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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、両国への道/めんどうくさいの正体

2016.07.25

 おはようございます。朝はまだそれなりに冷たい空気がベランダから差し込むように入り込んでまいります。今日は起きるとすぐに雑用を回しながら、提出課題の資料準備に追われておりました。それにしても、今年の小6は1名を除いて全くといって作文を提出してきませんね。あまりにも提出してこないので催促したのがもう何週間前か、そのときには「もらっていない」と宣うのですぐに配付しましたが、それからもう何週間経ちましたか、やはり出してこない。

 さて、ところで今日は、渋谷Bの指導日、7月最後の指導日となっております。本日は、15時~19時の4時間指導となっておりますので、ご注意ください。渋谷Bにつきましては、今後のありかたをいろいろと策定しておりますが、9月よりより一層の充実した指導ができる、つまり渋谷Bからも合格者が出せる、成績優秀者が出せる、ような静謐とやる気のある子たちで構成できるよう、手を入れる予定です。

 竹の会では、現在「渋谷B」の入会を希望する小学生を募集しております。指導開始は、9月からとなります。入会には竹の会所定の入会試験に合格する必要があります。入会試験合否の目安は、学校の通知表で「よくできる」が、8割前後ある子であれば合格する蓋然性が高いということがわかっております。竹の会の入会試験を検討されている親御さんはこれを参考に入会試験を受けるかどうか、竹の会に入会できるかどうか、を判断されるといいかと思います。

 先ほども言いましたが、小6には作文を全く書かない、出してこない子たちがいます。いずれにしても、夏期には、強制的に試験と言うかたちで1日2通はやる予定ではありますが、いわゆる「作文逃避症候群」の様相まで見せて、正直言葉もありません。ほんとうに合格する気でいるのであろうか、近頃は小6にしては、あまりにも少ない課題提出量にあきれています。小5の中には、2名ほどですが、小6の何倍もの量の課題をきちんと出している子たちもいるのです。

 小学6年生には、1日7時間の勉強をと言い続けてきましたが、これは、中学生は言われなくても当然ということです。また小5については、できればやってほしいという思いはあります。今年受検した小6が小5のときには、そういう子というのはいなかったと思います。実家に1週間帰省とか、法事とか、趣味とか、習い事とか、稽古事とか、合宿とか、キャンプとか、旅行とか、とにかく勉強はかなり軽く扱われていたやに思います。中学生については、わたしももう30年以上も中学生というものを見てきましたから、よくわかっています。勉強というモチベーションを維持し続けるという中学生は少ないと思います。その中で最後まで強い意思を持ち続けて勉強と正面取り組んできた子のみが中3になって日比谷や西、戸山といった都立高校の受験を口にすることができる。敗者と勝者は日々の勉強から脱落していくことにおいて自ずと明らかである。

 めんどうくさいという昨今の小学生、中学生に蔓延して止まない精神的病について、一言

 たとえば、字を字そのものの伝達の手段としての機能も果たさないほどに、つまり読めない字を書く子どもたちについて、注意を喚起しておきたい。本年も小石川受検をした子たち、男子ですが、字が汚い、読みにくい、判別不能という子たちが複数いました。これは本番では確実に不利です。まず読めないというのは答案として成り立たないということです。自己流に進化を遂げた金釘流の文字で伝えたいことも伝えられないなんて、そういうことを考えないのであろうか。めんどうくさがってはいけない。文字をきれいに、いや少なくとも文字の基本の「かたち」というのは書けるほどに練習しなくてどうするのですか。

 なぜめんどうくさがるのか。頭のいい子の中には無駄な(と本人が思っているだけですが)ことはしたくない、なるべく省力化をはかるという子がいますが、答案で省力化してどうするのですか。

 そもそも勉強をするということの中に省力化を求めるのは強ち意味のないことではないけれど、それは飽くまでも勉強の本質的なところで無駄、無意味を省く工夫をするということであって、何かをするに際して、めんどうくさいことは極力避けて、楽をする方法を選択するというのとは自ずから異なります。

 近頃の子というのは、どうしても親の過保護の中で何不自由なく生活しているから、生存本能ということでは、生存に関わる行動動機というものが鈍磨している。欲しい物は何でも、そう、どんなに高価な物でも結局買い与えるという親ばかりである。習い事や稽古事の種類も一つだけではない、とにかくあれこれとやらせる。自分の子が清少納言ほどの才人とでも思っているのであろうか。近頃の子は身につけている物も高価なものが目立つ。きっといいものばかりを食べている子もいるのであろう。部屋を与えられ、立派な机を買ってもらって、エアコンなんか付けてもらっている子もいるかもしれない。そんな満ち足りた環境で勉強するということがあるのであろうか。わたしは教育というのは、不足すること、足りないこと、そういう欠乏という環境こそが教育環境であり、そういう中で我慢するということをしつけること、これが教育である思っている。ほどほどのところで我慢させることである。人間というのは、満ち足りていないから、生存本能が目覚めるのである。生存本能から自然発生的に勉強するということの意義を悟ること、これが教育の本質である。めんどうくさがっては食ってはいけない、これである。満ち足りた子というのは、生存が満たされた子というのは、危機感がない。将来への危機感などないのである。めんどうくさいといって何もしなくても親がすべてやってくれるのであれば全く困らないのである。こうして親は子可愛さのあまり、子がひとりで生きていく上において研ぎ澄まされなくてはならない生存本能というものを無効化してしまうのである。

 しかし、勉強というものは、その本質において、めんどうくさいものにほかならない。中学生が日々の勉強において、たとえば、理科や社会をまとめる、そういうことが、いかにもめんどうくさいとして先送りされる、いや結局やらないままに過ごされる、やらなくても当面困ることもないということがわかってくるとなおさらやらない。定期テストで直前に勉強の体裁をとるだけで、次第に悪い点にも慣れてくる。いつか本気でやればなんとかなると根拠もなく楽観する。今やること、やるべきことを先送りする。すべてめんどうくさいから。親が買い与えたゲーム機やスマホで遊ぶのはめんどうくさくはないという都合のよさである。楽をしたがる。苦労をしたがらない。回り道を嫌がる。教育してこなかった子はもはやどうにもならない。教育も時期がある。甘やかして好きなだけ好きなことをやらせておいて、めんどうくさいからやらない、というバカ息子、バカ娘に仕上げておいて、今更、「勉強しなさい」もない。部活を口実に勉強ない子、部活だからと大目に見る親、好きにすればいいし、社会の底辺が好きならそれもしかたない。

 子どもには、常に、生存することの意味を教育しなければならない。将来、ひとりで社会の中で生きていくことになる、「生きる」ということの厳しさを教育していかなければならない。甘やかす親はそういう子どもの生きる道を奪うバカ親にほかならない。部活もけっこう、しかし、勉強だけが勉強のみが将来の自分を生存ならしめる、そういうことは忘れてはならない。勉強するというのは、もっともっと奥深いものである。ただに学問的な見聞を広げるだけでなく、勉強ということを通してさまざまな知的な思考の方法を学び、なによりも何時間もひとつのことに集中して考える、取り組むというところから形成されていく人間として大切なもの、精神の成長をこそ、得がたき至上の喜びとする。知的喜びを知らないままにこの世を終わるなんて・・・。

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