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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川に受かる/勉強は選択の問題ではない

2016.08.29

 おはようございます。台風10号の進路が気になります。場合によっては明日の指導を明後日に変更する可能性もありますので関係するみなさんは明朝の竹の会のHPを必ず確認してくださるようにお願いします。8月も今日を入れて残り3日となりました。塾というのは、少なくとも3か月先の予定を組まなければならない。ですから、9月、10月には、もう冬期講習から1月の指導予定まで組みます。11月には冬期指導の要項を配付しなければならない。そして1月までには来年の新規入会者を確保しておくのが理想です。去年の2月のようにほとんど生徒が集まらないこともある。竹の会は基本、宣伝ということをやらないので、竹の会を知るというのは至難である。学校説明会でのチラシ配りは愚策でした。偏見に満ちた多くの親たちをその気にさせるなどまず無理です。竹の会ではもともと受検生というのは、1人、多くて3人という塾です。ですから事実上0人ということもありました。「事実上」というのは、受検すると言いながら全く勉強というものをしないアホがいたからです。受ける前から落ちることがわかるバカを受検生などというのはおこがましい話しです。

 かつての竹の会にはまともに勉強しないバカがいました。入会試験制度というのは、竹の会には長年の憧れでした。地元塾が生きのびて行くには「来るものは拒まず」です。ところが地元塾どころか、営業優先の大手塾までもがそういうことでは一致しています。竹の会は渋谷駅近くに移転して東京23区の人たちが通えるようになったのを機会に入会試験制度を設けたのです。2012年12月のことでした。本格的な今「入会試験Ⅰ」のスタイルになったのは、2013年6月のことでした。竹の会のような一握りの生徒しかいない小塾が入会試験をやるというのは、諸刃の剣でした。2015年の2月には集まった生徒は皆無でした。あの年には入会試験に落ちた数は10人はいた。かつての竹の会ならそういう生徒も全員入れていたけれどわたしはあえて入れなかった。この一線だけは護った。去年の10月には「渋谷B」がスタートし、方針がぐらついたことは確かで、入会試験不合格者も入れてみた。その中には「0点」という子たちもふくまれていた。甘かった。その中にはまず勉強のスタンスというものが全くないという子たちがいたからだ。ストレスを自ら呼び込んでしまった。深く反省して、「渋谷B」でも今後は厳正に入会試験合格者にしぼることにした。不合格者の親から「是非に」と懇請されるのが辛いですね。情に絆されるのはわたしの弱いところです。

 これからの募集については、高校受験、都立トップ校志望の小5、小6にしぼっていこうと思っています。小3をと考えましたが、どうも保育園児なみの飽きっぽさで指導困難と判断しました。これからは、高校受験対象の小学生(5年、6年)にしぼっていきたいと思います。「渋谷B」は、「渋谷A」が空くまでの暫定入室も想定していますので、来年2月に「渋谷A」入室希望者は、ぜひ「渋谷B」に入室していただければと思います。「渋谷B」の指導内容はAと原則変わりません。レジュメもすべて同じものを配付します。ただ竹の会ではもっとも重要な「指導」の時間が明らかに少ない、そのため家庭学習の習慣がない子には意味のないことになる懼れが多分にあります。なお、「渋谷B」の定員は10人です。

 さらに竹の会では、冬期の外部体験指導生を募集予定であり、冬期体験申込者には診断のため「入会試験」を受けてもらいますから、その合格者は、「渋谷A」に優先入会可能とします。

 「息子のようなアホ」にはとは、ヤフー知恵袋に相談していたある母親の言葉ですが、この母親は父親とともにそのアホという息子を塾に通わせて、通信を受けさせ、自らもつきっきりで勉強を見るほどの教育熱心です。しかし、その息子のアホは本物らしく、塾にも行かないでほったらかしの子たちにも負けるほどのアホというわけです。

 なんともお気の毒としか言いようがない。バカは声がでかい、バカは騒ぐというのが相場なんですけど、そのアホと母親に言われる息子はそういうことはないようです。母親が言うには授業参観ではぼーっと明後日の方向を見ているということです。わたしは子どもたちに建物の通路などでは大声を出さないようにといつも注意しているのですが、直前に注意して、ドアから出たらすぐ大声がする、大声で笑う声がするということは何度も経験しております。子どもというのは言って実行するということはまずないものです。基本バカなのです。

 子どものすべてが頭がいいわけではない。それが生物の多様性というものであろう。自然の摂理とはそういうものであろう。だから人間がここで抗ってみてもしかたない。そういうことは織り込み済みなのです。ですから竹の会という小塾に一縷の望みをかけるというようなことはどうかしないでほしい。

 さてです。先日もお話ししましたが、たとえば、バレーを4歳のときからやっているという子がいまして、そういう子が中学生になったとして、都立青山のようにところを志望するのは勝手ですが、少なくともこういう子は「勉強は選択していない」、つまり選択しなかったわけです。そこからなぜ「都立青山」が出てくるのかわたしには奇異なわけです。ですから「勝手」ということなんです。

 そもそも「選択肢」の中の一つに勉強があり、勉強するということを選択しなければ勉強しないということが間違っているのです。勉強は選択の対象ではありえない。先のバレーの子も選択の対象ではなかった。しかし、わたしが「選択」の対象ではない、というときは、当然の前提として勉強は生活の一部として「ある」という意味である。勉強するかしないか、は選択することではないし、どちらかで悩むことではないのである。ところが、習い事、稽古事をやたらやらせる親というのは、勉強も習い事と同じレベルの選択肢の一つに過ぎない。だからいくらでも勉強以外の選択肢を選択し、勉強を蔑ろにしても気にもしない。そういう親の子が受験で成功することはまずない。勉強とは、生活であり、なにがあっても犠牲にすることはできない、それほど価値では上のもの、そういうことです。

 選択ということで現代人というのは消耗するらしい。選択するというのはたいへんなストレスということである。

 さて世の中の親たちというのは、それで自分の息子、娘を見事にアホにする道を選択しているのですから、やはりバカです。子どもがアホというなら、親はバカです。それは自然の摂理からくるアホではなく、親が人為的にアホにするから人災です。

 子どもというのを野放しにしている。全く訓練というものをしない。大手塾なら大手塾にやってもう安心してる、それがバカ醸成発酵システムになることも悟らない。かといって地元塾ならいいかというとそうではない。この東京にどれだけ本物の塾があるのか、わたしにはわからないけれど、おそらくほとんどない、それほど悲観的である。

 竹の会で指導体験というもの、訓練というものを体験した親子には、塾で訓練するということの意味がわかるでしょうけれど、世の中の親というのは、わかっていない。子どもは訓練しなければアホになる。進学塾で勉強している子というのは、確かに、できる、頭のもいい、そう思う。しかし、わたしはこういう子たちが、基本を軽視することからくる壁、そしてある程度のところまではいくけれど、灘とか、開成、麻布のような難問には思考停止するということを知っている。できるというのは、その程度なのである。わたしは27年に桜修館に受かった女子が、灘や開成の難問を思考停止することなく、解くまでになったことを知っている。

 進学塾の子が陥る、ほとんどの子が陥る、罠、壁の存在をわたしは知っている。竹の会の、わたしの方法は、そういう大手方式の限界を超えて生まれた、神の方法なのであるから。

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