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未知と既知

2021.05.18

未知と既知
 求められているのは未知の対応
 解き方を学んで来た者は、未知の解き方は知らないからできない、と言うであろう。しかし、試験というものが、未知との遭遇が普通のことであってみれば、それでは落ちるほかない。
 如何に考えるか、を戦略的に学ぶことが、未知の、想定しない事態に対するには是非とも必要である。
 「やったことのある問題」が出た。これはいい。しかし、それが出来なかった、という話しならよくあった。「先生、竹の会でやったことのある問題ばかりでした!」、それはいい、しかし、見たことのある問題が出ると、実は危ない。もう知ってるということで、問題をろくに読みもしないで、思い込みだけで解いてしまう。同じ問題と言っても、問題の視点は違うかも知れない。別のことを聞いているかもしれない。勝手に「知ってる」と決めつけて解いていないか。似ていても問いの主旨は違うことはよくある。
 英語ならかつて竹の会で私が選んだ英文がよく出た。こういときは意味が分かるから、できたというのは分かりやすい。
 数学では、かつて市川高校を受けた子が、「竹の会で扱った問題と同じ問題が出ました」ということがあった。それで、「できたのか」と尋ねれば、「いえ、できませんでした」だった。あれはお茶の水の問題から私が選んだものだったと思うが、ちょっと変わった問題で、気になって解かせたものだった。幸い市川は受かったからよかったが、危なかった。
 しかし、試験は、やったことのない問題、これまで見たこともない問題が出されると思ってかかった方が良い。いやそれが前提でしょ。だから過去問ばかり解いているといろいろ弊害が出てくる。まぁ、最初は考えるでしょうね。しかし、その考えるも質が問題だ。すぐ解答見て、先へ進める。それで何回も解き直す、これはまずい。未知との遭遇、その対処、思考というものが一切ないのだ。何回もやるから答えを覚えてしまう。こういうやり方をやると、頭は次に出る問題は、似た問題だと信じてしまう。こういう頭の人は、小石川対策とか、白鷗対策とかのワードに弱い。大手塾の宣伝にコロリである。
 何が問題か。次に何が出るかわからない。試験は常に新出問題だ。未知との遭遇を当たり前のこととして準備にかからなければならない。だからよく大手のやる予想問題とか、そっくり問題なんかのコースは役に立たない。こんなのに簡単に引っかかる親子なんか最初から受検など無理だということだ。
 さてこうして私たちは普段から未知の問題に対して、如何に処するかを、現場で葛藤、苦悩しながら会得していかなければならない。そこから戦略的な作戦というものも生まれてくる。都立の対策は、シンプルなものだ。思考力を作りあげればいいのだ。あげて思考力をつける、全力でつける、これだけだ。
 さて、それでは思考力はどうすればつくのか。
 これこそが長年竹の会が取り組んできた課題であった。
 ただ考えさせるだけでいいのか、少なくとも問題は選定しなければならない。テキストに出てくる問題を「わからない」からとただ「考えろ」ではだめである。よく思考力を育てる塾というので、新中学問題集なんかを与えて、ずっと考えさせる、それからやっぱりわからないというので質問に来たら教える、これはどうなのか。
 かつて竹の会では、中3になると、過去問を解かせたが、あれはよく考えさせた。一問につき1時間が目安だったと思う。
 竹の会が、レジュメ時代に入って、私の思考の扱いも変わっていった。まず考えさせる問題を自ら制作した。私は、子どもの思考の段階というものを緻密に推し測ってきた。それは膨大な量の創作レジュメを指導の場で使うことによってより緻密な段階に細分化された。わたしの作ったレジュメは、わたしの思考を測る尺度となった。この問題が解けるなら、どの程度の思考の深さなのか、そういうことがわかった。そうなのである。竹の会は、レジュメという検査の方法を開発して、思考を作る技術において飛躍的に進化したのだ。私は私の「こうしたい」という意図を、戦略をその目的実現に向けた、理想の検査レジュメ作りによって実現した。わたしの作ったレジュメで、意図した通りに、子どもたちの思考の層ができ上がっていく。そうだった。私はかつて子どもたちの伸びていく様子が、目に見えた。右肩上がりの曲線を描いていくのを見ることができた。あのときは感動した。自分の指導が創り出す成功曲線にわたしは世の中の親には決してわかってもらえることのない、わたしにしかわからない方法を開発したことを実感した。
 話しを本題に戻そう。
 私たちは、未知との遭遇を当然の前提として、生きて行くのが正解なのだと思った。普段から受検、受験指導をしてきたこともあるけれど、新型コロナとの遭遇がその考えをさらに強めた。私たちは、日常を便利に、快適に過ごすことにすべての価値を置いてきた。つまり日常を心の中に住まわせることで心の収まりをつけてきた。非日常は、私たちには耐えられないのだ。だから既知の方が楽なのだ。未知というのは、使う精神的エネルギーが半端ではないということだ。
 だから勉強は既知が楽である。既にどこかで出た、出題された、答えのある、問題を習い、覚え、試験に臨む。そういう勉強が楽に決まっている。だから大手はこれをやる。しかし、私は、未知に対応できる人材を育てたい。見たことのない、まだ考えたことのない問題の解決を通して強靭な精神、不屈の意志、を涵養する、これである。
 竹の会の到達した、驚異の成果をもたらした、確信の方法がある。
 かつて竹の会を評して「進化する塾だ」と評した卒業生がいた。10年前に竹の会に通っていた人が述べた竹の会の内容はほとんど違っている、のが現実である。つまり過去の竹の会の内容に関する評は役に立たない。
というか、その時代より遥かに進化した内容と考えた方がいい。
 私の指導力、指導の質、レベルは確実に進化していると思います。今年の受検に投入したレジュメは、合格をもたらす最高傑作となりました。「合否判定レジュメ」と名付けられた、このレジュメは、思考の質を測るのに最高の出来でしたが、それと共にこのレジュメに取り組んだ子どもが真の思考に開花していくのが私には手に取るように実感できました。だからわたしはこのレジュメによる指導を通して合格を確信していったと思うのです。このレジュメのすごいところは、このレジュメを乗り越えた子どもが、揺るがぬ自信をつけていくことでした。「乗り越えた」というところは、読み過ごしてはいけませんね。そうなのです。「合否判定レジュメ」は、わたしの合格の判定がなければだめなのです。子どもたちの中には、自己評価が高く、自分では「できた」と思っている子「たち」もいましたが、私の中では、合格基準というものがあり、この合格基準をクリアするのは、実は容易ではない、のです。
 普段のレジュメの正解率というものが、またかなり評価に影響もする。
 竹の会の子どもたちが、成長して、手にしてほしいもの、それは、合格者がみなそうであったように、一旦取り掛かったら雷が落ちても途切れない集中力である。勉強ができるようになる、それは集中力にかかる。
 その上で、未知の問題を通して培われる、未知への対応力である。
 未知には正解はない。そう、普通はそうである。しかし、試験には必ず正解がある。既知の正解は、覚えたことを思い出そうとする頭の働きに顕著である。つまり、思考はない。考えるのではなく、記憶を呼び起こす、脳の働きしかない。普段から、教える、習う勉強をしている子には、思考というものがない。つまり、未知には対応できない子たちである。
 未知にどう対するか。
 まず未知なる問題事実を分析する練習をする。事実から、つまり個々の事実をなんらかの視点、「関係」から意味ある構成を試みる。この構成、つまり仮説で意味を通した場合、矛盾はないか、不合理な点はないか、もしあれば、事実を見直して、新たな関係性から組み立て直す、バラバラの事実に意味通しをする。うまく意味が通るか、矛盾はないか、不合理ならところはないか、こうして、あなたたちが構築した仮説で説明が成功すること、これが未知への対応にほかならない。
 竹の会は、この未知の対応にこだわってきた。「考える」と言うのは、深い意味がある。そもそも事実は正確に理解したのか、そのためには、何十回でも問題を読み返せ。理解するまで読み返せ。その上で、あなたの立てた仮説で、それらの事実をつなぎ、意味を通せ。どこにも矛盾は出てこないか、何度も見直せ。都合考える指導というのは、このようなことなのか、と思う。よくどこかの塾が、「考えさせる塾」ということを謳い、問題集を丸投げして単元毎に勝手に解かせて、わからない、と持ってくると、「もっと考えろ」と叱咤する、あれはちょっと違うのではないかと思います。教える側も、実はスローガンは立派ですけど、具体的には何も意味あることをやっていない、格好だけですよね。「もっと考えろ」だけでは、子どもの側もけわからんでしょ。スポ根ドラマじゃないのだから叱咤激励が指導では困りものです。
 世の中は、営業で成り立っている。営業というのは、本来、要らないもの、必要性のないものを売りつけることだ、と喝破している人がいましたが、本当にそうですね、テレビのCMなんか見ていると、本当に要らないものを売りつけようとしている、どんなに必要なことかを有名人使って説得する。しかし、必要ないものなら、どんなによくても無駄でしょ。
 大手の塾が、知識をわかりやすく売る、というのは、多くの親たちの心に響いた。大手は、特に、進学大手は、テキストもいいものが揃っている。都立中高一貫校型塾もコンセプトは変わらないのかもしれない。しかし、進学塾大手が、過去問を元に教材を作るのと、適性過去問を元に教材を作るのとは、ちょっと違う。この辺はまた話す。適性過去問はたくさんやってもだめだ。私立中学入試過去問をやるのとでは、違うのだ。とは言っても私立過去問をやれば力がつくのか、というとこれは、やりようによる、としかいえない。
 問題は、それとは別にある。「知識をわかりやすく売る」というところだ。巷の塾は、知識の、効率的、時には網羅的な提供に秀でている。そうなのである。飽くまでも知識の販売に長けていることである。販売、いや営業である。講座も商品である。不要であろうが、とにかく売りつける。それが営業なのだから。
 さて、このような大手には、売ってないものがある。それが、思考である。大手には、もともとそういう商品はない。そして大手のやり方をそのままにその他の塾にももともとそういう商品はなかったのである。かれらがやれるのは、教材を用意して、教材の目次、単元によってカリキュラムを組み、年間を通して、そのテキストを使った授業をしていくことだけだった。そこから塾を「教える」ところと考える人が蔓延していった。「わからないから」塾に行く、教えてもらいに塾に行くのである。そこから「わかりやすく教える」塾がいいという迷信が蔓延することとなる。自己満足型、自己陶酔型の学生講師が、「わかりやすく」教えていると陶酔し、習う方も教えてもらうことに満足する。親はこれを見て「なんといい先生なのか」と感動して涙を流す?

 竹の会は子どもたちを教育して「考える人間」として誘導することに取り組んできた。今わたしが取り組んでいるのは、どこまでそれをレジュメという補助手段で実現できるのか、である。

 「合否判定レジュメ」は15撰しかない。しかし、子どもが熟慮、熟考するための重要なものはほとんど入れたつもりである。子どもの脳の中で、事実の読み取り、理解、関係性を仮定して仮説を立てる、抽象的な仮説を具体的にあてはめる、矛盾なく説明できたか、そういう脳の過程に神経を集中する、これが思考の教育、具体的な内容であると示せること、それがまた指導の科学ということなのであろう、と思っている。
 
 
 
 

 

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