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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/桜修館、九段へ/受験指導家、受験コンダクター

2016.09.07

 おはようございます。今度は台風13号が本州縦断のようです。その影響か、今日は朝から雨模様です。朝早くには小6の子が39度の高熱を出しているとの連絡がありました。8月中には中学生の女子二人が39.2度を出していましたが、回復は早くてやはり若いし強いな、と舌を巻きました。これは薬の効きがいいということもあるのでしょうか。最近、生活習慣病のために医師が処方する薬の副作用の恐ろしさが騒がれ始めましたが、薬の恐ろしさについては早くから警鐘を鳴らす人たちがいたのです。

 ところで最近小5の子たちに去年の9月から当時の小6の子たちに使った「適性のための計算問題」というレジュメを使ってみたところ、よくできる。実は現小6よりもできる子たちもいる。これには唖然としましたが、考えてみれば、今の小5の子たちはすでに割合の中級レベルへと進んだ子たちがほとんどなわけですから、そろそろできてもおかしくはないわけです。例年小5の2月からスタートさせる、適性対策のための訓練について、今年の小5については前倒しで12月中には進めていこうと計画しています。

 昨日はとうとうブログの更新をあきらめました。もう朝からずっと仕事にかかりきりで、特に、「新割合感覚ドリル」というレジュメ集があるのですが、この解説を書き始めたのですが、なかなか終わらない、結局夕方までかかりました。一気に書き上げようと頑張ったのですが、けっこうな量の問題でした。完成した解説集は早速小冊子にして試作品としました。かなりいい作品でこれだけ繰り返しやっても割合をマスターできそうです。現在の初級レジュメ「算数の魁」の前段階で使うものですが、いい作品ができました。

 現在の小5を診てわかるとおり、割合を理解するほどの知能段階にある子というのは、やはり適性の進み具合が断然にいいわけです。逆に、割合の理解がまだ初級レベルの子というのは適性問題にまともに対応できない、太刀打ちできない、ということが言えます。巷の塾のバカ小学生が初めから、割合もまるでわからない、計算力もない、というのに適性問題集なんかをやらされる、これはどう考えてもアホの所業です。

 計算というのもひとつの問題です。正直計算というのは長くかけてはいけない、いや長くかかる子というのはダメなわけです。計算をマスターするのに1年以上かかる子というのは、指導はそもそも無理です。

 わたしの仕事というのは、よく思うのですが、単なる塾の先生というふうに考えてほしくはないですね。戦争映画なんかでよく出てくる軍曹みたいな役回りなのかなと思うことがあります。あるいは、ヒマラヤ登山の際のコンダクター、ガイドの役割なのか、道案内するだけならガイドですけど、鍛えるとか、訓練するということをやりますので、単なるガイドではない。わたしは自らも戦士のような気概で臨んでおります。

 子どもたちを戦える子どもたちに訓練しているつもりです。自ら考えて臨機応変に対処できる子どもたちの育成です。計算で躓く、計算で手間取りなかなか前へ進めないというのはそもそもの戦う以前の能力に問題があると思います。計算だけで1年以上かかる子がいます、とにかく計算はできるようにはなる、しかし、やはり計算というのは1か月ほどでそれなりの戦士になっていなければそもそもの訓練には向かない、というのが正直な感想です。これを地頭というふうに今風の呼び方をしてもいい。地頭というのは脳科学者とか称する、たとえば茂木みたいな人間が言い出したことなのかと思いますが、それで最近は親も使う、そういうことになってきた。計算の中でも逆算というのが脳のレベルを測る、試金石です。逆算の理解の速い子というのは知能が高い、といっていい。人間というのは、順序にしたがって考えることには順応するものですが、逆に順序を反対に辿るのはかなりの知能を必要とする、そういうことです。

 わたしはどちらかという軍曹みたいな立ち位置にあるのかな、と思いますが、そうでもない面もある。というのは、受験というのは徹底して実戦なのですが、やはり先の見通しというものは常に考えて行動しているわけです。軍曹というのは、戦える戦士かどうか、つまり子どもたちの能力についてはリアルタイムで刻々と判断している、使えるかどうか、これを見極めようとしているわけです。信頼の根拠を子どもたちの中に追求し続けている、といってもいい。だから偽る子というのは、戦えない、と判断するわけです。戦いというのは、休みはないわけです。子どもたち、いや家庭をふくめて、戦い中断を平気でやるのは、わたしの信頼の根拠を根こそぎ刈り取っていくに等しい。子どもは戦っているのである。戦いから親の都合で適当に離脱させる、訓練というのは継続こそ命である。継続というのは戦線をたびたび離脱する者には決して得ることのできない、自信というものを培っていく。受検直前まで習い事、稽古事を続けている子というのには、根本的にこの自信というものがない。常に不安で揺らいでいる、と言ったほうがいい。このような心的状態にある子には的確な判断は期待できないし、決断も場当たり的なくじを引くようなことになっているはずである。

 戦える子に仕上げて、戦う、訓練をする、そして実戦を勝ち抜いていく、勝つというのは、他の助けでは得られない、自ら戦い勝つという概念である。

 竹の会というのは、戦いを想定して訓練する「場」である。なにかの機会に竹の会というものを体験してみるとそれがわかる。竹の会を体験した者はたいていは竹の会という塾に何かを感じる。それは本能的に本物をかぎ分けているようにわたしには思える。巷の塾と違う、なにかが違うと感じているのがわたしにはわかる。「先生、わからないときは教えてもらえるのですか」と質問する母親の顔を思い出しながら、この母親の誤解を解くのもあきらめていたかつての自分をよく思い出す。既存の塾イメージから抜け出せない、古い体質の、洗脳されきった母親というのがそこにはいた。世間にはこのような母親がうようよいる。なにしろどの親も大手、大手と迷いがない。「みんなが行っている」、これがなによりも強い、選択動機になるのが、IQの低い、自己の判断基準というものを持たない層の特質なのであるから。

 竹の会では、戦士たちはパラコードのブレスレットをしています。パラコードというのは、パラシュートのひもで作ったブレスレットのことです。1本で250kgの重さに耐えられると言われています。わたしが編みます。アメリカ製の木組を使ってしっかりと編み込んでいきます。戦争映画の中でよく兵士がしています、あれです。編み方はいろいろあるのですが、わたしが愛用しているのは、願いを叶える、という編みのかたちです。わたしも魔除けのようにいつもしています。もちろん自分の手編みです。子どもたちはいろいろとカラフルなのをわたしに頼んでくるのですが、わたしは迷彩がいちばん好きです。子どもたちは迷彩が大嫌いのようですが。パラコードというのはいざというときには命綱になったり、なんと火も熾せるのです。子どもたちがしているのは、全長2.4mあります。

 戦線から離脱することは別に悪いことではない。戦えない子たちが塾を止める、それは普通のことだからである。地頭が足りない、だから離脱する、これは常識的な判断であると思う。竹の会では、退塾ということを深刻にとらえてほしくないのである。竹の会というのがもともと戦える子たちの集まりということであった。だから戦えないのなら離脱するのは当然のことであり、ここで感情的なものは残して欲しくはない。さらりと退塾していいのである。戦線から離脱するという選択は決してその当人の可能性否定なのではなくて、戦いに適しないという判断をしただけなのであるから、戦い以外の多くの可能性を選択する幸運を得たかもしれないのである。

 よくわたしは悩みます。いや悩んできました。戦いに適しない子たちの処遇についてです。こういう子たちが戦線離脱してしまったときのわたしの開放感は半端ではありません。それほどわたしには苦痛、ストレスだったのです。竹の会に子どもさんを預けるということは親御さんには別の意味で安心感というものがあるようです。しかし、わたしには戦えない子を率いるということがとてつもないストレスとなるのです。軍曹が戦えない、手に余ると言うときはやはり戦えないわけです。親御さんというのはかわいい自分の子にかける思いというものがある、それでわたしも軽々には戦いには適しない、わたしの手の余るとは言い出せないものがあります。ここが苦しいところです。戦いに託した親の気持ちというのは、これしかない、という賭ける思いがあるでしょうから、わたには辛いわけです。

 しかし、これはやはり早い時期にわたしの気持ちとして伝えなければならないことです。さらりと言える、環境、空気というのがわたしの理想なのですが。

 わたしはよく思うのです。人というのは、「侮る」から失敗するのだと。根拠のない侮りは自らの浅はかさを露呈するだけである。わたしは勉強を後回しにする、最後に回す、先送りばかりする、親そして子というのをたくさん見てきましたが、これというのは、勉強いうものを侮っているようにしか見えないのですが、そういうことには思い到らないようです。「侮る」人というのは、根拠にこだわらない人です。自然災害で命を落とすというのは、不幸としか言いようがないのですが、運が悪いとしか言いようがないのですが、もし仮に心の片隅に自然を舐めているようなことがあったとしたら、それは自然を侮っていたということですが、それは自ら招いた災厄ということにもなる。桜修館を受けたい、九段に行きたい、と親子で言うのはいいけれど、ここでどれほどの覚悟をもってそういうことを言っているのか、である。わたしに「侮り」というものを感得させるほどの決意なら、早くからそんな希望は捨て去ることである。

 

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