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竹の会渾身の一作「思考の核心 予想シリーズ」執筆開始

2017.09.30

 いよいよ新作レジュメの執筆を開始しました。目標100題です。これまでにこの作品製作準備のために様々な文献を集めてまいりました。折に触れては読み流しておりましたが、ようやく構想が固まり、いよいよ執筆を始めました。長い間適性検査問題を実際に解いてきましたが、読み取りさえ正確ならまあ解けるであろうという問題はいいのですが、中には巧妙に仕組まれた、しかもだれもがつい陥りやすい罠を仕掛けた問題というのがあります。あるいは見た瞬間の閃きがすべてという問題もあります。あるいは意表を突く問題、これまで考えたこともない問題など受検生を惑わすに十分な様々な問題、そうした問題を丹念に拾い上げて、1つの冊子としてまとめて、一気に読み切れる、つまりそれだけ解説が秀逸であることが絶対条件となる、そのようなレジュメ集の製作をもう前から考えておりました。面白そうな書籍がありましたら、必ず手に入れておくことは怠らなかったのですが、その構想がまとまるまでに時間を要しました。

 竹の会の冬期指導開始が、12月26日ですから、その前に完成をめざし、冬期に使えればと目論んでおります。もちろん現小5や小4でも算数指導の進んだ子については使う目算です。

 現在竹の会には平成18年からわたしがそれは死に物狂いで執筆してきた、多種多様なレジュメが蓄積されております。わたしが今のように精緻なレジュメを本格的に執筆開始したのは、実は、平成22年の2月あたりからではないかと思います。それまではワードを使った、数学や算数の製作には限界のある、レジュメが多かった。ただ数学については、平成17年の2月あたりから、都立西をめざす中1の成長に合わせて、数式ソフトを使ったレジュメ制作をしてきていたのです。ただこの技術を適性や算数一般に適用するまでには至らなかった。平成24年のことでした。わたしは、小石川をめざす小5の入会を機に、「竹の会入会試験第1類」シリーズの製作を始めたのです。ワードとちがって、すべて愛用の数式専門ソフトで製作、執筆しました。このシリーズは、7月で校了、9月からは「合格答案への道」と「算数をクリアーにする」の同時執筆に入りました。この年はこれを使った女子2名が、小石川と白鷗にそれぞれ合格を果たすことになるのです。また11月退塾しつつも桜修館に合格した男子がいまして、この男子に使った「2010 算数」という難解なレジュメ集が、桜修館合格に寄与したことを知りました。26年の受検では、大きな失敗をしてしまいました。25年受検に使ったシリーズを使わずに、その年に製作した「推論を鍛える」シリーズと22年製作の「適性虎の巻」に囚われてしまい、とうとう「算数をクリアーにする」を使えなかったのです。この年の小6は3名でしたが、うち2人は早稲田進学会の模試の上位の常連でしたのに、わたしはとんでもない指導ミスをしてしまいました。白鷗受検の子は、補欠のリストには載りましたが、白鷗は繰り上がりのないところですから。完全なわたしのミスでした。これに懲りてわたしは27年受検では、用意周到に指導を進めてまいりました。新作レジュメの執筆がもっとも充実した時期であったと思います。3人いた受検生のうちち2人が合格しました。桜修館と富士です。桜修館を落ちた1人も実力者でした。わたしはこのときの指導の反省から、作文を家庭学習から指導時間のテストとしてやるようになりました。作文については、ほとんどの受検生が苦手としておりました。作文は天性のセンスのいい子というのがいまして、実に自然な流れのある、文章を書くものです。作文の書けない子というのは、やはり何かが欠落している。情緒的なものもあります。幼児性が強いとか、未熟な思考とか、過保護の影響のためか、グローバルな、大きな枠でとらえることができない。近視眼的な見方で、内容のない文、同じことばを何度も繰り返す、スローガンのように連呼する。わたしには、作文を矯正することなどおよそ不可能に思える絶望感がいつも漂っていた。なぜ書けないのだろうか。幼いのだ。ものごとを自ら考えて主体的に判断するという意思が欠落しているのだ。いつもお母さんやお父さんが考えて判断してきた、子どもはその判断に何も考えないで従ってきただけなのだ。ところが、作文では自ら考えて判断することが求められるのだ。そもそも環境破壊なんか自分の問題として考えたこともないのに、作文ではあなたの考えを書けとなる。親がいけないのだ。子どもを幼児扱いして判断は親がする、子どもは親に言われてしたがうだけ、そういうことをしてきたつけである。過保護な親の子ほど偏見と異常に強い自尊心が素直で自然な判断の邪魔をする。自分の無理な論理やマイナーな論理を振り回す。親は子どもに素直な見方、素直な考え、判断を訓練してこなければならなかった。子どもというのは、塾で何を教えるか、知識を授けるか、ではない。わたしは子どもというのは、訓練するものだ、と考えて止まない。確信である。今の竹の会の指導の核心は、訓練にほかならない。授業で教えるなどいうバカな幻想は早くに棄てたほうがいい。子どもには思考の型を覚えさせ、その型をこれでもかというくらいにたたき込む、訓練を重ねる、これがいちばんの教育である。がまんさせる、辛抱させる。考えるというのは、地味で面白くも何ともない作業である。それが辛抱できなくて、すぐに放り出すならもう見込みはないからあきらめた方がいい。私立中受験で大手進学塾に行っていた子というのは、考えるということができない。いつも時間内に解くことを強要されてきたために、とことん考えるということをしない。すぐにあきらめて聞いてくる。とにかく説明を聞くのだけは得意ではある。すぐに教えられた公式にあてはめようとするのも共通の特性であり、とにかく我慢の利かない、扱いにくい子どもたちである。いつも講師の先生が何かこれという知識を授けてくれると期待し、地味な講師には失望し、いつも勉強の面白さは環境次第である。外的なことに左右されやすく、内的な面白さを知らない。できないのは環境のせいだと思い、親子で環境ばかり整備したがる。塾にクレームをつけ、講師にクレームをつけ、とにかくできないのはすべて自分以外のすべてである。見事なアホ親子の完成である。

 今の竹の会には豊富な多種多様のレジュメがある。その何を使うか、やはりわたしの中には、25年合格者に使った25年基準と27年合格者に使った27年基準がいちばん安心のできるレジュメとしてはある。そうした中でわたしが新作を執筆するとしたとき、どうしてもより核心をとらえたレジュメの制作に傾くのはいたしかたないとして、わたしなりに出題可能性という視点も遊びの要素としてとり入れたものになるのもいたしかたない。

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