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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

見えてきた都立校と公立一貫校の現実/トップ都立高校をとるのはさほどに難しくもないけれど・・/受験というもの

2017.03.25

 竹の会のお母さまからのメールに花冷えという言葉がありました。春の季語ですが、なんとも風情のある言葉です。時として陽気漂うかと思えば真冬並みの寒さが戻りきて、誠に春は寒と暖の織りなすシンフォニーの如くに人の心を奏でるの如しか。

 20日の朝まだ明けやらぬうちに家を出て電車とモノレールを乗り継ぎ羽田まで、それからもう7年ぶりにか飛行機に乗って九州は大分へ飛び立つ。気になったのはJALの飛行機がもうかなり古くなっているのにもかかわらずまだ飛んでいるということか。膝を痛めて杖をついての旅でした。年老いた父に会い、実家の隣に新築した弟夫婦に会い、みんなで食事をして、翌日にはもう大分空港へと向かう慌ただしさでした。母のお墓にお参りに行ったけれどどうも母がそこにいる気はしなかった。母はいつもわたしのそばにいる、そんな気がしていたからでしょうか。夏にはもう少し時間をとりたい、そして年老いた父を訪れて残された時間を惜しみたい。

 年老いた父が迎えに出た、「ただいま」という声が涙声になって、言葉にならず、7年ぶりのもう古びた実家の玄関の引き戸を開ける懐かしさよ。昔のままの古びた廊下、母がよく動き回っていた台所、居間には今はエアコン、昔ながらの石油ストーブ、母が寝起きしていた仏間には真新しい仏壇が入れられ、二階に上がれば昔のままの部屋がそのままに・・。

 それにしても飛行機というのは速い。九州まで実質空を飛ぶのは40分ほど、かつては新幹線のぞみでも一日を無駄にしたものでした。速いけれど不安はかなりのものです。

 春は待ち遠しいけれどそれは一瞬のこと、心地よい4月の空気はこれほど肌になじむものはない。風がもっとも気持ちいいのは4月だと思います。やがて5月になれば少し汗ばむほどの空気が漂いやがて来る夏の予感が頭に過ぎる、それから6月には梅雨がきて、7月、8月と炎天の夏がやってくる。9月には残暑か、それとも突然の秋風に意外な驚きを感じるのか、やがて秋になる。京都の紅葉が懐かしくなるのは常のことか。

 今年は来年2月3日受検の新小6の指導にまず心を砕く日々が続いています。考えることは多い。たぶん2月24日には都立高校の入試もある。すでにわたしの心からは発表の日の掲示板の前の光景が離れない。そういう思いからか、子どもたちには少し厳しくなっているのかもしれない。

 都立中受検とちがって都立高校の受験はとにかくも合格を勝ち得てきたという自負がある。まだ幼い小学生の指導というものがなかなか思うようには進められないことも多いのに対して、中学生というのは少なくとも竹の会では勉強するという前提において迷いのある生徒はいないことになっているので、指導そのものに迷いはない。わたしの指示通りに生徒が動くならば、過去には竹の会では日比谷を受けるという逸材はいなかったけれど、もし日比谷というならばそれなりの合格手順は当然わたしの中には予定されている。日比谷クラスとなると、まず内申は当然「ある」のが前提で、一般試験でどれだけとるか、というところに行きつく。理科と社会は共通問題だから、例えば新宿・駒場でも100点とるヤツはとる。だから90点が最低譲歩点である。こうして勝負は数学、英語、国語の3科目に絞られる。学習指導要領の制約があるから、少なくとも数学を難しくするには限界がある。私立難関校のような問題は出せない。だから正攻法で解いてとにかく面倒臭い計算がやたらある、こういう形で難しくするしかない。つまり時間が足りない。ただ英語はいくらでも難しくできる。といっても長文と英作文勝負であるから、こちらは対策はとりやすいとは言える。中2が勝負である。戸山受験の際には、英語が大変だった。中2のときにわたしの期待するほど英文解釈をやってくれなかったためだ。英作文にしても例文暗記をまめにやっておくべきだったのにわたしの指示は一度として実行されたことはない。定期試験の勉強の前にはすべて虚しく流されてしまった。もし日比谷、西に本気で行きたいと思っているのなら、わたしの指示を流さないことだ。英解の指導については変遷がある。26年駒場、27年戸山、28年戸山のときはいずれも原書の訳を指示した。しかし結局流された。それで今年は思案してセンター試験レベルの良書を対策として使うことにした。独自問題といってもセンター試験という格好の教材があり、そんなに大手のように独自の対策をオプション化して騒ぐほどのこともない。

 要は、試験などというものは過去問をやるのが一番ということだ。過去問こそ最上の教材である。過去問をやるというのは実は奥深い。完璧主義、完全主義、網羅主義という無戦略を今でも信じる人がいるのかと思うけれど、いやおそらくそういう人が多いのではないか。大手などは教材の量も質もかなりのものでこれをこなすのがまた大変であるから、完全主義的なアプローチに立っている、とわたしには思えるのだけれど、どうであろうか。

 受験勉強というのは、演繹的にやってはだめで、帰納的に攻めなければとても太刀打ちできないほどに広すぎる。もともと人間というのは能力に限りがあり、なんでもかんでも完全にしなければ受験できないなどということは普通に考えても合理的ではない。過去問をやる、としても闇雲にやるのは愚の骨頂である。過去問にも愚問がある。愚問には失敗作と超難問がある。失敗作までもまじめにやるのはアホである。また超難問を一般的にとらえて、この学校に合格するにはこれが解けなければならない、だからそのためにはこれをやらなければならない、という論理は明らかに失敗の思考である。超難問なんか解くヤツはアホだ。そんなの全体の数パーセントでしょ。合否に関係ない。しかして、過去問を選ばなければならない。良問をのみ解けば十分である。良問を通してその心を味わう。

 日比谷や西を受ける生徒なら、当然持っているのがバランス感覚である。桜修館で2年前に「弥次郎兵衛」について作文問題が出たけれど、暗にバランス感覚の重要性を問題化したのかと思わせた。ところが小学生にはこのバランス感覚というものがまず「ない」のが普通である。裏から言えば、このバランス感覚のある子ほど受かる可能性が高いと言える。さてである。何が言いたいか、である。もうおわかりであろう。そう、合格したければバランス感覚を身につけろということである。これは常識の範囲内で判断しなさい、ということでもある。子どもたちの答案を採点していると、あまりにも常識のない答案を書く子ばかりである。最初からバランス感覚を備えてるという子はいるものだが、バランスのないにもほどがあるという子ばかりである。

 バイアスという言葉がある。偏りとでも訳そうか。偏見といってもいい。人というのは偏見の塊なのではないか。そもそも価値観などというものが偏見そのものということではないか。

 人はバイアスで自滅する。正常性バイアスというのは有名ですが、聞いたことはありますか。人間というのは自分に都合の悪い情報というものは過小評価する傾向があります。いや全く無視する人も多い。ここからすでにしてバイアスが支配している。正常性というのは、何か起きたとき正常の範囲内、つまり想定内として特に問題化しない心理をいい、したがって、特にそのために行動も起こさない。これはそうでなければいちいち瑣末なことに反応していては心が持たないという人の持つ防御システムからきていると言われています。

 そうなるとなんでもかんでも正常性の範囲内として片づける、つまり思考もしないし行動もしない。つまり、不作為を決め込む。静観するのが常となる。こうなるとかなりのバイアスに満ちている。

 子どもというのは、幼児性バイアスの塊です。ですから、指導というのは、まずこのバイアスからなんとか解き放つ、自由な思考の世界に導いていやる、そういうことを手順として考えておく必要がある。敬語を使えるようにする、というのは幼児性バイアスの呪文による解放である。幼児的反応には時には厳しくそのバイアスを悟らせなければならない。まともに字が書けないのも幼児性の表れです。集中できないとしたらこれも幼児性の表れです。課題をやりぬくというのは、幼児に特徴的な不作為、懈怠を駆逐する意味があります。よく「大人になれ」と言いますが、心を支配して正常な思考の邪魔をする幼児性バイアスを克服せよという意味です。

 手順を疎かにするな。指導というのは、ひとつの目標を達成するためにもっとも適切な指示を与え、それに集中させて達成すること、その段階的な積み重ねからなります。つまり、指導というのは、手順にしたがって指示し、それを実行させて、目標に導く技術です。竹の会には、合格に導く技術と30年余の知の蓄積があります。わたしにはさまざまな目標設定に最適の指導手順というものがあり、またそのために執筆を重ねてたきた膨大な教材があります。わたしは目的を達するに最適の教材を打ち、手順よろしく、子どもを目標地点に達するに最適の手を打つ、そして最終目的に道案内する、これが仕事です。

 幸運にも、竹の会に、わたしに巡り合えたことをきっと「幸運だった」と思わせるだけの体験をすることになる、わたしはそう信じています。

 

 

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