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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷、西への道には竹の会あり/都立中高一貫校への道案内/世の中には社会難民の予備軍たる小中生が多数棲息していること

2018.01.15

 おはようございます。今日は朝から提出課題の添削その他の時間をとられ、また渋谷に出る用事があり、ブログには手が回らないものとあきらめておりました。少しだけ時間が空きましたので、教室に向かう前に少しだけ書いておこうかなと思い立ちました。

 本日はもう1月15日となりました。すでに願書を出されて受検番号待ちのことと思います。本番まで2週間とちょっとですね。これからは丁寧さと注意深さを心がけてくださいね。それから本番では、なに半分とって、後はおまけをとっていく、そういう心持ちでいいのです。問題は大切に読むことです。適性のいいところは問題文の中にヒントがあり、答えも隠されていることです。素直に考えることも大切ですが、罠は必ずあります。それも注意していればわかる罠です。気が動転していると簡単な罠にも見事にはまるものです。「気」を抑制するのはなかなか難しいものですが、あなたたちは竹の会特製の電話帳の7回解き直しという気を鎮める薬をもっているのですから、気を確かに持ってください。

 ◎なぜ竹の会の子は伸びるのか

 子どもをどのように教え導くかを知っているからただその手順にしたがっているだけです。子は竹の会の指導を受けるようになってまず変わっていきます。子どもにとって「わかる」ということが、眠っていた「生きる」本能、~これは子どもにもともと備わっていた能力です~を目覚めさせる、子どもは生きるということをどう表現していいのか、わからないから、彷徨っているだけです。これをバカな親が過保護で誤った方向へと矯める、「生きる」ということを身につけさせなければならないのに、ペット扱いする。指導というのは、子どもにもともとあった「生きる」という導火線に火をつけることにほかならない。勉強が生きるエネルギーを燃やすことを知る、子どもにとって「わかる」とは、生きる喜びなのです。竹の会の子たちが、わたしの指導を受けるようになってよく「変わる」と言われるのは、子どもにとって「わかる」ということが、生きる喜びをもたらすということを如実に物語っております。目は生き生きと輝き、自ら生きる道を突き進むようになる、それが子どものもともとの本来の、本然の姿なのです。指導の本質は「生きるとは何か」を悟らせることです。

 竹の会に通うようになって、たいていの子どもたちは、変わる、それは親が見ても驚くような変わりようである。言われないのに机につく、机に向かっている、と親が驚く。

 さて子どもに投与する薬は何かな? 「わかる」という薬かな、大切なのはその薬は少しずつ与えることかな。この「わかる」という薬、実は処方が難しい。竹の会では計算をまずマスターさせる、計算というのは、思考開発の、いい道具です。ここで形式的な計算のルールを理解させる、記号、つまり「×」とか、「÷」とか、の定義を理解して、実際に使えるようにする、「わかる」というのは、みな基本的に同じ構造だ。定義(仮説)を理解して、具体的に使いこなすことが、「わかる」である。だから計算というのは「わかる」の基本訓練なのだ。まず、記号の約束がある。次に、その約束にしたがって、運用する、これである。指導者というのは、その過程を踏めるように手立てしてやる、手順を組んでやる必要があるのはもちろんである。運用のところでは、これでもかというほど訓練しなければならない。子どもによってはここでいい加減な子もいる。だから「できる」まで徹底して鍛える。ここを簡単に済ませてはならない。大手がだめなのは、テキストの目次どおりに授業して終わりとするところにある。だから大手に通えば確実にバカになる。世の親というのが、大手大手と絶対なのはよく知っている。しかし、その親が自分の子を勉強難民にしてしまい、引いては社会難民にしてしまうというのは、皮肉なものである。かつて九段であった合同説明会に合わせて竹の会でもチラシを配ったものであるが、一人として竹の会に目を向ける者などいなかった。親たちの大手信仰はとても揺るがせるものではなかった。それから竹の会には1年、2年と大手に注ぎ込んで、なんとなく大手ではダメだと思い始めた、少数の親たちが竹の会にも目を向けてくれるようになった。そもそも学生講師がわかりやすく、問題の解き方を教える、というのが、親や子に受け、親たちは子どもが「わかりやすい」と喜ぶのを見て、さすが大手と拍手したものである。まったく本質を悟らないバカな親子である。

 わたしのような指導ができる人が都内にいるのか、ということです。わたしにはわかりません。そもそも竹の会の指導というのは、世間でいうところの塾とはまったく違うものですから、わたしが30年以上かけて段々と、いろいろ工夫を重ね、改良し、発明し、作り上げていった、それが竹の会の指導です。授業というものも昔はやっていました。とにかくいろいろな方法はすべて実践的にやってきました。そういう中からわたしはもっともいい方法というものを模索して独自に教材も開発し、指導の体系を作り上げてきたのです。わたしのような指導ができる人がほかにいるのか知らないけれど、竹の会はわたしだけにしかできない方法です。正直、わたしは、地元の塾、近くの大手塾、いろんな塾に通っていたという子たちを見てきて、世の中にはろくな塾がない、今はそう思っています。

 かつて竹の会に入会試験を受けに来た、冷やかしの母親の行動、竹の会を大手の下に見た言動は、中世を風靡した天動説を信じる、ただの凡人だったということです。凡人が天動説に洗脳されて判断するとしたら、竹の会の価値なんてわかるはずがない。正直に言うなら、その時、わたしは、その母親が愚かにしか見えなかったし、いずれ大手で手痛い目にあうことは見えていたけれど、ただ微笑んで見ていました。

 竹の会というのは幸運だと思っています。竹の会が手をさしのべるというのは、幸運なことと思っています。それほど竹の会は嘘偽りのない、真実の教育というものを届ける自信に満ちております。竹の会に通うようになった親、子が、例外なく、その出会いの幸運を喜び、その出会いに感謝のことばを惜しまなかったことをわたしは知っています。親御さんたちから寄せられる感謝の言葉は数知れません。それはわたしの喜びでもあります。

 わたしの指導が子どもたちに生きる喜びを、道を与えることが、勉強の喜びを与えることができたのなら、これほど嬉しいことはありません。

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