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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、九段への道/夏は一気にかけぬける

2016.07.10

 おはようございます。東京では、水不足が懸念されておりますが、梅雨らしさは微塵も感じさせない、晴天、夏日です。本日は、竹の会渋谷教室「渋谷A」の指導日です。日曜日は、13時から20時までの長時間指導の日となっております。みなそれぞれに自己の学習段階、位置というものを他との比較によってわかっているためか、特に、小5は他の子の進み具合が励みになったり、脅威になったりと、心中穏やかならずのようです。

 竹の会では、入会してくると、まず小数、次に分数とチェックされ、どのあたりから進めるかが決まると、早速それぞれの現状に見合ったかたちの指導が開始されるわけです。子どもたちには、竹の会定番の計算テキストを使った指導に入れるかどうか、がひとつの目安になっています。最初は、この計算テキストもわたしが指定する問題を解いては出し、出しては解いて、計算の勘所というものを要領よくつかんでいくような指導がなされますが、もう心配ないと判断すると、逆算の指導に入ります。この逆算がなかなかできないという子もいます。実は、逆算を理解する時間でその子の知能程度を推し量ることができます。これに時間のかかる子ほど続く割合の理解にも時間を要するということがわかっております。逆算を含めて計算をものにするのに6か月近くかかった子がいましいて、割合の理解も苦難の連続でしたが、こういう子でも今年合格しております。できなくても時間がかかってもあきらめずに頑張ることです。

 計算4問1セットでやれるまでに上達しますと、いよいよ割合に入ります。最初は、割合のイメージをつかむための訓練です。130枚ほどのレジュメがあります。これが終わると、割合ドリルに入ります。ちょっと工夫して作っていますけど、最近Bで使用したらやや難しそうなので、今、「割合の定義」というレジュメを起こしています。通常ですと、このドリル40枚ほどなのんですけど、終わりますと、いよいよ定番の「算数の魁」というレジュメ集に入ります。一問一答でチェックしながら進めていきます。この先、「思考の鍵」→「思考の素~割合問題編」→「新思考の素」→「思考の素~その他の問題編」→「推理の素」→・・・といくらでも続いていきます。通常は「その他の問題編」を終わらせれば、合格可能な思考力を形成したと判断しています。ただし、「合格はんこ」を積み重ねたことが必要です。また小石川、桜修館レベルの場合は、さらに、進めなければならないでしょう。この思考形成過程に入るためには、できるかぎり早く竹の会に入会しなければならない。小5の終わりとか、小6で竹の会にやってきたとして、やはり計算チェック、割合理解度チェックをして、たいていは計算からやり直し、さらには、割合もイメージ作りからという子がほとんどでこれはいったいどうしたことなのでしょうか。既に1年、2年と大手でやってきた子たちでもこれです。大手で学んできたことが、何も血となり肉となっていないというのはいったいどうしたことなのでしょうか。こうして、大手に通うことの虚しさが竹の会にくるとたちまちあからさまに証明されてしまうことになります。

 竹の会では、どうかすると早くからいる小4や小5が、遅くにやってきた小5や小6よりできるということが普通にあります。わたしは世の親たちがバカなのだと正直あきれています。自分の子を何をそんなに信用したのか知らないが、ただ大手というだけで信頼してしまう、その頭の構造もさることながら、平気で自分の子どもを餌食に差し出す、その無神経さにはもう何も言う気にもなれません。1年、2年と通わせてみなければ、わからないという、その頭の悪さもさることながら、犠牲になった子どもたちこそ哀れです。

 いったん機を逸するともはや取り返しのつかないことになる、これが小学教育の恐いところです。後からもうどうすることもできない、そういうところがあるのです。例えば、小4、小5という時期に大手の中にどっぷりと浸かってきた子というのは、もはやどうにもならないほどに「考える」ということができない体質になっています。だからこれを無垢の子たちのように順調に思考形成できないのです。いったんねじ曲げられた枝はもはや刈り取るしかないでしょ。大手でやっていけるのは、天才だけです。秀才ではだめです。例えば、学校の内申で「よくできる」がほとんどの子でも大手に行けば伸びきれないということが普通にあります。だからそこまで行かない子たちが大手に行けばどうなるか、最初からわかっていることなのです。自分の子がどれだけ天才だと思っているのか。いや大手に行けば自然成績がよくなると牧歌的に信じているのかもしれない。そういう親も多いのではないか。なんという脳天気なことか。

 竹の会にきてみればわかることです。よその塾とちがうことか、今まで通っていた塾がいったい何だったのか、こういうことを言う親御さん、いや子どもたちもたくさんいます。竹の会に来て竹の会の指導を受けてみて、初めて塾というもの、本物の塾というものを知る、そういう人ばかりです。竹の会は、わたしが30年以上もかけて、指導とは何か、いや塾とは何か、塾はどうあるべきか、そういうことに悩み、苦しみながら、育ててきた、わたしの大切なものです。昭和60年10月のことでした。竹の会を始めたのは。始まりは、わたしの手書きのはがきを見てやってきてくれた代々木中学の2年の3人の女子のお母さま方でした。まだ机も何も備品もなかった、マンションの一室でわたしはその3人のお母さま方と話し合いを持ちました。わたしの手元には、なぜか開成と武蔵の過去問だけ、それから中学の数学と英語、それかに国語の教科書しかなかったのです。黒板さえもなかった。そんな状況だったのですが、その3人のお母さま方は、後日、竹の会のお世話になりたい、とご連絡を下さいました。わたしはもう夢中で教科書を読み、週2回、1回2時間でしたか、授業していったのです。わたしの授業は代々木中学でたちまち評判になり、1か月後には生徒は一気に30人にも増えました。当時はまだ少子化前で代々木中学でも1学年200人弱はいたと思います。これに上原中学からも広がり、次第に竹の会旋風が近隣に響き渡ることとなったのです。最初の10月というのは、例の3人の女子生徒を相手に授業をしていただけでしたが、学年によって、能力によってもクラスを分けていたら、もう1週間がすべて埋まってしまってわたしはもう奮闘しましたね。最初の数年間は、市販の問題集なんかもすべて調べ、過去問はとにかく解き尽くしていきました。有名な新中学問題集や四谷大塚のテキストなんかもよく買い付けに行ったものです。そのうち近隣には評判の英語塾というものがいろいろあって、特に、上原中学の生徒の大半がそういうところに通っているのだということもわかりました。わたしには竹の会のオリジナル・テキストを作ることが急務と危機感があり、必死で原稿を書きました。それを印刷に回して、とにかく竹の会のテキストというものが完成していった。「英語指導案」の原型というか、初版もこの頃作った。わたしの元には、私立の子、例えば青学の子たちが持ち込んでくる大量の英語ブリンとや私立で使われているプログレスなんかもかなり刺激になった。そこでプログレスは大阪から取り寄せて、逐一研究しましたね。大学受験の高校生もやってきた。それで大学入試の英語をかなり研究した。毎回高校生のクラスで授業するための研究ノートを準備し、授業した。しだいに、わたしの中に英語指導の構想ができていった。「英語指導案Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」の完成も近かった。数学も高校生、つまり青学高等部の生徒を相手に授業していたので、高校数学なんかもそうとう勉強した。大学入試では、「大学への数学」とか、なにやら分厚い参考書なんかも使って教えた。英語は、東大の教科書を使ったこともあった。あれは訳本がなかったのでわたしも辞書をひきながら苦労して訳した。

 テキストができてからも授業が中心だった。授業で全く理解しない子というものがいることもわかった。なにをどう説明しても理解しないという子もいた。わかるのはそれなりに知能の高い子に限られた。授業で教えれば教えるほど中学生の成績はよくなかった。親からすぐにクレームがきた。もううんざりするほど文句を言ってきた。いつの頃からだろうか、授業をほとんどしなくなったのは。少なくとも鈴木君が早稲田実業に合格した年、平成10年の前年までは授業していたはずだ。わたしはもがいていた。苦しんでいた。どうしたら子どもたちを伸ばせるか、いつも考えていた。わたしが、パソコンというものをものにする前まで使っていたのは、ワープロ専用機だった。もう数台潰すくらいに使い込んだ。たくさんのプリントを制作した。パソンコンが普及し、NECの98に出会い、さらにパソコンが進化していき、平成15年頃だったのだろうか、DELLのデスクトップを初めて購入したのは。その頃、たまたま量販店で見つけたソフトがわたしの指導を変えることになるとは。そのソフトを自在に使いこなすようになるのにさらに3年の歳月を要したのだと思う。怖々と試しのレジュメを作るようになった。試験的に作るようになった。平成17、18年のことだったと思う。わたしのレジュメ制作にかける思いは強く、指導という概念構築もこのレジュメなしには考えられないことだった。長い苦節の時が続いた。わたしはようやく光明を見たと思った。わたしの、竹の会の、指導を夢見て、わたしは日夜レジュメの制作に勤しんだ。

 わたしの竹の会、わたしがいつも苦しんでともに育ってきた、わたしの竹の会、わたしに残された時間はもうそんなにはないかもしれない、わたしが元気な限り、わたしはわたしの竹の会を絶やすことなく大切に続けていきたい。

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