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算数は国語読解の特別な場合だ3

2020.10.27

 

◎「面積図で解く算数」完成

 とりあえず37問まででいったん打ち切ります。今後も書き続け、いずれ第2版として出す予定です。これまで説明が難しかった問題のほとんどを面積図で説明することに成功しています。

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お詫び

上質紙での印刷ができませんでした。ツルツルの紙のため滑って紙詰まりし印刷不能でした。これまでの紙を使うしかありませんでした。

 

 

◎算数は国語読解の特別な場合だ3

 今日は、まず竹の会のレジュメ集の中の「思考の硯」第49問を読んで見てください。

「思考の硯」第49問 洗足女子
 花子さんが3歩で進む距離をお父さんは2歩で進みます。また、花子さんが5歩進む間に、お父さんは4歩進みます。同じ地点から、花子さんが先に200歩進んだ後、歩き続ける花子さんをお父さんが追いかけました。お父さんが花子さんに追いついたとき、お父さんさんは何歩進みましたか。

 
 算数は、事実の読み取りの問題です。言い換えれば、事実の読み取りの訓練です。問題が提起する事実をどう読み取るか、事実の意味を「わかる」形に、読み替えていく、そういうことなのかな、と思います。自分で「腑に落ちる」ように言い換える、これが、理解する、ということであります。
 この問題では、2つの事実が提起されています。1つは、「花子さんが3歩で進む距離をお父さんは2歩で進む」という事実、もう一つは、「花子さんが5歩進む間に、お父さんは4歩進む」という事実、です。その上で、「同じ地点から、花子さんが先に200歩進んだ」という事実を提起して、前の2つの事実を根拠にして、分析しなさい、という構成になっています。二つの事実を意味のわかる表現に言い換えましょう!

 同じ距離で比べると、花子さんの3歩はお父さんの2歩にあたります。これは歩幅の比が2:3というふうに読み取れます。歩幅とは、一歩で進む距離ですから、一歩歩くたびに、距離が開いていく。それはともかく、お父さんの1歩は、花子さんの3/2歩(倍)にあたります。ここまで、読み取れましたか!
 さて、次は、同じ時間で比べると、花子さんが5歩進むところを、お父さんなら4歩で済む、だから、お父さんの4歩は、花子さんの4歩×3/2=6歩にあたる。
ここまで分析できればもう少しです。
さて、
 同じ時間で花子さんが⑤歩進んだとき、お父さんは⑥歩進むので、その差①歩が、花子の200歩にあたる、したがって、お父さんが追いついた歩数は花子の1200歩にあたる、これはお父さんの歩数に直すと、つまり×2/3して、800歩になる。
 わかりましたか、「追いついた」というのは、同時に出発した場合、出発してから追いつくまで、花子さんとお父さんは同じ時間歩いたということです。それぞれのかかった時間が同じということです。
ところで、お父さんの歩いた距離は、花子さが、200歩歩いて、さらにお父さんに追いつかれるまで歩いた距離と同じです。
つまり、⑥歩=200歩+⑤歩
です。ですから、①=200歩
です。お父さんは、200×⑥=1200
この1200歩というのは、花子さんで計算したものです。お父さんはその2/3ですから、
1200×2/3=800歩
ということになります。

 さて、ここまでのわたしの分析を読んで、皆さんは
事実分析に脳がいかに活発に働いているか、わかりましたでしょうか。よく、算数ができないとか、算数が苦手という親子の言うことが、何を言っているのか、わからないと思われた人もいるかもしれません。算数に特有なことなど何もないからです。事実の意味を読み取るだけです。算数ができないのではない。事実の読み取りができないだけです。

 勘違いした親子がなんと多いことか。事実の読み取りとは、事実の国語的意味がわかることではない。事実というのは、深い意味づけの上に成り立っている。例えば、「歩幅」の国語的意味がわかって終わりではない。意味はたいてい「関係」の意味である。関係というのは、大雑把に言えば、比較のことである。だから事実の意味とは、比較のもつ意味のことである。世の中というのは、比べることから、意味を放つ。もともと孤立した事実に意味はない。二つないしは二つ以上のものを「比べる」るから意味ができるのだ。
 絶対主義と相対主義という二元論があるが、意味とは、相対的な意味である。普通はそうである。しかし、定理に昇華した事実は絶対的な事実とも言えなくはない。
 真贋の判断は人間には永遠の課題なのかもしれない。この真贋にしても、「比べる」ことが、真贋を見抜く確率が高いといえる。
 私たちは得てして絶対的な判断基準を採用しがちであるが、比べるという方法がわたしにはもっとも無難な方法に思える。
 世の中には、絶対的な基準で断を下す人間のなんと多いことか。絶対主義の危険は、自分が、自分だけが正しいと思いこむことにある。なにしろ比較しないのであるから、思い込みもブレがない。偏見を絵に描いたような人間が他人を批判する、嫌な世の中になったものである。
 さて、事実の読み取りとは、事実を比べることから、事実の関係的意味を突き止めることである。
 わたしは子どもたちに事実の読み取りのできる人間になってもらいたい。もともとは、都立中高一貫校の指導を始めたとき、公立小の子たちの学力の低さに驚き、小学生に割合をどうしたら理解させられるのか、そこから、竹の会の算数は始まった。算数の研究が進むにつれて、わたしは算数のなんたるかに目を向けることが多くなった。これも高度な算数の問題を子どもたちのために読み解くうち、わたしは算数の本質に気がつき始めた、のだと思う。必然、わたしの関心は算数を通しての事実分析の重要性に向かった。わたしは算数こそ子どもたちに思考力をつけるに適した方法であることを悟った。小学生を算数で導く、わたしは子どもたちを算数という事実読み取り訓練のための学問、それはこれほどそれに適したものがあろうかというほどよくできている、そういうもので事実の読み取りの基本を子どもたちに全力で教育している。

 竹の会は、「思考を育成する塾」であると謳っている。巷の、市井の塾には、「考えさせる塾」ということを大きく喧伝している塾も多々ある。しかし、ただ放置して考えろというのでは無為無策の塾と言われてもしかたあるまい。そんな茫漠とした指導なんかありはしない。指導者がただ漠然と考えることはいいとして、子どもに考えろというのが決して指導ではない。

 子どもに思考の枠というものを与えること、思考の型から入り、型を破る、これが算数教育の常道であろう。算数という事実読み取りの訓練を小学低学年から植え付けていく。子どもたちは算数がわからないのではなく、事実が理解できないのだ。だから、算数を教えるのではない。事実を理解させるのだ。だから、必ず「図にかく」。事実だから図にできるのだ、「関係」だから図で表せるのだ。事実を理解するのに、まず図にかけること、これがなによりも大切である。算数というのは、事実の読み取りであり、事実は「図にかく」ことで見えてくる。「腑に落ちる」というのは、「わかった」ということの比喩的な表現であるが、「腑に落ちる」には、「わかった」といういい方にはない深い意味がある。

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