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本年は、小石川・両国・白鷗・大泉にロック/都立戸山・青山絶対合格術/意味を読み取ることのできない子についての考察

2019.04.18

 4月18日になりました。4月というこの過ごしやすい季節は天の恵みと心得て、感謝しております。5月も連休を過ぎるとたちまち初夏の様相で近年はかつてのような梅雨を見たことがありません。小6は、今がいちばん勉強すべき時です。1日5時間は当然、休日は最低でも7時間、夏は最低7時間、理想は10時間です。勉強できるときに勉強しておくのがいちばんです。9月になれば勉強したくても時間がありません。いちばん時間がありいちばん勉強できるときにどうして行楽などにでかけるのか、わたしにはさっぱりわかりません。あなたたちは掲示板の本当の恐さを知らないのです。番号が「ない」という事実の非情さを知らないのです。勉強できるのは、あと8か月です。

●意味を読み取ることのできない子についての考察

 これはなかなかに難しい問題である。算数の文章を正確に読み取れない子が、かなりの数いるということについては、前々から、気になっていたことであるが、こういう子たちが、算数の力を伸ばしていくことには、やはり消極にならざるを得ない。
 この子たちが読み取りができない原因ということを今日は考えてみたい。読み取りができない原因をただに知能に求めるなら、原因は明快である。果たしてそうなのか。確かに、この要素は否定はできないけれど、少しく考察してみよう。
 読み取れない子たちを見ていると、問題の意味内容をまるで理解していないことに驚かされる。
 例をあげてみます。
 問題
容積1000Lの水槽があり、水槽の水が半分以下のときはブザーが鳴り続けます。この水槽から毎分20Lの水を使っていたところブザーが鳴り始めたので、鳴り始めてから10分後に毎分30Lの給水を始めました。しかしなかなか鳴り止まないので、水を使うのを止めたところ、鳴り始めてから、22分後にブザーが止まりました。
 横軸がブザーが鳴り始めてからの 時間、縦軸が水槽に残っている水の量、として、グラフをかきなさい。

 この問題の解答欄には、グラフをかくための、縦軸と横軸がかかれており、縦軸には、0から20L刻みに線が引かれている。100L、200L、300L、400L、500Lまでメモリが振られている。つまりグラフの最大値は500Lである。横軸のメモリは、1分毎に22分まで、線が引かれている。

  この問題を解ける子は少ない。中には、0(原点)からグラフをかく子もいる。問題を読んでいないのか、と思ってもみたが、問題は一応読んでいる。しかし、「ブザーが鳴り始めてから」とあり、「ブザーが鳴り始める」のは、水槽の水が、半分になったとき、すなわち500Lになったときからだから、グラフの0分は、縦のメモリ500からスタートすることは、容易に読み取れる。この問題は、最初の10分までのグラフが、小問1になっていて、誰でも解ける問題として、出題されている。ところが、これを「わからない」と言う子、あるいは間違う子がいるのである。私が、読み取りが、できないというのは、こういうことを指して言っている。ここは、私の言っていることを、事実を通して、知ってほしいと思ったので、あえて具体例をあげて説明した。
「わからない」の意味
 事実を感知するセンサーが、機能していない。 つまり問題の言葉が、事実で、裏付けられていないのである。事実を看過するとは、このことなのだろうと思う。言葉の意味するところを事実(この場合は、水槽に貯まっている水が、減り続けて遂には半分になる、こういうことを想像する)で裏付けていく。これが文章の意味が「わかる」ということである。「わからない」という子どもたちには、丹念に事実で裏を取りながら読む、読み進めていくという態度が見事に欠落しているのである。
 こう見ていくと、あることに気がつかないだろうか。「裏を取る」思考というのが、「わかる」ということだとすると、竹の会で、割合の思考訓練で、使っているミクロマクロ法も、二重思考という意味では、共通している。ここで連想するのは、B/S、つまりバランスシート(貸借対照表)である。事実を入と出とから見る、というのは、会計学が先駆である。この基底には、「裏を取る」という思想が流れている。「わかる」というのは、「裏を取る」ということにほかならない。「わかる」とは、事実のウラをとることである。
 「わかる」というのは、証しがある、ということである。問題を考える、問題を解くとは、証しを取ることにほかならない。途中遭遇する数々の障害の一つ一つに証しを取りながら、消去していく、そうなのである。根拠を示すということは、消去することにほかならない。そして消去というのは、取りも直さず、思考の最高技術の一つであり、思考をシンプルにするための最強の技術でもあるのである。

 さて、文章を意味ある内容として、読み取ることができない、ということが、子どもたちの脳を覆い尽くす膜とすれば、この膜を取り除くことが、わたしの仕事ということになる。
 文字は読めてもその意味を事実として悟らず、あるいは誤解したままで正しい事実を悟ることはない。これは実に由々しきことであり、もし塞がる膜が、DNA由来のものならば、取り除くことそのものがありえないことであるから、わたしにできるのは、子どもたちが未熟ゆえに幼きゆえに覆い被さる膜を取り除くことだけである。そうなのである。わたしは、子どものもともとのまだ発現しない、潜在する知能にかけているだけなのである。
 指導とは、そういうものであり、指導が効果を発揮するのは、子どもに潜在する能力がある限りにおいてである。
 つまり指導とは、子どもに潜在する能力を信じて、その覆い被さる膜を取り除いていく、ことにほかならない。だから、考えるとは、子どもにとっては、思考の妨げとなる膜をどうするか、の問題であり、子どもが、自らその遺伝子的な力によって取り払うのが理想であるけれど、常に自然分娩ができる子ばかりではないのと同じように、手助けすることが命を助けることもあるのである。ここに指導の意味がある。指導とはそういうものである。決して指導が万能ではないことは織り込み済みのことなのである。

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