニスの試合を見るようになり、四大大会の試合はよく見ることがあった。絶対に負けない、というメンタルはただ思い込むだけではだめで、過酷な練習を耐えるということだけでもダメのようです。これはどこまで自分を信じるか、という極限の問題かもしれない。最後に自分を信じ切れない、不安というものが少しでも頭をもたげれば、たちまち崩れる、それほど繊細で、紙一重、生死の見境が微妙すぎていつどちらに転んでもおかしくない、そういうところに行きつくのであろう。

 最後の最後、微妙な生死の境を切り抜けるメンタルの強さというのは、実行することに迷いのない、その意味では自分に不寛容な人間のみがなし得る、達しうる境地なのかもしれない。

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