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玉石混淆

2017.02.03

おはようございます。連日青空と太陽に恵まれて快適な朝を迎えることができることを感謝しております。江戸時代のお百姓さんがお天道様と言って崇めた心情はどのようなものであったのでしょうか。厳しいと云われる農作業をしたこともない身には想像するしかありません。それにしても低温はそのままで2月という厳寒の時期をなんとか切り抜けていきたいと日々を切々と営むばかりです。

 現小5の学力状況が思ったほどでないことに少々ショックを受けております。算数レジュメについての真剣度というものがそのまま反映されていたと思います。安易に答えを「知る」、解法を知識として「知る」程度にしか考えていないとすれば、真剣に考えるということに埋没してきた子との差は如実に表れてしかるべきものでしょう。勉強というものにどれだけ真摯に対してきたか、です。小5の中には、解きっぱなしで解き直しというものを見たことがない子もいますが、普段の真摯な勉強姿勢がそのまま現在の実力に反映しています。夏休みに最低7時間、理想は10時間の勉強を果たしたものがいるのかどうか、甚だ懐疑的です。優秀な子たちがそろっていた平成28年卒組の小6にして27年の夏に一日7時間を実行した者が僅か2名のみという、その2人が小石川と九段に受かったのですが、ひどい結果でした。

 竹の会で配布している四字熟語シリーズがありますが、その中に玉石混淆というのがあります。「淆」とは「乱れる」の意味です。「玉」というのは、美しい「石」を磨いたものです。そのような石として、白玉、翡翠、黄玉などがあります。この翡翠なら翡翠を磨くにも「石」を使います。

 石にも磨かれた石と原石のままの石がある、ということです。そしてどんな石でも磨けば当然に光るようにはなります。ただし、本物の光を発するようになるか否かは元の石次第です。ただの石を磨いても「玉」にはならないということです。面白いのは、玉、つまり玉石を磨くにも石を使った点です。つまり玉石を磨くには、ただの石、いや磨きに適した石がある、ということです。クラスの秀才が秀才たる所以は凡人たる多数の石があるゆえということです。もしクラスに、あるいは学校に、玉が2ついれば、そしてその玉の質に歴然とした差があれば、質において劣る玉は潰される、そういう運命にある。潰されるということは、ただの石になるということです。もしその2つの玉がいずれも劣らぬほどに優れたものであれば、その優れた玉2つが互いに磨き合い、それぞれに成功する可能性が大である。いわゆる好敵手、ライバルと云われるものである。詩経には、他山ノ石 モッテ玉を攻(みが)クベシ とある。よその山から出る粗悪な石でも自分の玉を磨く砥石として使うことができる、という意味です。悲しいことですが、その他大勢というのは、砥石に使われることになる。大手塾に集まった、夥しい数の、その他大勢組は、少数の天才組を磨くだけの存在になる可能性が強いということです。玉石混淆と云えば、玉と石との区別がつかない状態を云いますが、大手の中では、玉と石の区別は実はつけられている。偏差値とか、模擬試験でしっかりと大手は選別しています。だから大手というのは、石ころばかりなのは百も承知です。石は大手にとってはカネをとれる玉には違いない。つまりは、ここで問題にしている絶対的質としての玉ではなく、相対的な価値です。砥石も玉を磨くという価値のみに着眼すれば玉です。

 わたしは小石川(中等)とか、西、日比谷などは、玉のみが受検できる、のだと考えています。ところが、親バカと云いますか、世間の親の中には、自分の子は特別だ、と考える親というものが少なからずいるものです。その中には本当に天才ということももちろんあるでしょうが、仮に小3のときに「この子は天才だ」と思っても、その見通しが、小6まで、あるいは中学を通して、さらに高校期にまで維持できるかは甚だ心許ない。親バカがほんとうのバカに終わる公算大である。親バカが大バカになるということのほうが現実的ではないか。小学の段階で、玉でもないと判明したときも、親バカは健在で、石を玉にしようという親がいるものです。そのときにその石がほんとうに粗悪な石でなければどうかなるのか、ということですが、親バカはどうにかなる、やりかたでなんとか玉にする、と考えるのであろうけれど、なんとも悩ましい、結末のほぼ予測できる悲話なのではないか。

 「璧」という語があります。完璧の璧ですが、よく完壁と書く人がいます。もちろん誤字です。この「璧」という字は、玉をひらたく円形に磨き上げて中央に円孔をあけた、環形の玉、これを「璧」といいますが、それです。だから完璧というのは、完全無欠というのも意味が通るでしょ。壁では意味がわからん。

 我が子が、玉石なのか、ただの石なのか、はまた悩ましい話しではありますが、親としては、玉石であることを信じて、磨くことだけはしてあげたい。それで実は石だったということもあろうけれど、だからといって磨かぬわけにはまいるまい。ただ石も様々で、今流行の言葉で言えば、多様性があって、その石が相対的価値としての存在意義があるのならばそれを伸ばしていってやるというのが正しい判断なのではなかろうか。玉として選ばれたのならそれはその幸運を素直に喜び切磋琢磨して一角の玉たらんとすることはもちろん当然の所為である。

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