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最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/塾の良心を貫き、責任を果たすこと/竹の会という指導の妙と綾

2016.06.04

 おはようございます。本日も晴天なり。すでに23℃、夏日でしょうか。どんなに遅く寝ても朝6時には目覚める、という、正直やや苦しい朝が続いております。どうかして8時過ぎまで眠れたときの心地よさはなんともいえないものがあります。塾という仕事をしていますと、指導のある度に子どもたちのようすがいろいろと気にかかる。それであれやこれやと考える。それでどうしても心安まらずということになるのでしょうね。

 竹の会というシステムを作り上げて子どもたちの思考力をどう伸ばすか、指導の度に新たな事態に遭遇していろいろ対策を考える、それでなかなか心も安まらない。

 中学生などはひとりひとりかなり正確に状況を把握している、いや把握に努めている。数学のレジュメの提出がほとんどないとか、英語のレジュメが返ってこないとか、ひとりひとりの状況はかなり正確に把握している、と思います。指導日に一枚も出さない、それが2回、3回と続くと、いよいよストレスは蓄積されて、ますます朝早く目が覚める、ということになります。

 わたしは子どもたちの状況というのは、ひとりひとりかなり精緻に見ていると思います。ですから、レジュメが戻ってこない子たちについては、いつも気にしているわけです。

 竹の会というのは、よく言われるのですが、授業はないですよ、と言うと、個人指導ですか、と問われる。しかし、わたしは、何人もの、学年の違う子たちを一堂に会して指導しているわけで。世間一般で言うところの個人指導では決してない。それでたちまち親御さんたちは、理解に窮する。世間一般の塾概念に無理にあてはめようとするからです。画一的な、既製のテキストを中心に回転する世間一般の観念する塾とは違います。竹の会では、レジュメという時宜に応じて執筆される教材が、子どもたちに合わせる。一般のように既製のテキストに子どもたちが合わせるのではなくて、教材の方から合わせていく。もちろん竹の会でも教材を軸に回転していることは疑いない。ただし、その回転の軸は子どもたちの数だけあることになる。

 子どもというのは、みな能力が違う。当然性格も違う。住んでる環境も違う、親の考え方も違う。成長段階も異なる。学年で区切るというのは、便宜でしかない。わたしは子どもひとりひとりを見つめていたい。そして今この段階でこの子に何ができるのか、何が必要なのか、何が足りないのか、そこからその子に合った教材というものを作り出せればといつも悩んできた。

 竹の会で入会試験をやるのは、わたしのやれることに限界があるからだ。入会試験に落ちるほどの子を指導するというのは、これはこれで忍耐と我慢のいることである。わたしはかつてはオール1の中学生や通分さえもなかなかな理解しない子たちを指導していた。なかなか説明を理解してもらえず、毎回悩んでは説明の方法変え、本当にミリ単位にしか進まなかった。そういう子がなんとか都立に入ったとか、私立に入ったとか、割合なんて理解させるのは不可能と思っていた子が2年かけて、割合のしくみを理解したときには、本当に涙が出て困った。いや「わからない」という子を教えるとき、その子が一生懸命なんだとわかると、もう泣きたくなってくる。なんとかわからせてあげたいと来る日も来る日もどんなに悩んできたことか。竹の会が、わたしが、入会試験で切るのには、悲しみを見たくない、という悲痛な思いがあるのかもしれない。

 「指導」というのは、竹の会では、特別の思い入れがあります。その子のすべてを見つめて、導いていく、今何に困っているの、何が足りないの、何がわからないの、いつも問いかけ気にしながら、その子をいい形に導いていく、わたしには特別の思い入れを籠めたことばである。

 元代々木教室の時代は、ふざけたり、秩序を乱す悪ガキは即刻退塾させてきた。いやそういうのに限らない。対親との関係で退塾してもらったことも数知れない。私立小や私立中の母親、いや国立も同じか、どうもわたしの中にはない。かつて某有名私立小・中の子たちがきたこともある。母親というのは、尊大か、コストパフォーマンスばかり言い募るのどちらかであった。とにかく自分の都合を押しつけてくる。「学校が忙しいので7月はお休みします」とか、夏には自分で予定を立てて、最低の費用を試算して「おいくらになりますか」などと言ってくる。夏講習は8月の下旬までうんともすんとも言わないで突然日割りで申し込んでくる、そしてたいてい学校の難しい宿題をどっさりと持ち込んできてすべてを教えてもらおうとする。こんな私立のバカ親にはもううんざりで、悉く退塾を言い渡してすっきりしたものである。

 だいたい竹の会の指導は、私立の宿題に追われて四苦八苦する子たちには合うはずもないのである。だから竹の会は、トップ都立高校をめざす小学生や中学生、そして都立中をめざす小学生を対象にしぼってきた。都立中受検で指導した子というのは、高校受験となっても、基礎を鍛えてあるため、問題なく指導できることが多いけれど、正直竹の会で鍛えても、能力や性格から、中学では、無理、伸びないという子もいる。今のように、過保護世代の子というのは、親がどうも、わたしの大嫌いな私立小・中の臭いがしてしかたないということもある。

 子どもを甘やかせた親というのは、教育ということをしていない。こういう親というのは、習い事や稽古事を夢中でやらせるけど、そしてそういうことを教育熱心と勘違いしているけど、子どもに贅沢をさせる、欲しがるものはなんでも、どんな高価なものでも、買ってやるような親に、教育などないのであり、ろくな子に育つはずがない。わがままで自分がなんでも買ってもらっていることを自慢する、だれにでも自慢する、せいぜいそういうレベルで完成する、そうなった時点でバカ完成である。

 わたしは子どもたちの指導に大げさに言えば、生死をかけている、熱心な子のためには、ときには自分の健康を害する覚悟もして執筆に時間のすべてを費やすこともよくある。子どもたちとのやりとりはいつも真剣勝負である。こどもが騙しを入れてくるときは、対決する。それがいちばんいいと思っているから。答を盗む、これには、さまざまなやりかたで答を盗み見してくる意味がふくまれている。そういうことには厳しく対応してきた。ところが、母親というのは、そういうときに感情的であり、非教育的である。一方的に自分の子は正義で、塾は悪と決めてかかる。わたしの真意を誤解する。そういう勘違いでヒステリックに退塾した母親もいた。わたしは勉強のスタンスの誤りに気づいて立ち直ってほしかったけど、母親も子も心は素直さを欠いていた。事実を素直に受け止めない、親子が急増している。

 わたしは、塾という仕事を、その使命を果たせないとわかったときに、すっぱりと退塾を告知する、そこまでの決断に躊躇というものはしなくなった。それが塾の良心であり、責任であると考えているからである。いろいろな親たちとの折衝を繰り返して、わたしも鍛えられたということである。世の中には、常識では測れない、及びもつかない、理不尽を平気で言い募る親というものがいて、そのたびにわたしは、驚き、なんとか迎撃してきたのだと思います。

 竹の会には、入会に際して、予め遵守していただく規約というものがありましてそれを承諾した上でのお申し込みをお願いしています。

 例えば、振り替えというものは竹の会にはありません。それは時間を切り売りしているわけではないからです。指導というのは、ある程度の長期間を見込んでの継続的な見通しを前提しております。退塾間際に消化仕事のように出席することになんの意味もありません。何回分を振り替えたなどというのはナンセンスです。かつて部活でほとんど出席しなかった母親が、欠席回数を記録していて、それを何か月分にあたるから、何か月分は振り替えで出ます、と言ってきた。例によって、想定しない事態で驚きましたが、これはもちろん断り、同時に退塾してもらいました。

 竹の会では月謝等は前月払いを入会時は約束してもらっていますが、これも過去さまざまなトラブルの結果の規約です。月遅れで払ってきた母親が、よく「もう払った」と勘違いすることがありました。都合よく、月謝袋もなくした、払った記録もつけてない、と言うのです。夏の講習も「必ず9月にはまとめて払います」といい講習を受けて、いなくなるとか、大量の教材を持って消えるとか、特に教材の持ち逃げということはよくありました。竹の会の規約のひとつひとつにはみな過去の苦い傍若無人の振る舞いがありました。

 竹の会は塾の果たすべき使命を果たすこと、そしてそれが果たせない、無理と判断したときは、正直に告白し、退塾してもらうしかないということを、それが塾の、わたしの責任のとりかただということを知っています。決して、感情ではない、指導の成果の見通しがないのに、おカネをとってそのまま知らんぷりして引っ張るということが、不真実、不誠実ではないでしょうか。

 ところが、世の中の母親というのは、そういう竹の会の行動をむしろ憎しみをもってヒステリックにとるようです。

 どんなに生徒が騒いでも、他の子に迷惑となっても、なんとかかんとか正当化してそういう子どもを止めさせない、そういう個人塾の塾長なら腐るほどいます。親は成績が下がるところまで下がって、にっちもさっちもいかない、そういう事態になって初めて塾を退塾します。それまで、そこまでの事態になるまで当該塾が何もしなかった、放置していたに等しいとしても、憎むとか、そういうことはないわけです。竹の会のように早くから、無駄なおカネを使わないようにと、良心的に対応したほうが恨まれる、おかしな世の中です。だからバカ親なんでしょうけど。

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