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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館攻略への道/「溜め」と強靱な足腰が生む爆発的力

2016.11.26

 気がつけば11月も残すところ4日余り、秋深まるなのか、初冬なのか、新聞のチラシは華やかな色彩で消費者を煽る。ほぼ一週間周期で派手な大手塾のチラシ、家電、ユニクロのチラシが入ってくる。豪華な不動産のチラシには圧倒される。不動産バブルというけれど、どうも作られた価格形成ではないかと疑ってしまう。ユニクロのチラシだけは捨てないで取りあえずとっておく。庶民の悲しさか。朝日新聞は新刊情報と週刊誌のチェックだけになってしまった。デジタル版でしか読まなくなった。日経もデジタル版。書籍はアマゾンが多くなった。渋谷のジュンク堂はようやく使い勝手がよくなった。本の配置の傾向を熟知するまで時間がかかった。このところ寒さが体に堪える。いろいろと体にガタがきて今がいちばん弱っているのかもしれない。

 アマゾンで見つけた牧野英一の「刑法」は、岩波全書版で相当古かった。戦前の発行である。東京帝大教授牧野博士の文は、旧書体ながら、なんと素晴らしい名文であることか。かつて大学で団藤博士の「刑法綱要」を読んだとき、博士が何かと牧野博士を批判していたのを思い出す。危険な性格を処罰の対象とする牧野理論を徹底して否定したけれど、その牧野博士は、団藤博士とは師弟関係ではなかったのか。わたしは牧野博士の文の素晴らしさを改めて思った。団藤の刑法綱要はとにかく面白くなかった。それでもわたしは十数回は読み返した。学生の頃、原田鋼の「政治学原論」を読むことになり、途中で挫折した。600ページほどの大著であったが、文が下手くそなのは団藤博士の上をゆく、とその頃思ったものである。その流れで丸山眞男の「現在政治の思想と行動」に挑戦した。論理的な文章に心酔し、こちらは読破してしまった。それから丸山の論文集をやたら買い込むようになった。商法の前田庸は名古屋大の教授であったが、すこぶる長い一文を書く人で、途中で指示代名詞が何をさすのかわからなくなることがよくあって、こんな文章を書く学者がいるのかと思ったことがあるけれど、この人が有斐閣の法学教室という雑誌で連載していた商法はかなりわかりやすかった。ただ商法についても、神戸大の河本教授の論文集がすこぶる名文で、感動したことがあった。ところで丸山は別の書物で原田鋼の、確か政治思想史に関する論文であったと思うのだが、労作であることを前置きした上で、「しかし」の使い方がどう考えても誤っているということを2か所指摘している。この小学生並みの文法的な齟齬を決して看過しなかったのは丸山らしい。彼は、わたしの愛読書である「現代政治の思想と行動」の中で、ナチスと日本の軍人との質の違いに触れて、前者が学問とはおよそ縁のない、巷の学のない人たちなのに対し、後者は陸軍士官学校を出た秀才たちであったことを指摘し、「染まりやすい」ということを指摘している。ファシズムが日本の軍部を覆い尽くしたとしてもその質が違うというのである。しかし、あのオームの事件では、一流大の、高学歴の学生たちが、凶悪事件をなにかに駆られるように起こしたわけである。日本全体か、オームという部分社会か、ということもそれほど決定的なことではないのではないか、「染まりやすい」素地というのは、学歴で合理的な説明はつけられないのではないか、丸山の考察をそのまま受け入れられないことはよくあるけれど、説明のつけられない事件が起きると、ひとつの説明に固執するのはやはり収拾がつかなくなる気がする。

 それにしてもあの丸山にして、学歴の価値を前提とした議論展開をしている。日本の民法の開拓者東大教授であった我妻榮は、大学と言えば、東大と思っていたらしい。それはかつてジュリストの特集で我妻博士の息子さんが述懐されていたことであった。

 旧書体の牧野博士の名文を読むのがこのところの楽しみのひとつになっている。このように気分を変えることは指導のアイデアをいろいろもたらしてもくれる。特に、小4を対象に、執筆を構想している「魔法学校の割合教室」は、いろいろとアイデアが思い浮かんで、尽きない。「元にする量」の連鎖をどう魔法で説明するのかとか、いろいろと考えては、定義していく日々である。

 このところ子どもたちの大量の課題の添削のために朝6時に起きてがんばっています。2時間ほどかかります。添削の前日までに、次回の課題レジュメ及び解説レジュメを準備しておかなければならないので、かなりの負担になっています。書物を読み始めるとなかなか終わらないし、新レジュメの執筆もかなりに時間をとられる。また解説レジュメを執筆するのも簡単ではない。そういうわけで、新規募集をしないこととし、それよりも研究と執筆に時間を使いたい、そう考えるようになりました。

 指導というのは、機微に満ちた、子どもとのやりとりです。わたしの手順で伸びていくということが見えている指導が理想です。子どもというのは、手順さえふめば伸びていくものです。この手順が実に機微に富んでいる。頃合いを読む、そして適切な処方をする、これなんです。ですから、わたしの指導で伸びない、伸びていかないということであれば、早々に退塾されたほうがよろしかろうと思います。どうも最近ようすがおかしい、勉強しなくなった、そういう兆候がありましたら、とにかく迷わず退塾してください。

 わたしの手順で伸びなければの話しです。わたしは、自分で言うのも何ですが、子どもたちを伸ばす達人と思っています。わたしの指導にかかればたいていの子は伸びます。もし伸びなければ、それはそこまでの能力がない子であり、わたしには無理であり、退塾を勧めます。さて、竹の会の指導は実際のところ、竹の会の親御さまたちにはどのようにとられているのでしょうか。ダメならばすぐ止めるでしょ。世の親、母親や父親というのは、そんなに甘くない、しっかりと見るところは見ています。賢明な親御さんたちの厳しい目をわたしはいつも感じています。ですから、いつも真剣勝負で臨んでいます。ダメならばすぐ止めるでしょ。しかし、竹の会というのは、昔からなかなか止めない塾だったのです。昔から、勘違いした親なんかがいまして、わたしとは折が合わない、ということはありました。こういう特殊な場合はありますけれど、竹の会では、圧倒的に、わたしから退塾をお願いすることが多い、そういうことになっています。

 足腰を鍛える、ということがいかに大切なことか。いや勉強の足腰です。つまり、基本です。竹の会では、とにかく基本の習得にかける時間が多い、そう思います。計算なんかかなりしつこくやる、割合なんか、もう徹底的に鍛え抜く。最近は、課題の種類も多くなりました。わたしが子どもたちの脳の層を何重にも貼り込んでいきたい、そういう思いがそうさせているのだと思います。課題が多くなればなるほど、わたしには負担がかかりますけれど、子どもたちが「伸びる」ための基礎打ちで手を抜くことはできない、そういう思いです。基本を鍛えていく、というのは、足腰を強靱にするということです。その上で、次第に、じわじわと負荷をかけてゆく。これは基本が仕上がった後の指導です。負荷をゆっくりかけてゆく。この過程に入れる人はそう多くない。小4から竹の会にいなければなかなかそういうことにはならない。この負荷をギリギリまでかけておいて、一気に力を爆発させる、いわば、弓を絞るように、溜めです、指導の極意は溜めにありです。溜めることで力を一気に極大化できる。

 指導というのは、基本に時間をかけて、基本が仕上がったところで、溜めに入る。この溜めの時期が、小6と重なればいい、わたしはそう思っています。

 わたしが、小4の8月に来い、というのは、そういう思いが背景にあります。小6に来た子というのは、どうしても伸びない。それは、小4期の基本の不足、そのために足腰が弱い、そのために溜めがとれない、そういうことなのです。強い子、伸びる子を育てるには、溜めのできる子にしなければならない。だから早くに基本を、基本を徹底的にやらなければならない。

 大手からきた子というのは、この基本というものがないのが特徴です。計算がまともにできない、割合思考で鍛えられた経験がない、考えるということを知らない、などとにかくわたしには信じられないほどに大手に子どもを預ける親御さんというのは、大きな誤りを犯していると思うのです。それがまた実際にわかっていないのが憐れでもあります。竹の会で普通にやっている指導というものの一端を知った、大手の親御さんというのは、かなりのカルチャーショックを受けるのが常です。

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