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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/日比谷・西必勝への道/小石川・桜修館/パッケージに騙されるバカ層

2016.07.28

 おはようございます。また竹の会の夏がやってまいりました。去年の夏と今年の夏のちがい、去年は優秀な小6、しかし勉強に躊躇する小6を擁しての夏でしたが、今年はそういう小6がひとりもいない夏です。まだ割合を超えられない小6をかかえてこの夏をどう過ごすのか、中2にしても今年は中2の予定ノルマをこの夏で終われない見通しです。このまま遅れが続けば都立戸山どころではない、そういう危機感を持っています。

 今年の文京合格者と同じ道筋をたどることになるのか。結局数学が間に合わず共通問題でさえも7割に届かない実力であった。英語も独自問題には対応できなかった。さらに理科、社会の遅れは致命的であった。こういう状態で入試を戦わなければならなかった去年のことを思い出す。すべてがわたしの予定したノルマを予定通りに進められなかったことに帰因する。正直「もう独自校は無理ですから竹の会でできることはありません」と投げ出せたらどんなにか楽だったか。小学生にしてもわたしの想定したとおりに指導が進められないのなら、それは合格ということから遠のくことは必定なのだから、もはや竹の会にいる理由もないということになる。そういうことをさらりと言うのが実は賢明な態度なのではないか、いつも悩みは尽きないし、ともすればそういう思いに駆られる。

 竹の会には、できない子をできるようにする特効薬のような指導というものはまずあろうはずもないし、ましてや勉強しないという子たちを勉強しないままに成績を上げる、そんな芸当なんかできるはずもない。

 いつもわたしの判断、決断が究極の判断が試される、そういう局面にいつもいるような気がする、だからストレスで潰されそうになる、それでもなんとか耐えなければと思い直す、それがわたしの真の姿のような気がする。思うように進められなかった子たちを相手に、「なんとかする」指導、それは後手後手にまわる、わたしの本来の指導では決してありえない指導であり、くたくたに疲れ果てて、いつも途中でなにもかも投げ出せたら、どんなにか楽かと、ありえない想定を夢想してはため息をつく。

 勉強しない子たち、時には親の弁解に耳を傾けるのも仕事なのか。ただいくら弁解されたところで勉強しなかったという事実は事実として残り、そのまま受験の成否に関わることまでがなくなるわけではない。受験というのは、やったかやらないか、それだけである。主観的な理由を並べてみてもそれが何のための言い訳になるのか、それだけ合格から遠のく、それだけのことである。合格から遠のくことばかりやっていて、合格すると思うのは勝手だが、それで落ちて涙を流すとしたら、なんとも都合のいい涙で、自分の見通しの甘さそのままに涙も嘘くさい。

 現代人が怠惰であり、自分に関心のないことには一切興味を示さず、もっぱら関心のあることだけ、利害が関わるときだけ動く人たちばかりであるとしたら、これが政治的無関心層の実体だとしたらこれは深刻なことである。政治権力はいかようにも民主主義という名の下に権力を集中させ、全体主義という民の思考停止を悪用する社会へと転じることを可能にしてしまうであろう。怠惰はいずれ自分の身に死さえももたらしかねないほどに罪深い。怠惰は無知を妻とする。そして愚鈍という子を宿す。愚鈍こそ大衆の本質である。

 わたしたちは、これまでにどれだけパッケージを信頼し、パッケージに騙されてきたか。小泉は郵政民営化というパッケージを国会議員に貼り付けて、国民をしてパッケージの貼られていない議員を放逐せしめた。小泉は「抵抗勢力」というパッケージも発明した。敵にこのパッケージを貼り付けるのである。これに腐ったマスメディアが囃し立てた。マスメディアは「小泉劇場」などというパッケージを作って、バカ国民を煽った。

 現代はパッケージでいかようにも行動する大衆で溢れている。大衆は感情を根拠に動く。大衆に理性はない。お盆だから日本列島は国民が大移動する。これは理性では説明できない。感情である。大衆は内容よりも見た目、隣人の意見で動く。それは自分で価値判断できないからである。政治権力、官僚、大企業、いや零細な蔓延る泡沫企業こそ、いつも人を騙すことばかり考えている。そのために次から次にバカな大衆を騙すパッケージが考え出される。パッケージの制作に協力するのは、二流大学教授、有名になりたいだけの無節操な弁護士、医学を飯の種としか考えていない医師、デタラメな建築士、などなど尽きない。

 産地偽装なんかもパッケージで人が動くことを知っているからやるわけで、大手塾が「何人合格」とやるのもパッケージ効果を狙ったものでしょ。要するにバカな大衆が見た目で動くことを知り抜いてるのである。親たちが大手を信用するのも内容ではなくパッケージである。室長がしっかりした考えをもっていたというのも室長の意見がよくパッケージ化していたということに過ぎない。もう親たちそのものがパッケージにしか反応しないのである。竹の会のような個人塾はパッケージとしては無ということでしょ。内容でなく見た目で動く人たちには竹の会などは永遠に目にとまることはない。面談して親と話すと「この人は草枕をほとんど読んでいない」ということがわかることがある。少なくとも竹の会を「大手と同じですね」と言ったのには引いてしまった。どうも大手が小5までになにかわからないが終わらせて小6では受験対策に特化するということを指してのことのようだ。都立中高一貫と私立難関ではすべてがちがうでしょ。そんなことは「草枕」を過去にさかのぼって読めばすぐわかることでしょ。

 パッケージに騙されてはいけない。わたしたちは、内容を判断するのである。しかも、他人の意見を借りて判断するのではない。自分の価値判断を根拠にしなくてどうするのですか。テレビのコメンテーターなんかは、何か目立つことを言わなければという意識満々で、どこかでだれかが言った意見をまるで自分の考えのように言い立てるけど、こういうヤツらに騙されてはいけない。なぜ弁護士が法律以外のことで、弁護士なら人生の達人でもあるかのような体で、知ったかした意見を述べるのか、全くアホでしょ。こんな若造や小娘弁護士、医師の人生論なんか聞きたくもない。

 すべてはわたしたちが思考停止しているからいけないのです。世の中というのは、何とも後知恵が罷り通り、専門家と称する者の意見は必ずどこかでだれかが言った意見のパクリと考えていてちょうどいい。

 わたしは、世の中に本物の塾なんていくらもないと思っている。そもそもわたしは塾というもの、既製の塾というものを信用していない。テレビにさかんに出ている林先生という人もすごい人だとは思うけれど、いったいこの人がテレビに出て何をしたいのか、よくわからない。カネ稼ぐためということか。いや塾にもそれは林先生のような優秀な先生があれこれいておかしくはない。問題はそんなことではない。世の中にはバカから天才までいろんな子どもたちがいる。確率からすれば天才は少なくてバカばかりでしょ。親も同じだ。さてそういう現実をふまえて塾というものはどうあるべきなのか、ということである。既製の塾のテキストと授業と学生講師という、そして個人塾の塾長しだいのありよう、そういうことでパッケージに毒されたバカ親たちがどう反応するか、どう動くかということです。たいていはママ友のような隣人の意見で動くことになる。他人がどうしているかが目下の関心事であり、他人が、特に成功したママがどう動いたかは絶対的な動機となりうる。

 このようなパッケージママに竹の会はとても太刀打ちなどできません。理性ではなく感情で動く人たちに、竹の会の理性は通用しないでしょ。竹の会はほんとの少数の心あるみなさまに支えられて生きながらえているわけです。

 

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