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試験とは、「問いに答える」ことだけが意味あるもの

2015.12.19

 おはようございます。6℃、晴れ。師走の19日、刻一刻と光陰は変化していきます。光の影で時を測る、昔の人は、時を目で追っていた、しかも、太陽光を直接追っていた、自然と直接密着していたのがすごい。現代人は、時も自然から切り離された、抽象化された世界にいる。

 さて、今日は、試験的に、実施していた土曜算数教室最後の指導日となります。同じく10月にスタートさせた渋谷Bは1月以降も正規コースとして続けることが決まっています。

 試験まであと「中45日」となりました。泣いても笑ってももうそれだけしかありません。一見時間にゆとりがあるかに錯覚させる9月、10月も結局は夏までのたっぷりとあった時間を思えばあまりにも短いものでした。合否の力はすでにほぼ確定しているのです。平成21年の10月のことでした、わたしは桜修館を受検する杉山太一君に「君は合格します」とみなの前で大声で伝えました。平成22年の冬期直前には、小石川を受検する男子に同じことを言いました。「君は合格する」とわたしを確信させたもの、それは類い稀なる実行力、いや偽りなき真摯な心、誠実さであったと思います。その後も優秀な人はいたけれどわたしが「合格する」と言うことに躊躇したのは、この勉強に対する誠実さ、真摯さを見抜いていたからだと思います。今年桜修館に合格した女子についてだけ合格を確信したのもその誠実さに心打たれたからに相違ありません。

 勉強というものにどれだけ真摯に向かい合ってきたか、問われるのはそこです。どれだけ勉強を大切にしてきたか、です。今年桜修館に高得点で合格した女子は、課題レジュメがわからず、泣きながら1日、2日と考えたそうです。どんなことがあっても課題レジュメを出してきた子でした。そのときには必ず前回「合格はんこ」がとれなかったレジュメの解き直しも提出してきましたから、毎回提出するレジュメはどさっと束になっていました。文字はどこまでもていねいで美しく、読む者を魅了しました。最後に提出した作文には、最後の余白に、「これまで作文を添削してきてくださりありがとうございました」とお礼の作文が書かれてありました。いいですか。解けなくて、わからなくて泣きながら解いたというのです。どこまでも問題に真摯に取り組む姿勢をこそ学ばなければならない。

 3人いた受検生が3人とも落ちた26年のことをよく考えます。そのうち2人はよく早稲田進学会の模試で上位に名前をのせました。うち1人は実力のある男子でした。しかし、なぜかわたしの心のセンサーが危険を知らせ続けたのです。3人のうち一人は力不足でしたからしかたありませんが、二人は確かに力はあったと思います。なぜ落ちたのか、よく考えます。実はひとりはレジュメで「合格はんこ」をとる率が低かった。解き直しや課題はすべてまじめにやる子でしたが、合格はんこがとれなかった。もうひとりは秀才とは思ったけれどなぜか一抹の不安が払拭されたことはなかった。勉強に対する誠実さ、真摯さに心の底で疑念があったのだと思う。勉強に対しては純粋無垢で嘘をつかない素直さのある子が合格する。それをわたしのセンサーが本能的に感じとる。

 試験とは、問いに答えること、である。それだけである。作文が苦手という子がいるのは知っています。作文をなにか特別のことを書くと思っていると書けません。出題者が求めている答えとは何なのか、心を平静にして問い返してみてください。あなたが書いていることがそもそも問われていることなのか、よく問い直してみてください。問いは何なのか、常に問い返してみてください。

 問われていないことを書いても0点なのはしかたないでしょ。問われたことにだけ答える、これが試験の鉄則です。してみれば、普段の勉強も「問われたことに答える」という真摯な訓練の繰り返しでなければなりません。あなたたちは今解き直しをやっていますけど、そのときにただ問題を読んでただ答えを思い出すということをしてはいませんか。問いは何か、その問いに対する答えはと問い返しながら、訓練していますか。この問題の問いは何か、そしてその問いに対する答えはなにか、常に、問いに答えるのだということを意識して勉強していますか。

 問われていないことに答えるのは「意味がない」。「意味がない」ことはやらないのが頭のいい人ならあたりまえのことである。ところが、カンニングをやる、ふだんの練習でやる、というのは、やはり頭がおかしいというほかない。意味がないからである。そんなことで丸をもらっても意味がないからである。あなたたちが考えている以上にわたしはあなたたちの力というものを敏感に感じとっている。あなたたちがわたしをごまかせることは決してない。ありえないのである。わたしは何もいわない、しかし、とても失望はする。かつてわたしが力があるのにどうしても合格を確信できなかった子たち、それはわたしが心のどこかで失望した体験を傷痕を禍根を残しているからだと思う。

 夏休み、わたしはよく何時間勉強したか、訊いたものだった。返ってくる言葉は、みな「3時間から4時間」、それでは勉強してない時間はいったい何をしていたのか、あまりにも少ない、わたしの実感だった。わかってない、それが実感だった。こんなに勉強できる時はもうない、それがわかっていない。「無為に時を過ごすこと勿れ」。無為とは意味のないという意味である。意味のない時を過ごしてはならない。無為の時間が増えれば増えるだけ失敗する可能性は高くなる。もし勉強していると言いながら、かたちばかりの勉強をしているのなら、難しい問題を考えることは回避して、先送りして、易しい、取り組みやすいことばかりやっているのだとしたら、それも無為である。意味がないことをやるのが無為だからである。

 さきほど「問いに答える」ことと言ったけど、それは、それが「意味あること」だからである。わたしたちは、読解で実は言葉の意味をつないでいるということである。普段の生活で問い返して見るといい、今やっていることは意味あることなのかと。趣味や興味に流されて、本来やるべき意味あることを蔑ろにすればどうなるか、それは自明のことではないか。

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