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来年の受検(都立中)、受験(高校入試)に向けて、のお願い

2019.02.19

  今日は、曇天の言葉がよく似合う。午後からは雨の予報です。子どもたちの発熱、頭痛といった体調不良もようやく下火になってきたように思います。一気に2月も下旬に入らんとしており、この寒>暖の時期もやがて3月に入ると寒<暖と徐々にシフトを変えていくのかと今から胸をわくわくさせております。桜舞い散る季節ももうすぐです。また今年も春がやってくる。3月に入り、心から喜べる春ならこんなうれしいことはない。ただ今はまだその時期ではない。じっと耐える時期ですね。

来年の受検(都立中)、受験(高校入試)に向けて、のお願い

 3月より、受検、受験に向けた、新指導を開始します。受検本番まで、1月を勘定に入れないで、正味10か月しかありません。高校入試は、11か月あります。都立中受検は、正直1日も無駄にしてほしくありません。掲示板の残酷を知るならば、あなたたちは、これからの10か月、習い事、稽古事、スポーツ、家庭行事、旅行、など1日を意味なく潰す行動は決して取ってはならない。
 平日の勉強時間は、最低5時間、休日は10時間、をと望んでおります。
 それから小6の夏休み前まで、習い事、稽古事を続ける、発表会、昇段試験と、その事前から時間を浪費する、そういうことをやっていた子の話が後から耳に入ってきますが、決まって、そういう子たちが、課題を全く出さなかったことと符合してまして、さもあらん、掲示板を甘く見ていた、と思ったものです。
 わたしが、習い事、稽古事、旅行などに消極的なので、こっそりとやられる方がいる。それはわたしも、薄々は承知しております。しかし、敢えてそのことを言うこともない。危険は自分が負担するということですから。しかし、わたしの知る限り、例外は、もちろんありましたが、危険が現実になった子の方が圧倒的に多い。特に、それがために課題を出さないようになった子たちの不合格率は、100%です。
 「遅れる」、「遅い」は、受検、受験失敗の確実な予兆です。わたしは、なにやかやと、かまけて、勉強時間の絶対量が、足りなくなった子たちの、失速する姿を何度も見てきました。すべて甘い見通し、楽観視が、招いた結果です。
 基本、知っててもわたしはなにも言いませんよ。日曜日、遅れてくる小6がいて、周りの子に聞いたら、やめてたはずの稽古事に通っていたらしい。でもわたしはなにも聞かないし、言いもしませんよ。そのうち失速して、受検前は、ため息ばかりついてた。わたしには、落ちる方へなぜ力を分散するのか、わからない。しかし、落ちる子というのは、何かに導かれるように、そういう負の力に引き込まれていくような実感を持っております。
 さて、この2月は、発表までの期間、なんとも言えない思いで、健気に頑張ってきた子どもたちのこと、それに対してわたしのやってきたことの反省ばかりに苛まれて精神的にはかなりきつかった。発表後、いろいろ考えることも多く、いや正直頭がボーッとして、空っぽだったというのが本当だったかもしれない。しかし、そういう期間がわたしには次の受検、受験の、フィードバック、反芻の期間として、糧になっている、そういう自覚はあります。

 次の受検、受験をどうするか、どう指導を組み立てるか、どうレジュメを打つか、そういうことを考える。何も考えないことが、そういう新たな未来への閃きを生む。新たなるレジュメを構想する契機にもなっている。さぁー、これから何を書こうか、わたには、そんな気持ちになることが、とても大切です。
 今年は、受検は、3月開始としました。例年2月に、「推論シリーズ」を使って、指導を起こしてきましたが、まず、最初に打つレジュメを変更しようと思い立ったのです。掲示板の姿勢と対峙した結果です。それからまだ今年の過去問をじっくりとは読んでいないので、(みくに出版から銀本が出たら、一気に読み解くこうとは思っていますが、)読めばまた具体的なものも見えてくると思います。そこからわたしなりの新しいアイデアをレジュメに託する、これも例年の通りです。
掲示板の目
 わたしの発言は、あげて掲示板目線からのものだと思います。毎年掲示板の前に立つ。子どもたちの番号が「ない」ことほど切ないものはない。「ない」ものはない。いくら目を凝らしてもない。目を皿のようにして見てもない。何かの間違いでは、もしかしたら、だれかが「間違いでした」と新しい掲示板を運んでくるのでは、そんな妄想が頭をめぐり、またじっと見る。そしてやっぱり「ない」と観念する。去る。トボトボと去る。子どもたちのことを思うと胸が張り裂けそうで、悔しさとどうしようもない悲しみが深奥からこみ上げてくる。それが憤りになって、また悲しみに変わる。
 竹の会の子どもたちは、みんないい子だった。わたしの言いつけをよく守って頑張ってくれた。だからみんな受かってほしいと願っていた。しかし、わたしは、掲示板の冷酷さを毎年肌身で受けてきた。だからわたしの甘い感傷など、意味のないことを知っている。通用するのは、わたしの客観的な「事実」の積み重ねだけ。掲示板は、「事実」をのみ、「事実」だけで、判断する、判定する。だからわたしはあなたたちが実行したという「事実」だけからあなたたちを冷静に評価しなければならない。わたしは掲示板の意向にしたがって行動、判断するしかない。レジュメができたのかどうか、合格はんこをどのくらい取れていたのか、課題をどこまできちんとやれていたのか、課題をこなす量はどのくらいだったのか、出す頻度はどのくらいか。わたしがもっとも信頼できること、掲示板に直結していると確信を持てること、それは、わたしが、把握した「事実」のみ。わたしは、事実しか信用しない。
「遅い」という事実、「時間がかかる」という事実、「解けない」という事実、わたしはすべて「事実」だけから判断する。それが掲示板の目だから。
 翻って、指導という視点で、見るとして、やはり「事実」が指導の成否を規定する。
 部活で遅れる、部活で休む、レジュメを提出しないままに帰ることが多くなる、レジュメの提出がほとんどない、指導時間中よく寝る、指導中勉強している時間が少ない、こういうのは、わかりやすい事実です。
 わたしは、掲示板の目から、いつもあなたたちを見ています。だから無為の事実から退塾した方がいい、と言っているだけなのです。わたしは、掲示板の「ない」という告知の、容赦のない、厳しさを知らしめられてきた人間です。
 わたしの指示は、掲示板の指示です。わたしの指示が実行できないのなら、早めに諦めて、他塾に行って自分の信念に従ってやればいいし、また習い事や稽古事、スポーツを謳歌する人生を楽しめばいいのです。ただ受検したい、合格したい、と竹の会の門を叩いたのなら、竹の会は、掲示板の目であなたたちに艱難辛苦を求めることになる。それが嫌ならあなたたちはいつでも止める自由はあるのだから、竹の会に、いる必要などないのです。
 わたしは、もうあなたたちが掲示板の前で泣く姿を見たくないのです。幼いあなたたちの心にはどんなにか、辛い衝撃的なことか、わたしによくわかります。そういう悲しい姿を見たくないのです。だから、事実が掲示板の目から「ノー」と言っているなら、もう受検は、受験は、して欲しくない、別の人生を楽しんでほしい、そう思わずにはいられないのです。そんなに、習い事、稽古事、スポーツが好きならそれをやるのは自由です。当たり前です。ただ竹の会では、それは無理です。
 あなたたちが、掲示板の怖さを本当に知るのが、掲示板を見るときというのは、あまりにも愚かなことです。ここは、あなたたちの先人となる、わたしの目、掲示板の目に、素直に従ってほしい、あなたたちの目は、あなたたちの家庭の目は、決して掲示板の目ではないからです。

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