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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/計算も、割合も「しつけ」だ

2016.06.05

 お早うございます。関東はまだ梅雨入りはずっと先だと予報していましたが、今日はまるで梅雨入りのような天気です。中学1年生のときだったか、宮崎県の延岡市の郊外に遠足したことがありましたが、帰りは三々五々ちりぢりに帰ったのですが、一人とぼとぼ歩いて、雨に降られながら、どこまでも続く国道だったか、県道だったか、果てしなく歩いた記憶があります。寒々とした、いや荒涼とした遠景が心細いほどに体に滲みました。それ以来鄙びた地方で雨に降られるといつもなんとも云えない切ない気持ちにされます。

 さて、今日は、渋谷A長時間指導の日です。子どもたちには雨ということで傘を差しながら塾まで歩かなければなりませんが、「雨にも負けず」に元気な姿を見せてくれることを願っております。

 昨今は、子どもに様々な習い事、稽古事、はたまたスポーツなどと親の、特に、母親の子どもに託す思いは一段と強いような気がします。なにか技芸を身につけさせるというのは、悪いことではない、いやむしろ意味あることなのかも知れないとは思います。しかし、昨今の親は子どもに何をどこまで期待しているのか、習い事、稽古事も一つや二つではない、書道、ピアノ、水泳、珠算、英語、バスケなど、これに塾が同列のひとつとして加わるようです。子どもの才能を信じるのはけっこうなことですが、ただの器用な子どもだったということで終わらないことを祈るばかりです。

 なぜそんなに習い事、稽古事に夢中になるのか。これは子ども本人ではなく、母親の問題です。母親本人がどれだけ多芸であったかは知りませんが、何のためにそういう技芸を身につけさせることに心を奪われるのか、わたしにはさっぱりわかりません。たいてい夢中になってやるのは小学止まりで、中学になっても続けている、さらに高校になってもとなると途端に超少数となるでしょう。才能に恵まれて、その道で極めるとなると、それは本当に限られた人です。

 世の中いろいろで今度は子どもを何とか有名中学、高校、それから大学へと入れるために、早くから塾に通わせて、勉強、勉強という毎日を子どもとともに送っている母親も多いと思います。こちらはこちらですべての子どもが母親の思い通りになるとは限らない、つまり天才は少ないがゆえに悩みも多いということでしょう。受験競争の敗者が、深刻な「うつ」症状に悩まされるということもよくあることです。すべてに「やる気」をなくした子どもをたくさん見てきました。これはこれで子どもを追い込んでいく、危険な母親の暴走なわけです。

 何かが欠けている。子ども可愛さのあまり、甘やかし、過保護に育てるというのが、昨今の親のありようのように思います。いや20年、30年前にも、子どもに甘い、バカ親というのは、たくさんいた。ただ今のように習い事、稽古事などやらせて、子どもが思い通りに動けば、その余のことはたいてい大目に見る、というかたちの甘やかし、過保護というのは、いかにも当世風ではある。

 母親の言いつけ守って一生懸命やる子には、母親は、たいていのわがままを聞いてやる。何々を買ってくれと言えばすぐ買ってやる、なんでも買ってやる、今の子というのは、なんでも持っている、とにかく不足感とか、欠乏感というものがない。親は物的にいくらでも満たさせてやる。ところでこういう子の「しつけ」というのはどうなるのか。親が子どもの「しつけ」などというものを実は何もしていないということなのではないか。確かに、「物を盗んではいけない」とか、「公共の物を壊してはいけない」とか、社会的ルールを学校でも、家庭でも、教えてはいる。が、である、我慢を知らない、欲しい物はなんでも手に入る、当世の子どもが、母親や父親の思うような子どもに育っているはずがない、とわたしは思う。こういう子らには何かが欠落している。だから、試練の場に立たされると、すぐに逃げる、避けようとする。

 ああしちゃーいけない、こうしちゃーいけない、と子どもに言うことが教育だと勘違いしている親がいるけれど、そんなの教育じゃない。子というのは、現実社会での親の処し方、生き様というものを実によく見ている。子というのは親の本当のところを見ている、見抜いている。だから教育というのは、そういうところで親がどう子どもにどう自分が処するかということを示すことなのである。親が思慮の足りない子どもの、たぶん超主観に満ちた子どもの言葉を一方的に信じて、子どもと同じステージで、処するとしたら、それは子どもにどういう教育をしたこになるのか、思い到った親がいるであうか。わたしがすぐバカ親というのには、実は根拠があるからだ。子どもと同じ土俵に立って、子どもと同じレベルでしか考えない親には、教育ということはそもそも存在しない。そういう無教育がいつかは自分に必ず跳ね返ってくる。ブーメラン効果である。

 わたしは、しつけが「ない」ことが問題なのだと思っている。習い事、稽古事もあれもこれもやらせる、ということは違う。ひとつの習い事、ひとつの稽古事でいい。バカ親には「しつけ」のためという視点が完全に抜け落ちている。よく訓練されていない、つまりしつけのできていないバカ犬というのがいるけれど、これと同じす。しつけのできていない、しつけのない子どもほどみっともないものはない。甘やかして育てるバカ親や過保護に限度のないアホ親ばかりである。わたしは教育というのは、基本がまんすることを教えることであると思っている。習い事を通してがまんを教えるのならそれはりっぱな教育である。しかし、習い事を一生懸命やれば他方で甘やかすというのでは意味がない。それにそういうバカ親は技芸の上達ばかりに目が行って、がまんをしつけているとはとても思えない。

 勉強しないというけれど、勉強というのは、究極のがまんである。勉強は孤独な世界に身を置き、何時間も精神世界で葛藤しなければならない。低学年が思考とはあまり関係のないドリルをやるのはまだまだ勉強とはほど遠いけれど、これもがまんをしつけるという意味では教育である。

 甘やかしというのには、しつけが抜けている。過保護となるともはやしつけなどは観念もできない。甘やかしというのは、がまんしなくていいとしつけているのである。がまんを知らない子どもが大人になったらどうなるのか、すぐに会社なんか辞めてしまうでしょ、いやその前に勉強もがまんが利かないからまともにやらないでしょうし、結局親のしつらえたバカ高校、バカ大学に行くことになるのでしょう。社会人になっても過保護の母親が会社まで付き添うということにもなりかねない。

 怒られたことがない、ということを自慢する子どもがいるけれど、それはわたしの両親はわたしをしつけていないですよ、と公言しているようなものでしょ。しつけられなくてもわたしは品行方正な優等生ですよ、と言いたいのかもしれないが、すでに性格破綻していることに気づかない。

 わたしは、子どもたちに計算や割合を教えるけれど、これも本質は「しつけ」なのだと思っている。計算なんて覚えるまでそれはそれはがまん強く練習しなければならない。割合なんかは、「型」から入って、がまん強く、わたしから言わせれば、このときこそ1日7時間でも割合の型練習にがまん強く勤しんでほしいと思うのだけれど、習い事、稽古事に忙しいバカ娘、バカ息子が「ついで」にやる勉強でなにかものになるのか、そんなバカには他塾は知らず少なくとも竹の会には来てほしくない。

 

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