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最低でも都立戸山/桜修館への道/教育しない親/指導の哲理

2016.06.23

 おはようございます。西日本の大雨は、梅雨前線の停滞とインド洋の高温化がもたらすコラボレーションなのだそうです。誠に専門家というのは後付けの説明はうまいものです。後から起きたことの説明は実に論理的で整然としている。福島原発事故の放射能による影響に関しては、政府、東電の正当化は非論理的であるのに、マスコミは一切報じないという、つまり取材なしという態度ですね。日本の新聞というのは、今は取材というものをしないのですね。都にしても国と同じで記者クラブで配付される広報用資料がそのまま記事にされるしくみは変わらない。

 今日は関東にも梅雨半ばの雨ということですが、山間部の貯水池にどれだけの雨量があるのか、気になるところです。実は、朝一番でいつも執筆したいというレジュメ原稿がある、このタイミングを逃すともういいものが作れないのではという予感があるわけですけれども、今日はブログを優先しました。今考えているのは、「知の発芽」という新レジュメです。これは、竹の会入会試験Ⅰの問題のような、主として、知の発芽を促すような問題レジュメ集を開発してみたい、というわたしの思いです。もうひとつが、割合導入用の新しい発想からのレジュメを書き起こしたいという欲求があります。このところの指導でそういう必要性に駆られたということはあります。一つは、「定義から説きおこす」ということにこだわったものを書いてみたい、ということですね。定義というのは、抽象的なことばで、必要十分な内容を語らなければならない。わたしは、子どもたちが、できない、ひとつの原因が、定義というものを余りにも蔑ろにしている、ことにあると考えてきました。だったら、定義から説きおこすというアプローチもひとつのアイデアかなと思ったのです。定義に関しては、実は、国語読解のためのレジュメ制作においても、頭から離れないキーワードではあったわけです。論説文というのは、抽象性と具体性の織りなす綾みたいな鳥瞰をもっています。この論説において、筆者の規定する定義というものが、まずひとつの要になる。わたしは、「新国語読解」シリーズで、読解とは、何か、ということを指導してきました。今度は、その集大成的な定義から分析する読解というものを構想している。このアイデアをレジュメにどう具体化していくか悩ましいわけです。

 わたしの、竹の会の指導というのは、わたしは、説明が下手なのでなかなか真に理解してもらうことができないのですが、最近思うのは、竹の会というのは、子どもの変化というものを刻一刻と追っているな、ということです。竹の会では、まず、小数と分数について神の域までに正確な計算を理想としています。子どもたち、親にも、計算軽視の傾向が強い。特に、大手塾に通っていたという子の計算力の酷いこと、正解率は、当の子どもたちの「できる」という言にもかかわらず、限りなく0%に近い。竹の会では、今年九段に合格した女子の計算の正確さは神であり、億単位、兆単位の小数の割り算、四捨五入をこれほど正確にやってのける子に出会ったことがない。この子はわたしが小3の2月から鍛え上げてきた秘蔵の子でした。正直、今年の小6の計算の不正確さには辟易としておりますが、計算で間違うと、もうなにをしてもダメではないかという絶望的な感情が支配してしまいます。計算ができないのは、大手でもどこでも塾に通っていたのなら塾の責任もあると思うのですが、大手などは実際にできるかどうかまではチェックしないでしょうね。

 だから竹の会では計算を徹底して鍛えるのです。計算のできない子の共通点は、字が汚い、丁寧さの欠片もない、殴り書きですね。この計算にしても、逐一一問一答でチェックしていきます。割合に入ったら、導入レジュメだけで130枚ほどある。この一枚をやらせて、いちいち持ってくる、そしてチェックする、そういうことを延々とやっているわです。割合初級から、中級へと進んでも、一問チェックは変わらない。かつてこの段階で、自分の解けそうな問題だけをつまみ食い的にやる子がいたが、やはり順を追ってチェック指導を受けて行かなければならない。その子は結局破綻して、退塾した。かなり知能の高い子であったが、自ら超えがたい壁を築いていき、最後は自分の作った壁に夾まれて身動きがとれなくなった。竹の会のレジュメ指導とは、一枚、一枚のレジュメを一問一答式にチェックしながら進めて行く、常に、理解したか、しないのか、そういうことをチェックしながら進めて行く、刻一刻と知の変化を追う、そういう指導をしている。だから、竹の会の指導で長い間隔がある、つまりレジュメを出してこない、滞るというのは、指導が機能していない、ということを意味している。課題もリズムよく提出し、チェックを受けているということが大切なのだ。1か月も出さないとか、2か月もやらない、というのは、指導が機能していないわけであり、いいわけがない。去年の小6には、そういう子たちがいたわけです。

 指導というのは、竹の会の指導なのですが、四六時中子どもの状態を変化をチェックしている、そういう内実を実現したものである、と思います。理解していない、ということが、たちどころにわかる。子どもが課題を何日も出さなければ、子どもがどういう状態なのかを知ることになる。模擬試験を回避する、そういう子が去年もいましたが、模試を避けようとするのは、自信のなさ、自分の素の力を晒すのを嫌がる心性であり、こういう子はまず落ちます。なにかと勉強しない、口実の多い子もまず受からない。習い事や稽古事を口実にする子は受からないのはあたりまえです。

 「わからない」というときの子どもの反応というか、態度でわかることもある。実は、ここが能力の水準の程度を示すことにもなる。27年に桜修館に合格した女子などは、「わからない」というとき、それはもう何時間でも考えた。最終的にこの女子は、灘中や開成中のなかでももっとも難しいとされる「第6問」を解くまでに成長した。今、指導している小5には、この「考える」というところが、いかにも幼い、未熟さに満ちている。すぐに「わからない」と言って持ってくる。正直やや失望している。

 それから、字が汚い、読みにくい、時には、判読不能という子がいるけれど、これなどは、かなり損をしている、と思う。読めない字で書いた作文などだれがまともに読んでくれようか。善意に解して読んでくれる採点委員がいるなどという甘い認識は捨てたほうがいい。一字一字精魂込めてていねいに書かなくてどうして伝えられようか。作文がうまくなりたいと思う前にまず字という形式から学び直した方がいい。小数の計算で、小数点や位取りができないほどに踊る字など書いていては、理解できるものもできない、という不利益を自ら作り出すことにもなっている。

 かつて竹の会を見学に来た父親や母親が、「先生はプリントをやらせて採点するのですね。公文と同じですね」と言ったことがあったけれど、わたしは、そういう親たちに、説明するのも虚しくて、「はい、そうですね」と面倒臭いから、言ったものですけど、わたしから、言わせれば、公文はいわゆる塾ではないでしょ。それに公文に行っていた子というのは、たいてい字が汚い、悪筆悪字を書く子が多いから、わたしはその意味で敬遠している。そんなことは、竹の会に1か月でも子どもさんを通わせていればすぐにわかることですが、既製の概念しか頭の中にない、頭の固い親には、竹の会のシステムを理解させることは不可能に近い。またそういう親の子であれば、指導は無理というのも簡単に想像はできる。

 まあ、竹の会をいろいろ批判的に見るのは勝手ですが、ことは簡単なことです。大手なり、巷の塾なりに入れて、2、3か月の子と竹の会の子を比べればすぐにわかります。計算力、割合の理解度、思考する態度、勉強のスタンス、すべてにおいて違うことがわかるはずです。大手に入れて、テキストにしたがって、集団授業を受けて、それが、どれだけいいことなのか、竹の会の子たちの足下にも及ばないことは、すぐわかる、さて、それで竹の会の指導というものはどうなのか、ということでしょ。

 わたしは、基本的には、教育とは、子どもにがまんさせること、だと思っています。欲しい物をなんでも、どんなに高価な物でも買い与える親がいますけど、こういう親というのは、教育していない、と思います。教育を学校に通わせる程度にしか考えていない。塾に通わせる、それが教育熱心だと誤解している。あるいは、習い事、稽古事もなんでもやらせるわけです。子どもは、自分が恵まれていることを自慢する程度に知能もよろしくない。こういう子は貧富の貧を侮る傾向が備わり、ほんとうにいい教育をしている(?)と思う。なんでも満たされている子というのは、「ない」、「足りない」ということに工夫で凌ぐという知恵もないわけです。教育というのは、こういう乏しい、そういう状況で、がまんすることを覚え、工夫して知恵をはたらかせるという能力を培うことであるはずなのに、そういうことは全く考えてもいない。だから、勉強するときも、「わからない」という、一種の「ない」、「欠乏」の状況に直面しても、全くがまんがないのである。すぐだれかに聞く、解説してもらう、そういう態度しかない。何か不足している、そういうところに常に自分を置いて、「ない」ところからいろいろ工夫する知恵というものを身につけていくのが教育のありかたである。だから教育しない親だとわたしは言っている。

 人間というのは、不足している状況、そういうときにこそ能力を発揮するものである。何もかも満たされている、そういう子には教育そのものが虚しい。

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