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竹の会という塾をスルーするということ

2015.11.30

 おはようございます。土曜日から崩した体調をなんとか回復基調にのせようと必死に体を温めております。土曜日に体を冷やしたこと、そこに塾生の風邪の菌がいとも簡単に感染したようです。わたしの場合は、どうしても塾の子どもたちから菌をもらうことが多くてマスクをするようにと心がけてはいますが、たいていは油断してマスクを外していたときにいいタイミングで感染するようです。今日は医者に行くべきかどうか悩むところです。できるかぎり薬はのみたくないですね。投薬医療は患者のためではなくて製薬会社のための医療ということです。アメリカは投薬医療による国民の薬漬けが社会問題となっているにもかかわらず改善できる見通しは立っていません。それはあまりにも製薬会社の権力が強すぎるからです。日本の投薬医療の末路はすでにアメリカが身をもって示しているはずなのに、日本は迷わず国民総薬漬け社会へと邁進しています。 わたしも血圧が高めなので医師に薬の服用をよく示唆されます。内科医は行くたびにインフルエンザの予防注射を強く勧めます。内科医というのは誤診率9割と見ておいてちょうどいいと思います。

 特に、厚労省が高血圧の定義を製薬会社の側に立って定義するようになって、日本では血圧降下剤の服用者が異常に増加し、それに比例するように、脳梗塞患者が異常に増加しています。内科医の言い分は血圧降下剤をのまないと脳溢血を起こすということを根拠にします。ところが、実は高血圧が原因で脳溢血を起こすケースというデータはかなり少ない、わたしの手元にあるデータはそう読みとれます。そもそも歳を取れば血圧は高くなくては体の隅々まで血液が届かない、ではないか。血圧降下剤で血流を緩やかにすれば末端の血管は詰まるのは理の当然ではないか。

 血圧降下剤を売ることによる利益はすでに膨大な額に達している、と言われます。日本の医師や厚労省の官僚が、製薬会社の手先となって、自らもおこぼれを頂戴するかたちで、国民の健康を実は犠牲にするという構造はこれからもアメリカ並みに腐敗するところまで進むことは疑いないとわたしは見ています。特に、今さかんにアメリカによる日本取りこみ、日本騙しが進められているTPPがさらに事態を加速させることになるでしょうね。

 今日はいきなり横道にそれてしまい申し訳ありません。

 竹の会に通うには遠いので近くの大手にした、という人が、渋谷区にもいると聞きまして、目を白黒させております。竹の会には、遠く江戸川区や台東区、品川区、千代田区などから通ってくる子たちがいますから、渋谷区にいて竹の会が遠すぎるという感覚はわたしには理解不能です。

 せっかく早くから大手塾に決めて1年、中には2年以上も通っているという人も多いのではないか、なのにこの時期になって「できない」「力がついていない」ということを悟る親子が多い。しかし、これは少しも不思議なことではない。大手にかよっているときに「できている」と思っていたのは、大手の罠にはまっていただけのことです。大手は、それほど難しいことはやらない、それは難しいことをやって、「わからない」子が続出しては困るからです。そんなカリキュラムの中に1年、2年もいれば、せっかくの優秀な知能もそのまま伸びる機会もなく、ただのバカになるだけなのに、親も子も気がつかないのは、なんとも不見識な光景としかわたしには見えないのです。 大手しか眼中になかった親の見識です。 竹の会という塾を一瞥して「ふふん」と笑ったかどうかはわかりませんが、一顧だにしなかったことだけは確かです。 わたしは自分で「竹の会はこんなにもすごい」という内容のチラシを作って、少し面はゆい気持ちにはなりましたが、竹の会という塾を広めようと真摯に訴えてきました。しかし、これは大手にとりつかれた親たちにはなんとも胡散臭い塾としてしか写らなかったようです。

 竹の会に入会してみると、すぐわかることです。親も子も「よかった」「思ったよりすごい」と実感していることがわたしにはひしひしと伝わってきます。親も子も「竹の会を続けたい、なんとか続けたい」という強い意思を感じるようになります。竹の会というのは、親御さんの強い支持、そして子どもたちの本能的な、「ここはいいところ」という、素直な心に満ちあふれている塾だと思います。指導の内容はかなり難しいことはわかっています。だから「ついていけない」という弱音を吐く子も超例外的に出てきます。だからこそ入会試験で峻別して選り分けているのです。が、「準合格」で入会した子たちにはやはりしんどいようですね。

 竹の会の指導というのは、計算、割合といったところから、徹底して鍛える、つまり、基本を完全にマスターするまで鍛える、というところでは妥協はないと思います。またひとつひとつの理解項目を決して蔑ろにはしない、一つ一つ理解を積み重ねてゆく、というところも指導のスタイルとしてある。まず、算数から、というのはありますね。算数を通して、思考というものを積み上げていく、それが結局思考力をつけるという認識です。だから竹の会の思考力をつけるための指導手順というのはもうすでにかなり定型化している。子どもたちも後から入ってきた子たちが次に何をやるのかということをちゃんと心得ています。ただ人にはもって生まれた能力というものがある。ある程度まで進めば、この能力に規定されるのはやむを得ないことです。能力の高い者ほどさらに高いステージへと進めていく、これは認めざるを得ない現実です。

 課題をやるのも能力です。なかなか出して来ないでとうとう最後までほとんどやらないで終わるというのも能力の表れです。子どもが最終的に伸びるかどうかは、「実行力」で決まります。能力が高くても実行力において劣ればそれほど伸びることもなく終わるでしょう。逆に、能力が低くても類い稀なる実行力のおかげで想定外に伸びるということもある。ただし、後者のケースでは限界というものがもちろんあります。

 多くの人は、入会の機会を得た人たちがこぞって感激する、感嘆する、竹の会の指導の確かさというものを知らないままに、世の中の塾というものについて特に感慨を持つこともなく、こんなものだ、と消化していくことと思います。 竹の会というのは、都下に同じような塾を見つけようとしても、ありえないほどの希少塾です。それはわたしという人間が30年かかって作り上げてきた、論理の帰結、経験の集大成、進化の最先端にある、特別の塾だからです。竹の会のレジュメという教材だけのことでもない、わたしの「指導」という高い見識からする判断によることが大きいのかもしれません。わたしは授業はしないけど、「説明」の技術は高度なものと思っています。同じ説明をするにも高次の簡にして要を得た説明というものをわたしは体得してきたと思います。だからわたしの説明がわからないとすればかなり深刻かもしれません。

 今は言葉ではなくて、レジュメという伝達の手段を通して、個々の思考に訴えるという方式を重視しています。わたしのレジュメが喜びとなって脳を刺激するのならそれはいい兆候です。もしレジュメを読んでも「わからない」としたら、悪い兆候です。それほどレジュメは完成域が高くて完璧です。

 竹の会という塾を折角知る機会があったのにスルーした損失ははかりしれないものです。それはわたしが言うのではなくて、竹の会で実際に学ぶ子どもたちの親御さんの本音ではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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