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桜修館・九段への道/最低でも都立戸山/新小4を求む/うちの子は作文ができない/勘違い親子の勘違い受験勉強/竹の会はネットで有名?

2016.04.26

 おはようございます。朝から明日の指導の準備に追われていましたが、まだまだ終わりそうにもないのでとりあえずブログを更新することにしました。

 明日の指導の準備というのがけっこう大変なんです。たとえば小5の○○君、そろそろ「算数の魁(塊)」を終わりそうということで、次のレジュメを準備しなければならない。「小学思考の素~割合問題編」というレジュメ集ですけど、このレジュメ集は、元となる「小学思考の素」から、割合問題だけを抽出して、まとめたもので、1冊用意するのに、かなり手間のかかる仕事なんです。○○君は新小5ですが、実は、新小6には、これにまだ入れていない子たちがいます。この子たちも「やる」ということにしましたが、「合格はんこ」取りながら進めるのでなくては、力はついていかない。ただ今年白鷗と富士に合格した子は、ほとんど「合格はんこ」なしでした。だからだめというのは言い過ぎですね。竹の会に来る前に、大手で1年以上いた子なんかは、竹の会で小5の1年間を「合格はんこ」基調で進めた子には天文学的な差がありますけど、これはもうしかたない。これからどこまで力をつけられるか、前向きに取り組むしかない。実は、課題レジュメの添削は昨日のうちに終わらせてある。課題レジュメは添削して次回の課題レジュメを添付して次の指導日に返却します。親御さんや本人から時にリクエストがある。もちろんレジュメですけど。そういうものも用意する。子どもの理解の状況を見ながら、新作を書くこともよくある。今、書かなければと思っているのは、「小数入門」ですか。これは今日時間があれば書きたいけど、たぶん土曜日になりそう。新作の単語テストとか、数学計算テストとか、教養のための理科とか、小学生のための面積レジュメとか、授業補充用理科社会レジュメ(これはノート提出した中学生対象)などいろいろと用意するものが多種多様で今日は一日かかるかな。

 親御さんからいろいろ相談を受けることが多いですけど、子どもたちから相談されることもよくあります。25年に小石川に合格した女子は、24年の秋、なかなか成績が伸びない、どうしたらいいのか、と相談されたことがありましたが、話している間に感極まったのか、涙を流し泣き出しました。わたしは、あのときは、「解き直しが7回回ってないのでしょ。もう少し待ちましょう」みたいなことを言ったのだと思う。そうしたら気が軽くなったのか、笑ってくれた。1か月後、早稲田進学会の模試で上位に名前が載ったといってうれしそうに報告してきましたね。「イオンがわからない」と悩みを持ち込んできたり、まあ、いろいろ相談はされますけど、その都度、いい答えを探してわたしも悩んでいます。わたしの答えで子どもたちに笑顔が戻るのがうれしいですね。

 先日、親御さんのメールで、お友達のお母様が、竹の会を知っていた、ということが書かれてありまして、びっくりしました。ただ実はそういう話しは過去にも何度か耳にしていました。渋谷駅のそばに移転してきまして、竹の会には、渋谷区外の区から通われる子がほとんどになりました。地元の渋谷区よりも他の区の方が「知っている」というのも奇異な感じですが、27年に戸山に合格した生徒、わたしは「コナ」、「コナ」と呼んでいるのですけど、彼によりますと、竹の会は、ネットでは有名なのだ、そうです。よくわかりませんけど笑うしかないですね。

 話しは、変わりますけど、竹の会には、戸山合格の道筋というのは、できています。戸山と言いながら、実は、西を念頭に置いた指導をしています。だから最低でも戸山です。新中1のみなさんは、数学、英語で今は鍛え抜いている感じですが、英語はできてあたりまえです。だから単語が覚えられないというのは相当まずい。かけるべきは英語でしょ。数学がなかなかできないという子もいますけど、わたしには、将来この子は、西に行けるのかどうか、戸山なら行けそうか、駒場ならなんとかなるか、とか、そういうことが見えてくるわけです。都立駒場というのは、女子ではかなりの人気です。共通問題校では、駒場と小山台がいちばん難しい。推薦だとオール5の優等生ばかりです。23区では、日比谷>西>戸山>青山>新宿 という独自問題校の序列がある。共通問題校では、駒場、小山台でしょ。こういうところに入るのはそれなりに難しい。これはもう中1の今から勉強一筋の覚悟が必要でしょうね。

 「うちの子は作文が苦手で」という言葉は、複数のお母さんたちから何度となく耳にしてきた。作文というのは、適性試験の中でも、独立して配点されるほどに比重が高い。これで合格したという子が意外といる。だからとても軽視なんかできない。

 ただだからといって、大手などのやっている、あるいはどこかの国語専門を謳っている塾なんかで、「作文教室」なんか、受けて見てもたいていは意味がない。そのことは受けて見てわかったはずである。そもそも作文の書き方みたいな形式的な作法を教わってどうにかなると考えているのがおかしいでしょ。作文がダメなのは男の子に多いようですが、必ずしもそうではなく女子もけっこういた。修正できないほどに性格的に固執した文章癖というものがある子がなかなかその殻を破れないということが多い。男子だとミミズが這ったような字を書く子がいて、訊いてみるとたいてい公文をやっていた子である。読めない字、読みづらい字は明らかに損だが、きれいな字を書いても、内容空っぽの文章だとその落差に幻滅する。

 そもそも形式的な手順みたいなもの、文章の定型句、公式みたいなものを習って、作文がうまくなるのか、巧く書けるようになるのか、親は単純にそう考えているのかもしれないけど、そんな甘くはないでしょ。それよりも新聞読んだり、いろいろ本を読んだりして、知識というか、教養を広げて、ものの見方というものを磨くほうが余程増しでしょ。

 竹の会では、入門レベルの作文問題とか、いろいろ「書かせて」いるけれど、今は、いろいろな社会問題というものに目を向けて、なにがなぜ問題になっているのか、ということを学ぶことに努めてほしい。作文の書き方なんか習っても意味がない。竹の会で出している「教養」シリーズというのも、とにかく社会的視点というものを知ってもらうために出している。作文課題にもいろいろと資料をつけている。何も知らない、何も困っていない、頭の中だけで、机上の空論ばかりで、差し迫ったものがない、それじゃー、作文は書けないでしょ。

 作文というのは、論理的な考え方というものが、問われているんでしょ。自分の考えをきちんと筋道立てて、根拠を示しながら、述べられるか、それが試されているのです。論理的な思考もないのに、幼稚な、幼いままの頭で、作文教室なんかに通って、いったい何をどうしようというのでしょうか。

 よく作文教室で教えるのが、「・・・、確かに、・・・だ。しかし、・・・」という型にはめて文章を書く練習ですね。

 これって、論理的かどうか、なんですよね。確かに、この書き方は、論理的文章の型ではある。でもなんでもかんでもこの型にあてはめて書いている子がいたけれどアホかいな。親は先のことを心配して、余計なことばかりしていまう。わたしなんかに言わせれば、公文に通わせて、取り返しのつかない悪字を身につけさせる、これなんかみな親のやったことですよね。大手に行かせてバカにするのと似ています。ただ大手は2千人も3千人も集めているわけで、トップ層には、天才がいる、これも間違いないところでしょ。そういう天才を見て、自分の子もと思うのは違うでしょ。まず自分の子の器を正味の器を見なさい、ということです。わたしは大手にはバカばかりいる、といいますけど、トップ層は天才でしょ。わたしが批判しているのは、本来伸びていくはずの子の芽を摘むことです。竹の会も入会試験で切っている。それはある一定の水準以上の子でなければ指導は無理と正直に表明しているのです。大手のようにバカも賢い子も天才もとにかく集めて、天才はもともと放っておいても天才のままですからいいのですけど、賢い子(学校の優等生)を本物のバカにしてしまうのがありえないと言っているのです。バカもバカのままです。竹の会では、賢い子は賢いままです。バカにはなりません。多くの親たちが軽い気持ちで公文に入れて、一生かけても直せないような汚い、悪字を身につけさせる、それと同じことを大手に入れてやっている、と言っているのです。

 作文なんて論理的な思考力がつけば簡単です。まず、問題を見つけて問題点を提起する。次に、その問題点がなぜ問題なのかについて、書けばいい。自分の意見なんか、たかが小学生に書けるはずもない、だから出す方も期待なんかしていない。なんて書いてもいいのです。要は、採点の要は、作文の論理性なんです。

 下らない作文教室に通うなら、竹の会で思考訓練していたほうがよっぽどいい。

●勘違い親子の勘違い受験勉強

 そもそも勉強というもののとらえかたが勘違いなんですよね。習い事、稽古事、スポーツと自分の子どもをどれだけ多才に育てあげたいのでしょうか。昨今はやたら習わせる親ばかりですよね。子どももそれなりに「できる」、いや「できる」と思い込んでいる、確かに、いろいろ級とか段とか取ってこなすから、そして周りもお追従半分でおだてるから、調子に乗る。「よくできるわね」と誉められて、いつも虚栄心は満たされているわけです。こういう子はいつも誉められて育ってきたので、挫折を知らない、というか、挫折とか、決定的な場面、そういうシチュエーション、そういうところに自分が置かれるのを極力懼れる、避けようとする。つまり、自分がそれほど、まわりで思われているほど、できない、頭がよくない、ということを実は知っているわけなんです。だから、そういう能力の白黒がつけられる場面を極力嫌うわけです。だから勉強しててもどうも気もそぞろなわけです。これは傍から見ているととても勉強しているというふうには見えないわけです。勉強なんかも「避ける」傾向が強い。避ける方向のことばかりやっている。つまり、後で失敗したときの保険をせっせとかけている。失敗したときの言い訳を作っているわけです。これこれのことをやっていたら落ちた、もし勉強だけやっていたら受かってた、こう言ってもらいたいわけです。これは見方によってはなかなか図太い生命力とも言えなくもない。ただこういう子が成功することはほとんどない。いつになっても周りの自分より劣る子を取り巻きにして、優越感をえさに生きていく、そういう生き方しかできない。

 習い事、稽古事をやっている子というのは、どうも勉強と素直に付き合うことのできない傾向があるようです。 

 

◎竹の会では、新小4を求めています。

 残り少なくなった渋谷Aの枠を新小4のために空けておきたいと思っています。

 新小4の逸材をじっくりと育てていきたい、わたしの正直な気持ちです。小数の考え方をわたしなりに工夫してみたい、小数と分数についても、じっくりと学ばせていきた、分数から「割合」への橋渡しをしてみたい、わたしの夢は広がるばかりです。小4には、天声人語はもちろん難しい。今の小5もそうですが、小6も、いや中1でさえも、天声人語を正確に読みとれていない、それが実態ですね。

 さて、小4にはどのように国語を学ばせましょうか。漢検は当然やるべきですよね。その上で、やはり国語という世界の言葉について、学ばせることがいいのかと思っています。

 実は、数学には、記号言語があるように、算数だって、割合言語というのがあると思うんです。「元にする量」とか、「比べられる量」とか、これが割合言語です。こういう言語を使って考えるのが算数、割合なわけです。ところが、算数がわからないという子は、こういう言語を知らない、というか使おうとしない、言葉そのものがない、いつも日常のことばで考える。だからできないんです。語学なんか、そもそもが言語なわけですけど、例えば、英語で言えば、主語とか、動詞とか、目的語とか、補語とか、5文型とか、そういうのが英語言語です。

 理科だって理科言語がある。公転とか、自転とか、イオンとか、・・だから、わたしたちは、ある科目を勉強するときは、まずその科目の言語で語れるようになること、考えることが大切なんです。

 これは勉強一般について言えることなんです。それぞれの専門にはそれぞれの言語ある。だからわたしたちは、まず言語から学ばなければならない。

 さて、そういうわけで、国語の言語は何かな。主語とか、述語とか、接続詞とか、本来の言葉以外の諸々ですよね。

 

 

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