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日比谷、西、戸山をめざす志し熱き中学生こそ竹の会/小石川中等、桜修館は竹の会で確実に合格/先送りする親と子の末路

2017.09.23

 おはようございます。昨日の雨がもたらしたのか一気に秋の気配が漂う朝でした。スーパーには奈良産の柿がもう出ています。秋の果実の代表と思いますが、我が家では柿が好きなのはどうもわたしだけのようです。青かった早稲みかんもそろそろ終わり熊本や愛媛のみかんがそろそろ店頭を賑わすのでしょうか。秋深まれば紅葉の季節が訪れて暫し心を安らぎの中に漂わせることができる、そうこうするうちに寒さは厳しくなり、肌に刺す、身を切るような冷たい空気の中に身を置くことになる。12月という特別の空気が支配する時期からわたしの心身は異常な緊張を強いられる。12月30日には兆候があり31日は38度超という悪夢を近年二度も経験しかなり緊張して迎える冬期であった。冬期指導の終わる1月8日を過ぎると、とにかく平穏に体調を管理して過ごすようにと子どもたちには告げるのみ、というのは合否はすでに11月で決まっている、そう思っています。世の親たちがぎりぎりまでわからないと思っているのはそういう親たちが勉強というものにほんとうに真剣になったのがごく最近のことだからです。22年に桜修館に合格した杉山太一君にわたしが「君は合格します」と断言したのは、秋深まる10月ことでした。わたしには「この子は受かる」とわかったのです。23年に小石川に受かった子のときも12月には親御さんに「合格すると思います」とメールしています。杉山太一君が竹の会にやってきたのは小6の6月のことでしたから、今考えると随分遅かった。小石川に受かった子が竹の会に来たのは小4の8月のことでした。小4から始めているずいぶんと楽です。指導に余裕があるからです。そのへんのところはこのブログでも何度となく書いてきましたが、小5にきた子たちというのが、時間が足りなくなるというのは、すでに平成27年の小6たちのときに親御さんたちにはわかっていたようです。よく「もっと早く始めていたほうがよかった」というようなことを耳にしたからです。子どもたちもそのことは痛切に感じていたようです。あのときはほとんどが小4の2月スタートでした。もっと早くから始めたかったのですが、当時の親たちは小5からでもまだ早いと思っていたようです。しかし、特に、小石川は小4から来てないと合格を確信するまでの指導は難しいというのがわたしの結論です。

 ※杉山太一君はニューヨークのテロで父親が犠牲になった辛い過去を持っています。去年桜修館から京都大法に現役で合格しました。23年小石川合格者は今年東京工大に現役合格をしています。

 幸いにして再来年の受検については、小4早期からきてくれた子たちがいまして、順調にノルマをこなしています。久々に納得のできる指導ができそうです。その小4もすでに小5となり、中には、算数ではすでに小6をはるかに凌ぐ力をつけつつある子たちも出ています。現小6には小5の成長に目を見張る思いを感じている子たちもいることでしょう。小5からやるのと、小4からやるのとではその違いがあまりにも露骨に明らかな事実を露呈してしまいます。いつの間にか小5が小6を凌ぐという事態が普通にあるわけです。それほどに小4の早期に指導開始するということは重要なことなのです。しかし、今年の小4募集では相変わらず集まらない。竹の会の知名度がないということも大きいのかと思いますが、目に触れてもそれほど深刻に感じる親はほとんどいないということなのではないか思います。大手に行く親というのは相変わらず多く、このへんのところは迷いがないようですが、それが失敗の始まりだということに思いたるわけもない。1年、2年と通ってしかその愚を悟らないのはいつものことです。その意味では、竹の会には小4のとき大手で過ごしたという子がかなりいます。大手で過ごした1年が今の実力にほとんど反映していないというのにはあきれるばかりです。大手からやってきた子も結局計算から鍛え直し、割合だって無知に等しく最初からやるほかないのですから、そんな大手に1年もカネかけてなんでいくのかわたしにはさっぱりわかりません。

 わたしは本音で申し上げています。竹の会に小4の早期にくれば全然ちがうということを知るはずです。竹の会は正直だと思っています。見込みがない子には正直に申し上げるからです。仮合格というのも確かな見込みがもてないゆえの対応です。しかし、正規の合格をしても諸々の理由でだめになる子もむしろ多いわけでなんともいえないのが現実です。28年に白鷗に合格した子は準合格でしたが今なら仮合格だったと思います。当時は時間に制限なしで辛うじて準合格だったからです。今は制限時間がありますからそうはいきません。こう申しますのも竹の会はわたしの体力もありましてそれほど長くは続けられないという意識が強く、竹の会に会えるのは実は今しかないのではないかという思いが強いからです。

 ◎レジュメを出してこないなら竹の会にいても意味がない

 特に、中学生について言っておかねばならないのは、レジュメを出してこない中学生は竹の会にいる理由がない、ということです。そんな中学生がいるのか、と思うかもしれませんが、小学と違い、中学生については、より主体性を重んじてようすを見るということが多々あり、そうするといつまでも出してこないということがよくあります。さすがに現中1については、わたしはかなり危機感を持ちまして、全員退塾も覚悟しました。出してこないにもほどがあるということです。そもそも学校の進度より遙かに遅れているというのはありえない話しです。最近現中3が忽然と退塾しましたが、中1からこの方全くといっていいくらいにまともにレジュメを出してきたことがなかったと思います。真面目にやる姿勢を評価し、人柄もいいということで傷つけることを懼れる余り、レジュメを出さないことを大目に見てきたことが結局裏目に出てしまいました。やはり中学生には厳しく対応していかないとだめで、Z会通信を始めたというのも終ぞ知りませんでしたが、知っていたら退塾などの措置はとっていたと思います。実は中の夏前にはレジュメをほとんどやらないということでこの中学生には退塾を通知していたのですが、懇請れてしかたなく引っ込めた経緯がありました。

 中学生のみなさんは竹の会というのはレジュメを出してなんぼだということをよく理解しておくことです。そしてレジュメを出さないイコール退塾の潮時とはっきりと自覚したほうがいいと思います。

 ◎先送りする親と子の末路

 よく竹の会に問い合わせてくる親御さんには結局「入会を先送りします」という人も少なからずいました。中学生だとやはり費用をかけたくないという意識が強いようで塾に行かないで、あるいは入塾時期をぎりぎり遅らせてという家庭も多いかと思います。経済的事情ゆえにこれにはわたしもなにも言うことはないのですが、それならもう潔く現状を認めて塾なしでいくにしくはないのかと思うのです。小4から大手に通わせる親は別として、初めて塾に行くというのが小5からという家庭はやはり経済的なものと教育的な要請との鬩ぎ合いというか、妥協点がちょうどこの時期なのかなと思います。ただわたしから言わせればこれが遅いというわけです。なかには習い事や稽古事を優先させたいという家庭もあるわけでそういう塾先送りも多いのですが、受検ということでは、かなりリスクのある選択のように思います。

 先送りする姿勢というのはこれから先試験というものを乗り越えていくとしたらおそらくは致命的な末路をもたらすのではないかと思います。今やれるのに先送りするというのは凡人にありがちな怠惰心の為す業ですが、つまり「めんどうくさい」から先送りするというのは落ちていく人間の典型なのですが、多くの家庭はさまざまな事情で取りあえずの先送りというのをよくやるわけです。ところがどんなにのっぴならない、避けられない事情(法事とか、帰省とか、親戚の集まりとか)としても先送りする家庭というのはそういう先送りが多々あるのに対して、成功した家庭というのはなぜかそういうものが一切ないのが不思議なのです。25年に桜修館に合格した女子は小4の2月から合格まで塾を休んだのは二度だけで、それもインフルエンザと発熱が理由でした。わたしはいつか尋ねたことがあったのですが、「帰省はしないの?」「旅行はしないの?」と、すると微笑みながら「何もない」と言うだけでした。平成10年早稲田実業高校普通部と商業にも合格した鈴木君は小6の4月入会でしたが、中学の3年間ほとんど休んだことがなかった。当時は月から金までの5日間、開始16時から21時までだったと思うのですが、休んだことはない。彼は柔道部長と生徒会長をやっていたので塾にくるのはいつも6時前後でしたが、どんなことがあっても塾はやすまなかった。盆とか正月も必ず塾があればきた。「どこかに行かないのですか」と聞いたら「どこにも行かない。暇なので塾に来たほうがいい」というようなことを言っていました。平成20年都立西に合格した女子は小6の4月から中3合格まで竹の会にほとんど休まなかった。わたしは成功する家庭というのものに共通の意識をずっと感じてきました。勉強というものがまず家庭の中でなによりも大切だという意識で迷いがないのです。疑いを差し挟む余地というものがないのです。かれらにとって塾にきて勉強するというのがごくあたりまえのことだったのです。生活の一部だったのです。勉強を先送りするなどということがありえないのです。

 これから中学、高校、大学と試験からは逃れることはできない。試験というのは、正直寝食を忘れるくらいに勉強しなければとてもものにすることなどできない。中学になってゲームに興じる子を嘆く親御さんも多々いるかと思いますが、現実はシビア―です。その限りでその子の未来はもう多くの怠惰な人間が歩むであろう道を辿ることになる。人生というのは取り返しのつかない、引き返しのできない、迷い道だらけですから、いったん迷い込んだらなかなかもとある道には戻れない。先送りというのは迷い道へ踏み入れることにほかならない。

 勉強というのは強い意思、自制、自律の支配する者のみがなしうる行為であり、悩み多き凡人、目の前の誘惑に引き込まれる凡人には結局手の届かないものに違いない。

 

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