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小石川中等研究塾/都立戸山、青山標準合格塾/「本物の塾とは」(再掲)/お知らせ

2019.08.10

令和元年八月十日 土 晴れ

 

 

第十二章 本物の塾とは

 竹の会の出身者は、30有余年の間に夥しい数に達したと思う。その全ての卒業生はもちろん実はほとんど忘れている。名前はもちろん顔を思い出すのも苦労する。竹の会の一期生は、昭和60年(1985)10月、中2(13歳)だから、47歳、48歳になっているはずである。流石に、一期生の顔は覚えている。名前はかなり怪しくなってきた。あの頃は、夢中で授業していた。教材は教科書、市販の問題集といったお粗末なもの、シンプルなだけに、授業に力を入れた。その授業が、「わかりやすい」と評判になった。「近くに、熱心な塾の先生がいる」と問い合わせてくる親たちからの電話が絶えなかった。
 わたしもまだ若くて、わかりやすく教えることを価値としていた。子どもたちの「わからない」に応えていった。ところが、意に反する結果を経験した。それこそ丁寧に授業を重ねて、子どもたちは、「わかった」と言っていたのに、なんと定期試験の結果は惨憺たるものであった。ところが、何かの事情から、手が回らず、教えられないままに、とにかく自分で、取り組ませた、考えさせた、ことがあって、わたしもあまり期待していなかったのだが、その時は、子どもたちが、喜びながら、やってきて、嬉しそうに結果報告してきたのですが、軒並みいい成績を取り、何もしなかったわたしを驚かせました。

 一期生が、中3になると、わたしは、不安から、過去問を使った指導に切り替えました。わたしの指導の原動力は、不安でした。何か危険センサーが働く、感知する、それで手を打つ、二重三重に手を打つ。この頃から、とにかく過去問を買い集めました。過去問を片っ端から解いていった。わたしには過去問しかない。だから過去問で入試の本丸に攻め込む。外堀を埋めて、内堀を埋めて、というような攻めとは違う。
 ただこれは高校入試についての話しである。中学受検では、自ずと異なる。中学受検では、小学生は、知能未分化からの始まりであり、初めて学ぶということを経験する。小数、分数、割合、と初めて学ぶことばかりである。まず、外堀から、埋めていくしか方法はない、のである。
 これに関係するが、竹の会では、例えば、小3から来ても、小4から来ても、始めることは変わらない。これは小5でも同じである。だから小3に来た子が、分数をマスターし、かなりの計算力を身につけ、割合の枠組みを理解している、ということは、竹の会では、ごく普通のことである。だから、小4に来た子が、小数で四苦八苦しているのに、小3からいた小4が、割合による思考力をさらに進化させている、こういうことが、普通にある。小5から来た子たちは、それまで大手にいたという子はそれまでの塾の酷さに怒り嘆き、竹の会にもっと早く来なかったことを後悔する。竹の会は早くから知っていたけど、大手を選んだ、という人ばかりである。しかし、これは無理のないことかもしれない。試しに、ネットで「渋谷 塾」と検索してみればいい。大手の塾がずらりと名を連ねる。塾のランクサイトがまたやたらあって、ここでも「いい塾」として、大手をこれでもか、というくらいに紹介している。まずこういうサイトで、竹の会が出てくることはない。大手が、ふんだんにカネ出して、サイトのランクを独占しているとしか思えない。こういうランク表を見て、塾を選ぶのが、世間の親たちの頭の構造なのか、と思う。そうなると竹の会が、こういう人たちと出会うことはほとんどない。たまに、大手に一年ほど通い、不安を持った親が、竹の会に迷いながらもやってきます。そしてたちまち、こんな素晴らしい塾とは知らなかった、と竹の会の信奉者に転じるのです。こういう人ならもう何人もいました。竹の会にそういう形でしか出会わないのはとても残念なことです。竹の会しかないと竹の会を目指してくる人、そういう人も少ないがいました。平成27年桜修館合格の女子はそうでした。竹の会の入会試験に落ちたら受検は止めるという決意でした。そういう人は入ってからも熱心度が違います。決して竹の会を休まない。竹の会を休む理由は病気以外には決してなかったのです。竹の会絶対の人たちでした。そういう人が受かった。人並みに生活を楽しむ一家が受かることはない、なかったのです。
 わたしは、ただ受かるセンサーを働かせて忠告してただけなのです。これでは受からない、わたしのセンサーがそう語るのです。直感的に、あっ、だめだ、これは、とわかるのです。お盆に、遠くの実家へ家族で帰省する、一週間ほど滞在する、移動は車で、そういう話しを耳にしますと、これはだめかなと思う。案の定、勉強は遅れ気味で、失速していきます。積み残したレジュメの量、結局やりきれなかったレジュメが、負の遺産として、有形無形の陰が心を覆います。ふと思い返せば、そういう子は、竹の会に入っても、習い事、稽古事だけは、やめなかった。竹の会の入会時期を遅らせる、よくあるのは、今やっている習い事、稽古事のキリがつくまで、終わったら専念したい。こういう子は実はがんばらない、ことになっている。そもそも「頑張る」という言葉を使う子は頑張らない。「頑張る」というお呪いは、今、頑張ってないから、言いたくなるのであり、今頑張らない子はこれから先もやっぱり頑張らない。「帰省先で勉強する」という言葉も、今、勉強していない、そしてこれからも勉強しない、裏返しの言葉である。
 東京の皆さんは、実は、塾というものの真実をわかっておられない。自分の子が、自分のDNAを引き継いだ優秀な子なら問題はありません。そういう子なら自分の力で未来を切り開いていくでしょう。しかし、大半の子どもは、そうではない。わたしの経験では、学校の優等生、つまり「よくできる」が、8割以上ある子でも、大手では、落ちこぼれるか、失速する可能性が、強い。進学大手塾なら、まずついていけない。都立中高一貫大手なら、伸び悩み、失速する。その原因は、また詳論する機会があればその機会に譲りたい。少し言えば、後者の場合、過去問類似の問題をやるだけの大手のやり方が、せっかくの逸材を殺すことになる、ということだと思う。前者の場合は、ハイレベルな教材についていけない、というだけのことである。
 大手進学塾は、能力は前提である。テキストは読んで理解できなければ、そこまでの能力はない、ということである。授業がわからなければ、それだけの能力がないということである。後で質問するとか、その質問が講師に時間がなくてできないとか、それで落ちこぼれていくなら、そんなレベルなら、無理である。ノートも取れないほど自堕落な字を書く子が、ノーマルとは思えない。こういう子も落ちていく。
 だいたい「人気塾ランク」などという捏造が、罷り通り、またそれをそのまま信じるおめでたい親や子が、塾をこういうものと思いこんで、塾に通う、全くおめでたい話しである。
 あなたたちの頭にある塾とはいったいどのようなものなのでしょうか。
 先生、講師、授業、テキスト、黒板、教室、そういったイメージでしょうか。何かを習う、教えてもらう、予習、復習、夏期講習、冬期講習、特別講座、テキスト代、塾のイメージはあなたたちの頭の中では固定されたものなのではないでしょうか。大手には学生講師、個人塾には様々なタイプの先生、それは様々ですが、塾一般のやっていることはそんなに差はないのではないでしょうか。
 わたしはそうした塾の中にはどれくらい本物の塾があるのだろうか、と疑っています。ネットの人気塾ランクサイトなどで本物の塾が、見つかるとはとても思えません。サイトにカネを出さないで、上位にあることなどあるはずがない。そんなまやかしに乗って塾を選ぶあなた方はその程度の人だから、別に騙されてもいいのです。
 竹の会は、既存の全てと無関係です。一銭のカネも出さない、あたりまえです。竹の会は、東京の渋谷の駅から徒歩十分のところに、ひっそりと塾を営んでおります。何の広告も出しません。だってそんな余裕はありませんから。わたしにできるのは、竹の会の存在を「草枕」を通じて東京の皆さんに訴えること、これだけです。竹の会の真価は、実際に竹の会に通われている皆さんが、判断することです。
 本物とは何か。いいですか。子どもたちをはっきりとできるように導く塾です。小数の計算ができないままに、テキストを先に進める塾にどうしてあなたたちは子どもを預ける気になるのですか。塾というのは、繋がっている、一つ一つのテーマを取り上げ、確実にマスターしたのを見届けてから次へ進める、これがあたりまえの仕事です。大手が、天才に基準をおいて、わからない者が8割いても、2割の天才のために先を急ぐ。難関校に合格するための、天才のために作られたカリキュラムなのに、その他大勢もなぜかその予定に合わせる、不思議な話しです。わからなくても、天才が理解できることは、凡人の子たちも理解しなければならないという、奇妙な呪文にかけられて、補習塾、家庭教師、個人指導塾などを掛け持ちする。なんとも愚かしい光景です。こんなところには塾の本物を見ることなどできません。
 都立中高一貫型大手塾だって、本物などではない。ここでももともと頭のいい子が、受かっているという事実は変わらない。栄光や大原、エナなどの塾が、平成17年あたりから手探りで、始めたのは、過去問に似せた問題を作り、それを練習させること、だった。大原などは、小石川コースなどと学校名をつけて対策をとると謳いあげたが、結局過去問類似問題を練習させるだけのことであった。こうした大手が、計算や割合といった、基礎段階の訓練を端折り、いつ、つまり小6から入塾しても、対応できるとする態度は、偽善であろう。小6には、分数もわからない子もたくさんいる。そういう子でも受かると言って、過去問類似問題を使って、授業を進める。こんなめちゃくちゃな話しはない。わたしが言いたいのは、そういう子の親たちです。わたしにはバカな親にしか見えない。
 あなたたちは、問わなけれならない。本物の塾とは?と。あなたたちの子どもの正味の能力を掛け値無しに見極めて、その上であなたたちの子どもの素の地頭に見合った塾を探してあげることである。それは決して大手ではない。またやたらの巷塾でもない。あなたたちは、はたと、そこで、考える。世の中に、そもそも本物の塾なんてあるのか、と。
 普通に考えたら、ないでしょうね。
 ただ探せば、熱心ない塾はあるかもしれない。ただ熱心な塾は、本物かどうかとは関係ない。
 本物の塾とは、子どもが、力がついていくことを実感していること、親が子どもが伸びていることを確かに実感していること、子どもが先生に心から心を許していること、親が先生の力量と人柄を信頼し切っていること、確かに、合格実績を出していること、確かに、子どもが伸びていること、これらの要件を全て満たしている塾が、本物の塾です。

 竹の会は、本物の塾でありたい。だから本物の塾になるために、必死に努力をしてきた。いつだったか、「竹の会は本物の塾でした」と言われてことがあった。いや何人かの親御さんから言われた。嬉しかった。わたしが、そうありたいといつも実践してきたから。多くのお母様方から、感謝のメール、手紙をいただいた。竹の会の記念日には、思いもかけず、花束をいただくことも、しばしばであった。わたしが思う以上に竹の会のことを思われている親御さんがいた。それが嬉しい。何が嬉しいって、わたしが竹の会を通して、わたしがやってきたことが、普段は何も言われないお母様方に花束で意思を示されたことが嬉しい。そう言えば、竹の会のお母様方というのは、普段は何も言わない。一年も二年もカスタマーサイレントのように何も言わない。何かのことでたまたまいただくこととなったメールには、いつも感謝の言葉で満ち溢れていて、こんなにも感謝されていたのかと、私を感動させる。
 わたしは、渋谷の片隅で、塾とは何か、本物の塾とは何か、を問い続けて、早34年の歳月が流れた。わたしの竹の会との別れが近いことに内心怯えながら、竹の会は、本物の塾になったのか、本物の塾に成り得たのか、問わないことはない。

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