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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/桜修館、小石川への道/勉強と向かい合わない子どもたちと親の無教育という愛情

2016.05.31

 おはようございます。明日からいよいよ6月になります。率直な感想を言えば、新中1はややだらけつつあります。おそらく勉強時間1日最低でも5時間を実行している中1はいないかもしれません。そういう実感を持っています。

 平成3年に、青山学院高等部に女子が合格した記録が残っております。わたしはこの女子のことをよく覚えております。上原中の生徒でした。中2の秋だったと思うのです。彼女の父親がひとりで竹の会に相談にきたのは。その話しによると、娘は渋谷にある昴という進学塾に通っている。娘はそこで2番で、1番は筑駒の生徒だ。上原中では、中1から常に学年1番である。志望校は慶應女子、昴で1番になりたい。

 さて、その昴であるが、確か、昴教育研究所と言ったか、当時はかなり有名な大手進学塾だったと思うが、今はない。

 当時、竹の会は、昭和60年10月開設以来、たちまちのうちに近隣の上原中、代々木中などで、「数学がいい」という評判が立ち、英語塾に通う子たちや数学のできない生徒などが押しかけてきた時期であった。

 わたしはその父親に言ったものである。「慶應女子なら、最低でも5時間の勉強が必要です」と。するとその父親は、「娘は中1になって以来、1日5時間の勉強を欠かしたことは一度もありません」と言いました。さらに、「上原中では、中1になったときからずっと学年1番です」とも言いました。それでも数学で有名な竹の会でさらに今伸び悩んでいる「数学を伸ばしたい。娘の望みをかなえてあげたい」と言いました。

 この女子は、当時のコースでは、1回2時間週2回通ったのだと思う。今から考えると、あまりにも少ない。特に、慶應女子を獲るとなると足りない。彼女は昴に通いながら合間を見て通ったわけである。噂通りに集中力は抜群でいつまでも考え続けたが、最後に、わたしの解いた答案を渡してという流れであったが、当時はこういう生徒に対する指導のプログラムもまだ未熟であった。

 わたしはかつて中学の生徒にはいつもこの女子生徒のことを話した。そして、学年1番になるほどの生徒というのは、最低でも1日5時間の勉強をしている、のだということを説いた。3時間だと現状維持、それ以下だとやらないのと同じ。いいですか。3時間ほどの勉強では、現状維持するだけなんです。どうしても5時間はやらないとだめなんです。

 わたしは中3のとき、1日7時間やりました。毎日睡魔の襲い来る午前2時~3時と戦いました。3時を過ぎると睡魔は去り、不思議と目が冴えてきた。中3の最後の最後の実力考査で、それまでどうしても勝てなかったクラス1番のGに勝ちました。返ってくる答案が、100点、100点と続くと、Gは、「負けた。阿部、おまえ学年でも2番か3番に行くよ」と悔しそうに言いました。当時1クラス55人、12組ありましたから、学年トップクラスはすごいことでした。学年1番にはなれませんでしたが、1ケタに入りました。

 わたしは勉強に目覚めるのが遅かった。中学生になったとき、初めて試験勉強というものをした。小学校の教科書を見返しただけだったが、最初の試験で550人中の100番内、66番になった。小学の通知表は、図工が5で、後は3ばかりで、2もあった。親は「できない」と思っていた。ただ小6のときあった知能検査が異常に高かったと小学校の担任が驚いて母に伝えた。わたしはその話しを母から聞かされた。わたしは中1のときに勉強に目覚めた。なにしろ家には本というものがなかった。小学時代はガキ大将で、まさに野や山を駆け巡っていた。中学では、勉強すればそのまま成績に出た。いつしか学年20番ほどになり、親もわたしのことを「できる」と信じ始めた。参考書なんか買ってもらったこともなく、あるのは学校からもらったテキストだけ。授業もわかないということはなかった。クラスの何人かは塾に行っていたけど、うちにはそんな話しは一切なかった。勉強は自分でするものと、それが当然とされていた。

 わたしは、最低5時間を負担に感じながら、義務としてやるのではだめで、勉強するということがそういうことなのだということがわかっていなければダメだと思っている。今の中1を見ていると、勉強というものが、地に着いているか、しっかり向かい合っているか、というところでまだ信じ切れないものがある。

 勉強と正面向かい合っているか。これを勉強のスタンスという。家庭学習をしない、という子はまず伸びることはない。昔は、勉強するのが、塾にきたときだけというのがいたけれど、実は、そういう子が今もいるけど、まず、家庭学習をしないのなら塾に入っても意味はない。宿題だけとか、ただのこなし仕事だけというのは、勉強でもなんでもない。

 親というのは、子どもにまず勉強というものに対する向かい方というものをきちんとしつけなくてはならない。大手に入れること、個人塾に通わせることが、その教育ではない。まず、「字」ぐらいは、まともに書けるようにしつけてほしい。読める字が書けないというのは、その子にとってこれほど不幸なことはない。親は勉強というものに対する対し方というものを教育できる、いちばんの指導者ではないか。子どもが勉強に正面から向かわなくなったのは、みな親の教育しない態度のせいではないか。過保護、やりたいようにやらせるというのは、教育ではない。子どもが欲しがればなんでも買ってやるというのは、もちろん教育とは真逆の無教育にほかならない。教育とは、足りないこと、ないことを我慢させることにほかならない。

 習い事、稽古事に夢中の子というのは、受検をしたい、と言いながら塾に通うのも、その意識は、「習い」事であり、勉強というものも、そうした習い事のひとつのメニューにすぎなく、勉強というものを舐めているか、実は恐くて恐る恐るやる、決して正面から向かい合うことはない。こういう子というのは、模試なんかはできるだけ受けたがらない、回避行動をとりがちである。なんやかやと口実を言って逃げる。

 勉強と正面真剣に向かい合っているか、こう問えば、たいていわたしには見えてくる。勉強がなにかの「ついで」にしか見えないとしたら、いずれそういう子は落ちていく。

 ◎現代バカ親図鑑

  塾に行ってカネかけてバカになる。昨今の大手を信用する親の選択は総じて子を取り返しのつかないバカにする結果となっている。なにしろ選んだ根拠が「大手だから」とバカバカしいけれど、地元の個人塾にしても「近いから」ということでしょ。これは塾ならどこでも同じ、変わらない、という認識なのでしょうが、そしてその認識は必ずしも外れてはいないけれども、これで成功するのは、もともとわが子が知能優秀な場合だけです。つまり、ほとんどのもともとの地頭が「中の上」以上の子はバカ一直線である。「上」とは、学校で「よくできる」が8割以上ある子のことである。この程度でも大手に行って伸びる子は少ない。してみれば「中の上」も推して知るべし。「中以下」となるとまずわたしには無理である。

 巷の塾にしても大手にしてもダメなのは、テキストを回すだけだからである。画一化された、お仕着せのテキストに合わせて、一斉にやる、こうなると、テキストの内容、レベルで決まる。進学塾では、テキストで扱うレベルも自然高くなるから、必然落ちこぼれが出る。都立受検塾だと、たいてい内容は「犬でもわかる」程度だ。つまり、みんな「できる」という実感を持たせてくれる。落ちこぼれは出にくいように仕組まれている。バカになったのはバカ塾のおかげでしたということになる。レベルの低い問題ばかりやる、ちょっと難しいとすぐ説明する。子どもは説明を理解することに脳を使う、板書をノートに写すのが塾でやることである。ノートいっぱい写して勉強した気になっている。まったくおめでたい連中である。塾は気のあった仲間がいっぱいいるから「楽しい」と言う。仲間とおしゃべりばかりしている。

 いつ悩むの?いつ考えるの?低レベルの問題ばかりやり、説明ばかり聞いていて、脳は使わないから、何も変わらない。

 問題読んで考える前にみなバカ講師が説明してしまう。板書を写すだけ。後で考えようと思っても、めんどうくさいとやらないでしょ。

 大手であろうが、個人塾であろうが、こんな生活を1年もやってたらどうなるか、わかりそうなものなのに、親は大手に通っている、それだけで安心して、あるいは個人塾なら嫌がらずに通っている、勉強もまじめにやっている、机に向かっている、それでもう安心している。しかし、バカウィルスは静かに潜行している。1年もたったらもう完全なアホになっています。このアホの特徴は、他人の解説、つまり説明を捕食すること、それだけに特化していることです。バカ化された脳にはもはや、自ら創造するなどという機能はありません。ただただ人の解説を鑑賞するだけ、常に、傍観者なのです。

 塾に行かない、という選択はどうか。まあ、当の親は選択などしたという気持ちもない、とにかくこういう親というのは、受検しないからと言い訳は言うけれど、塾代が惜しいだけです。あるいは、子どもには塾に行ってまでできるようにならなくていいという思いなのでしょう。まあ、少なくとも巷のバカ塾の犠牲にはならないわけです。ただ訓練されてない犬が、バカ犬なのと同様に、使いものにならない、駄犬並の子育てです。訓練すべき時期に訓練しない、ということの代償は、もはやどうにもならない。子どもを駄犬に育てて、いや放置して、放任して、低偏差値私立高校に入れて、中途で退学するか、なんとか卒業して、社会にそのまま出る、そういう選択です。最初から価値観がちがうということです。ですから批判するということでもない。

 駄犬としての人生。勉強という習慣はない。長時間思考するということもない。自分の能力を超える問題で頭を悩ませるという経験もない。試行錯誤を重ねて思考段階を上げていくということも知らない。

 駄犬となってしまえば駄犬の訓練ほど難しいものはない。好奇心旺盛な子犬の時が訓練のタイミングであるように、人間も訓練すべきタイミングというものがある。

 駄犬タイミング論からすれば、勉強習慣のない中学生を教えるのは、既にして不可能である。

 駄犬の親の生態

 「部活やってるから、いいか」、これが現代バカ親の思考様式です。部活は学校公認だからとでも短絡しているのでしょうか。おおやけ万歳です。かなり大雑把です。勉強だけの人生なんてつまらない、部活やってもっと豊かに過ごさせたい。はい、けっこうなことです。

 かつて「うちの子はバレー(ボール)やってるので、部活終わってみてくれる塾を探している」という母親がきた。そもそもなぜ塾探すの?やっぱ塾で習って成績も人並みにしておきたいわけ?部活を毎日そんなに激しくやっていれば、塾に来ても疲れ果てて居眠りするに決まっているでしょ。どうせ家庭学習なんかやらない。考えるという前提もない。勉強は塾で教えてもらう、つまりわからない問題を教えてもらうところと思い込んで疑わない。そもそもの勉強のとらえ方からしてちがう。勉強のスタンスなどない。まず向かい合ってない。こういう親に限って、「高いカネ払って塾に行かせているのに、成績が下がった」と文句をつけてくる。バカ親の生態としてもかなり要注意だ。

 駄犬にしてしまって、駄犬の訓練ができていないと、塾を叱る。まあ、頭の悪い母親ではある。勉強というものがまずわかっていない。そして塾はまるで魔法使いなみの技量を求められる。そんなものあるか。

 駄犬の親の生態は、子犬のときに訓練してこなかったこと、これにつきる。

 ◎小4募集

  渋谷Aでは、小4を募集しています。小5募集はしていません。

  渋谷Bでは、高校受験目的の小学生を募集しております。

 

 

 

 

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