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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

解き方を学んで勉強するやり方には実がない

2020.06.09

 

◎解き方を学んで勉強するやり方には実がない
 「わかりません」と丸投げする子、確かに、このまま考えさせても解ける見込みはなさそうだ!
 これを解ける子がいる、いやいた。その違いは既にして歴然としている。さて、ここで私の考えた解の道筋を説明していいものか、悩む。
 かつて、高校受験の中3の母親だったが、数学の指導のしかたについてクレームを言ってきたことがあった。「先生、数学は解き方を覚えさせて、どんどん進めた方が速くて、効率もいいのではないですか、その方が効果もある」という主旨だった。当時、竹の会は、考えさせる指導ということで、いきなり解き方を教えるということはせず、とにかく自分で考えさせるのが手順だった。ところが、これだとなかなか進まないことに、業を煮やした母親が前述の言葉となったのだ。母親は、「まだ時間に余裕のある中1、2ならそれもいいかもしれないが、中3ではそんなことしてたら間に合わない」と畳み掛けてもいた。わたしは、こういう面倒くさい親とは議論したくないので、適当にあしらったのを覚えている。

 当時はいろいろ口出ししてくる親が多かった。平成一桁の頃の竹の会はまだ蒼かった。毅然とした態度、ブレのない軸というものが、できあがるには、まだ何年間かを必要とした。わたしは様々な批判を真摯に受け止め、フィードバックしながら、理想の指導とは何か、いい塾とはどのような塾か、を追い求めて、本当に日夜悩みながら試行錯誤してきた。だからどんな批判も真剣に自分のどこがいけないのか、見直す機会として実際見直して立て直してきた。竹の会は、毎年違う、内容が違う。一年前と今の竹の会では、まるで違うことをやっている。竹の会は「変わる塾」だ、「進化する」塾だ、こういうことを言った卒業生たちがよくいた。わたしは受験が終わるとまた心機一転して、新たな企画を立て、その年の受験生の指導に臨んだ。竹の会は確かに進化していた。ベタな塾の始まりから、様々な試練を乗り越えて、特に毎年毎年の受験という塾の試練を潜り抜けながら、結果に一喜一憂し、受験の技術、指導の技術を磨いてきた。竹の会は叩かれながら強く逞しくなっていったと思う。モンスターと呼ばれる親たちとの戦いにも鍛えられた。今思えばサイコパスレベルの親たちだった。なんとか撃退してきたが、そのたびに塾というのはなんともストスの多い仕事なのかと思った。今は面倒臭いことを言ってくる親には、それでは退塾してください、とブレがない。ただわたしも歴戦の強者で、自ら退塾を申し出た体に持っていく。これは、退塾というトラブルからくる無駄な摩擦からくるストレスを最小限にする手管である。
 竹の会はとにかくも理想の塾の姿を追い求めて一心にかけてきた。まだ元気な頃、37°超の熱が引かず、十日以上も夏期の指導を強行したこともあった。インフルエンザに罹ったときは、本当に焦った。母、父の臨終に立ち会えなかったのも、塾という仕事の宿命であった。
 わたしは、竹の会とともにあった。竹の会を駆け抜けてきた。竹の会の子どもたちには、竹の会にいたからこそ手にすることのできる価値ある体験、指導体験をと心を砕いてきた。竹の会の1時間は、他の塾の数時間に匹敵する、いや一年いても入塾時と変わらない、そんな塾ばかりなら、竹の会の1時間を簡単に「高い」と言って欲しくなかった。竹の会の費用はもう二十年以上変わっていないのである。値上げをしていないのだ。教材の製作コストは嵩むばかりだ。冷暖房、教材費、施設費も取ったことはない。消費税はいつしか10%にもなり、竹の会の負担は増えるばかりだ。季節講習も同じだ。これを「高い」と言う人もいる。塾は強制ではないのだから、高いと思えばそういう塾は切って捨てることも自由である。事実「払えない」という人たちもいたし、そういう理由で退塾した人もいた。ただ大手に比べて本当に高いのか、中には「安い」と言ってくれる人たちもたくさんいた。時間と費用だけを比べて高いというのは論外で問題にならない。中身でしょ。1時間の中身、質でしょ。大手の1時間、他塾の1時間の中身の比較の問題でしょ。指導の質、つまり指導の技術、指導者の質、経験年数、指導のレベル、実績、専門度、とにかく単純には比べられない。総体として見た場合の子どもの伸び、子どもの精神の成長、教材の質など簡単に、時間と費用だけで、割り切って善し悪しを判断できるものではないと思うのだが、残念なのは、そういうことを一切考慮しないで、「高い」と言われることである。不思議なことに、塾を時間数と費用だけで簡単に「高い」と結論する人のなんと多いことか。世の中の親というのが、迷わす大手駅前塾を選ぶのもとっつき安い値段に引かれるということもあろう。ただ大手塾の集金システムはかなり巧妙であり、単価は安いと思っていたら、ズルズルと集金システムの罠に取り込まれていたということはよく聞く。とにかく大手のフェイクに心を動かす親というのは、若い学生講師の人柄に惹かれたり、りっぱな建物に安心したり、綺麗なパンフレットに心動かされたり、教材の量、華やかさに心酔したり、と見事に大手の手練手管にまやかされて大切な子の一生を左右するかもしれない決断をいとも簡単にしてしまうのである。

 わたしの経験では、そのほとんが大枚を払って得るものはなかった、残ったのは子の絶望感、何年も通ったのに実力はちっともついていないという現実だけではなかったか。
それに生殺与奪の権は、子ども、親の側にあり、高い、ダメだと思えば、塾を切ればいい、それだけのことである。
 さて、話はかなり脱線したが、竹の会は、思考を培う塾として、思考の壁が超えられない子の対応をどうするのか、という究極の選択にいつも直面してきた。言いかえれば、算数のできない子は受かることはないのである。どんなに手を尽くしても、奇跡というのは、ない。これが月実であり、経験値である。つまり、指導開始の時点で、ある程度、将来の合否の予測はつく、ついている、というのが、真実である。もちろん予測できない、グレーゾーンの子もいる。それどころか最初は「ダメ」と思っていたが、予期せぬ展開を見せ、合否不明のまま、受かったという例もかなりある。
 それこそ竹の会の真骨頂なのかなとも思う。
 先の究極の問題については、答えはない。答えを知っているのは、神である。神だけが恨まれることなく、不合格という烙印を押すことができる。わたしではない。
 算数の才がなければ受からない、これだけが真理という現実は変わらない。
 竹の会は、算数を極める。子どもたちは、竹の会算数によって、伸びてゆく。思考力をつけてゆく。子どもたちは自己肯定感に満ち満ちて、自信をつけてゆく。子どもたちの顔ば嬉々として勉強する喜びに溢れている。竹の会とは、そういう塾であり続けなければと思う。

 伸びる子、伸びない子というのも、結局、算数の才に関わる。
 その文脈で言えば、筋のいい子というのは、反応がいい。
 わかったときに、実に、嬉しそうな顔をする、そういう子は伸びる。まずいのは無反応の子である。もちろん照れ、ポーカーフェイスというのはあるけれど、一般的には、無反応か、反応が今ひとつというのは、よくない兆候である。よくわからないから無反応ということがひとつ、「なるほど」と繋がらないのは、知的な浅さの故なのかもしれない。知的な喜びというものが感じられないとしたらこれは深刻なことである。
 無反応な子に失望していたら、わたしの予期に反して、親御さんから、子どもがとても気に入って喜んでいるというのを聞かされることがある。
 子どもというのは、表情だけからは何を思っているのか、よくわからないというのもひとつの真理である。

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