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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

桜修館に入りたいならやるべきこと

2016.01.06

 おはようございます。気温は8℃、曇りです。今日は、冬期指導後半第4日目です。いよいよ明日一日を残すのみとなりました。

 昨日の指導で、「勝導」シリーズを終了しました。全18回シリーズでしたが、正直、できがよくない。冬は、灘中の過去問(過去30年)の中から良質の思考問題を探し出し、制作した「冬期用レジュメ」(毎回2題)を実施してきました。この正解率は壊滅的な状況です。作文は、昨日も、2回実施しました。「解き直し」の時間がないということを訴える小6が、多いのですけれど、それならあれだけ夏に時間があったのに、なぜやらなかったのか、と言いたい気持ちを抑えています。夏、まったりとしすぎではなかったのか、勉強を先延ばし、後回し、して、趣味やその他の習い事、稽古事、行事、様々なもっともな諸事を優先させてきた、そういうことなら、勉強の仕上がりがそれほどでもなかったことを悔やむこともない。それは当然の、想定の範囲内のことであったのだから。

 塾は不可能を可能にできるところではない。塾に何を期待するのか。世の中には、おめでたい母親、父親がたくさんいて、子どもたちを、教育すればものになったかもしれない子どもたちを将来使いものにならない人間にしてしまう、そういうことを無意識的にやってしまっている、自分の子にいい未来をとの思いとは裏腹に千尋の谷底へ落とし込むようなことをやっている。

 塾に根拠はない。いい加減なところだと思っていてちょうどいいのである。公立中高一貫校を受検するというので、小4の時から、塾に通わせる、それは結構なことです。そこで算数やら国語やら、理科、社会までも勉強させる、それも結構なことです。公立中高一貫校の対策もやってくれるというので、お願いする、いやそれも先を見越しての判断でなかなか先見性のある行動かと思われます。

 さて、ところで、それなら塾はいかなる根拠をもって、「教える」ということをしてきたのか、またこれからもやるのか。巷の塾の公立中高一貫校対策とはいったいどのようなものなのか。もしその巷の塾が、中学受験もやり、高校受験もやっている、そういう塾ならどうであろうか。個人塾か、人、たいていは学生を雇ってやる塾ならどうか。そもそも大手なら大丈夫なのか。

 そのやっている公立中高一貫校対策の内容なるものは、問題集を解かせるだけ、でしょ。もちろん授業はやるかもしれない。塾の商売としては、問題集を使って授業する、それがやれることのすべてです。そういう塾にいったい、なんの根拠が、見通しが、保証が、あるというのでしょうか。塾とは、そんないい加減なものです。

 そもそも「教える」ということの愚、なんでもかんでも説明してしまうという、無節操が親切と思い違いした塾と親のアホのコラボ、解説ばかりを読んで「わかった」つもりになって嬉々と過ごす日々の無駄、大手なら「易しい」問題、テキスト、テストで虚構の「自信をつけさせて」つなぎ止める詐欺、それに全く気づかないアホな親たち、まあ、そういうことが世の中では罷り通っているわけです。

 わたしの意見をわざわざ面談にやってきて「独善的な意見についてどうお考えですか」と意見を求めてきた人がいましたけど、確かに、未だに、この人は何しにやってきたのか、わからない。そもそも独善的というのは、客観性の欠如ということであろうが、わたしの言うことが本当に客観性がないと断言できるのか。わたしは、毎年毎年自分の判断、行動を合否の結果で試されている。毎年掲示板の前に立ち、厳しい宣告を受けている。わたしの意見の背景には常にそういう厳しい現実に対する、過酷なまでのリアルがある。わたしはだから厳しいことを言うし、その自分の言ってきたことに責任を持つために、指導を極める、あらゆる努力、献身を惜しまなかった。そういう自負がある。過去、数学を極めるため、英語を極めるため、国語を極めるため、算数を極めるため、理科、社会の限界を見極めるために、努力を惜しんだことはない。毎日、朝目覚めたときから、寝るまでそれはそれは時間を忘れて没頭し、取り組んできた。わたしの意見はそういう中から自然発生的にわき起こった、怒りであり、悲しみであり、喜びであった。

 だからわたしには、根拠がある。指導とは根拠を言っている。小5の1年を、小6の1年を、くだらない問題集を解かせて、解説する授業を受けて、それで公立中高一貫校対策になっている、と考えるようなおめでたい、塾の先生、そして親たちには、わたしからなにも言うことはない。どうか勝手にやってください。

 子どもこそ可哀想である。今年の年賀状にある卒業生のお母さんからのがありました。

  「息子は、竹の会で、培った宝を武器にして、粘り強く、勉強も頑張っております。有り難うございます。お陰様で自分で考えて考えて勉強する力が備わりました。先生のおっしゃる通り、小学高学年頃に、考える訓練は大切なんですね。(息子のことを)とても楽しみにしております。」

 独善でしょうか。いやわたしの主張がです。

 小5の1年間は思考を作り、練ること、これに尽きます。適性対策なんて糞食らえです。言葉が汚くて済みません。塾でも子どもたちに叱られています。

 桜修館対策、そんな特別なものはないでしょ。世間には、桜修館が特別だと決めつけて、そこを商機にするような塾が溢れていますが、ばからしいたら、ありゃしない。なにが特別なもんか。作文が特別という人がいるけれど、他の都立中の作文と比べてこれだけ点の取りやすい作文の出し方があろうか。読解のなにも試されていないのですよ。ただ唐突にテーマについて書け、ですからね。いくらでも書きようがあるでしょ。わたしなら50問ほど作文の問題を作って、作文の要領を覚えさせる、それだけですよ。なにを大層に大騒ぎして、塾も、親も騒いでいるのか、わからない。アホでしょ。

 桜修館の適性対策? これは思考を鍛える、これに尽きるでしょ。

 だから、結局、思考を鍛える、にいきつくのです。

 いいですか。それなら、そのためなら、勉強を犠牲にする行動を取ってはならない、ということです。夏休みに家族旅行なんい呑気なことをやってるから、落ちるんです。23年小石川合格者は毎朝1時間、いろいろと勉強していた。そうです。心がけが違うのです。これから将来、高校受験、大学受験と選別されていく、難関国家試験だって受けるかもしれない。日本の社会は、試験を勝ち抜いてきた者が、いい生活ができるようにできている。これも独善ですか? わたしはこれから子どもたちが試練、特に、試験を勝ち抜いていくには、お仕着せの、まったりした塾、大手塾も個人塾も同じです、に放り込むことが致命的な過ちを犯していることになる、と警告しているのです。これも独善ですか?

 特別なことは何もない。ただひたすら、常に、勉強を最優先事項としてやっていくこと、これが成功の論理です。

 桜修館対策に特別なものはなにもない。はい、もちろん独善です。しかし、わたの主張は、毎年、死刑宣告に等しい合否の結果にさらされてきた結果の意見です。これを客観性なし、根拠なしと言い切れますか。

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