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東京の公立中高一貫校を受けるということ

2016.01.17

 おはようございます。朝8時半の気温は4℃でした。明日月曜日は荒れ模様の予報です。そろそろ冬が正体を現してきました。子どもたちが風邪をひかなければいいのですが、これからは予断を許しません。鳴りを潜めていたインフルエンザ・ウィルスもこの低温で息を吹き返すかもしれません。もっともウィルスは生物とは言えない、息などもちろんしてませんが。ミクロの世界で生物の粘膜にとりつき生体を使って自分をコピーするなどという、想像を絶する個体の殖やし方といい、その個体が生命体を攻撃し息の根を止めるという営みに何か合理的な根拠がありえるのか、考えれば考えるほどわからない。

 「わからない」と言えば、人間の「わからない」を治す方法などあるのか。わたしは「ない」と思う。そもそも「わかる」という営みは自らしかできない精神作用なのではなかろうか。それを他人が説明してわからせるなどということがそもそも可能なことなのか。「わからない」という子に説明するということには何をすべきで何をすべきでないか、という教育のありようが問われている気がしてならない。

 翻って考えてみれば、わたしたちは病気を治そうとするけれど、そもそも病気は治すべきものなのか、ということである。医者は果たしてほんとうに病気を治したのだろうか。医者からもらう薬は果たしてほんとうに病気を治しているのか、わたしは根本を疑っている。病気というのは、実は、もともと本人の治す力でしか治癒しえないものなのではないか、そういう疑問が湧いてくる。

 わたしたちは薬を信じて薬を欲しがるけれどほんとうに薬は必要だったのだろうか、いつも思うことである。現代人はあまりにも薬を過信した人たちなのではないか。悪くもないのにやたら薬をのむ人々がいるけれど、自ら末期を早めて死に突き進んでいるようにしか見えない、のはわたしだけだろうか。裸の王様を裸だと言えないのが現代人。それは心を支配する鞏固なイデオロギーのせい。

 「わからない」という病に薬はないし、効かない。自ら治癒できなれば治癒の方法は決してない。

 東京の公立中高一貫校を受けるということは、受検倍率が8倍、時には10倍を超えることを考えれば、塾に行けば「受かる」と単純に考えることがおかしいとどうして悟らないのか。

 ほとんどが落ちる試験である。なのに合格すると思い込んでいる。1200人いたら10倍なら、120人受かって、1080人落ちる。どう考えたって「落ちる」ほうが普通である。なのにどうして自分の子は受かると信じて大手に高いカネを払って通わせるのだろうか。1200人みんなが自分は受かると思っている。そのへんから東京の公立中高一貫校を受けるという親子の心理は異常である。

 また大手が「合格しました」と出す、あの数字はいったい何なのか。大手の合格者数を単純に足し算すると公立中高一貫校の定員の何倍も合格していることになるでしょ。各予備校がそれぞれに自分のところの解説講座付き模試、冬期や夏期の講習を受けた子たちをもカウントすればとにかくも自分の塾から合格したと言う、合格者はたちまち水増しになる。しかし、世の親たちは実に単純に、大手イコール大量合格という方程式を超文系的思考で短絡して疑わない。

 しかし、東京の公立中高一貫校はたとえ塾に行ったところで合格者の8倍、10倍の数の子どもたちはみな落ちるという現実は一向に変わらない。

 ここはしっかりと見極めなければならないところである。病気が治癒するのは自分の治癒力であり、決して対症療法に根拠するクスリの力ではない。本来人間に備わった自然回復力こそが治癒の本質なのであるということ、したがって自己治癒力のない人間は、病で死ぬしかないというのが自然の摂理であったのだということを真摯にうけとめなければなるまい。

 人間の脳のはたらきだって同じことであろう。「わからない」という子が、対症療法的な説明でわかるはずはないのである。いや「わかる」というのは、みずから問題にあたって解決することが正常だとすればそういう形にになりえない「わかる」の形などないのである。他人に教えてもらって「わかった」と言う子がいつまでたっても永久に自ら問題を解決できないのはどうしてなのか、答えはすでに出ていたのではないか。

 「わかる」という現象は、自ら「わかる」という自然治癒に等しい回復と同じようなことが脳の中でなされたにほかならない。ただ子どもが言葉で「わかった」というのが、「わかる」なのではではない。

 東京の公立中高一貫校を受ける、そして合格するということの中には、この「わかる」という自ら、本人しか解決できない、精神の葛藤を潜り抜けて、治癒するということの積み重ねしかありえない。竹の会は、わたしは、そう信じてきたし、これからも自らの信念にしたがって子どもたちを指導していくであろう。

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