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都立小石川にほんとうに合格したいのなら/中学生は受験まで何人残るか、と見ている/都立西は確実にとれる/取り返しのつかない選択をする愚かな親たち

2016.05.03

 おはようございます。5月3日(火)、天気は薄曇り、初夏の香りが漂う五月(さつき)です。シャツ一枚で涼しい風を楽しめる季節の到来です。1年のうち2週間ほどしかない、かけがえのない季節ですね。

 故郷の山々はこの地震でも原型を留めてくれたようです。わたしが実家のある別府に住んでいた頃にも大地震と言えばたいていは大分県の中部、由布とか日田あたりであったと思います。幸いわたしの住んでいた別府が恐ろしい天変地異に見舞われたことはなかったのです。しかし、それにしても熊本が襲われるとは、いまや野菜、果物はもちろん海産物にしても、熊本産ばかりでした。福島の事故以来、とにかく長崎とか熊本産でなければ売れない。わたしなどは三陸で獲れた魚は長崎あたりに水揚げしているのではないかと疑っています。そもそもあれだけ放射能を垂れ流しして全く食品の被曝量が問題にされない国も珍しい。特に、朝日が何も報じない、それだけで朝日なんか信用できないでしょ。

 それにしても都立小石川というのは小学生に人気が高い。今では私立難関中受験者の併願校の一つとして不動の地位を占めている。こういうところにおそらくそういった状況など考えてもいない、これまで受験というものに無縁の子たちが憧れる、そういうことではないか。特に、女子というのは、家庭の中でも、特に、中学受験ということではカネはかけられないという親の意識が伝わるのか、一歩も二歩も距離を置いた存在ではなかったか。しかし、公立なら受験もありか、と考える親も出てくる、そういう中でわたしも受験したい、という意識が突如として湧き起こる、そういうことなのかな、と思う。

 しかし、ただ受検したいで受かれば世話はない。まず小石川に受かるには、才能というか、知能がなくては無理である。さらに集中力のある子でなければ受からない。そして勉強をいつも最優先させるスタンス、勉強を継続させる強い意思を必要とする。このいずれの要件が欠けてもだめである。この要件が欠けているかは、実は意外と判別がしやすい。竹の会では、平成22年以来早稲田進学会の模試を受けてきたが、竹の会に、小4の2月までに入会して訓練を受けてきた子たちが、小6の8月以降、この模試で上位に名前を載せる蓋然性が非常に高い。そして、小石川や桜修館に合格する子というのは、この模試で恒常的に上位にあることが暗黙の要件となっている。載ったり、載らなかったではダメなのだ。そういうでブレのない子が受かる。

 ※早稲田進学会について

  最近模試の受験者数が激減している。特にこのところ「塾」としての売り込みが激しく、模試の評価も、特に、受検総数、つまり母数が少ないため、信頼性が薄くなってきた。模試を受けただけで合格者として出しているようで、これでは他の大手と同じだ。そうなるとますます信用度が薄くなる。

 

 小石川には知能が高いだけでは受からない。合格者で「字」が汚い子を知らない。さらに、国語読解のレベルが低い子は受からない。そういうことをふまえて、勉強を優先できない子というのは、どんなに頭がよくても受からない。去年の夏休み、わたしは1日7時間の勉強を希望したけれど、7時間を実行したのは、2名に過ぎない。その2名が、それぞれ小石川、九段に受かった。受かったのはいずれも女子である。男子は例に漏れず勉強にブレがあり過ぎた。気分に左右されやすく、こうでなくてはならないという縛りが強くて受検には不向きであったかもしれない。1日の勉強時間はいつ尋ねても「4時間弱」、なぜ7時間ではないのか、どうも男子は、要領がいい、何でも省力化する傾向がある。要領がいいのは結構だが、時間を節約して、短縮して、ただ楽をする、それが目的というか、落ち着きどころのようで、時間を節約して、勉強の能率を上げて、7時間やるというのではない。これが敗因でしょ。楽をするために省力化する人間が受かるわけはない。ましてや省力化して趣味に時間を使うというのはあり得ない話しだ。

 わたしは、新中1を集めて、高校受験のための指導を始めたが、高校受験で成功する生徒というのは、過去の合格者を振り返って見ても、精神的な成熟度がちがう。実は、小学生にしても、小石川や桜修館ほどになると、それなりの精神的成熟度の高い子が受かることになっている。幼いというのは、狭い、偏見、低い視野という呪縛をかけられている状態である。だからこそ「素直さ」というのが大切なのである。ああだ、こうだと自己主張の強い子というのは受からない。小学生で受かる子というのは、屁理屈を言わない、素直にしたがう子に限られる。そしてこれは中学も変わらない。中学というのは、思春期、反抗期にかかる時期であり、わたしも今のまま、現在いる中学生がブレることなくいるであろうとなどとは思ってはいない。受験までに何人残るか、そういうことしか考えていない。

 もし、わたしの指示に素直にしたがって勉強優先の生活リズムを送れるのならば、都立西への道はそう難しいことではない。

◎取り返しのつかない選択をする愚かな親たち

 九段のチラシ配りのとき、大手の消しゴムだけはしっかりともらう母親を何人か見たけれど、おそらくもうどこかの大手に行っているということなのだろう。ただもらえるものはもらっておくという欲には正直だ。大手のチラシ配りの人に駆け寄ってはしゃぐ親子もみかけたがこちらも大手に楽しく通っているというのがよくわかる光景ではあった。今や、大手というのは、実に、巧みな商売術において、世間のバカ親たちを惹きつけることに長けている。無料体験から引き込むというのは、新興宗教が、いろいろとプレゼントをして、最後に高価な壺などを買わせる、というのを彷彿させる見事な商売術である。大手というのは、月謝も安いように見える。これなども巧妙としか言いようがない。いったん取りこめば、次から次にカネを出させる仕組みが隠されているのだから。短期間で組んだ様々な「特別」という名の授業が売りつけられる。大手はテキスト代もバカにならない。消しゴム1こもらってニコニコしていたのはほんのちょっと前。

 わたしはしかし大手の問題性はそういうことではないと言っている。そういうふうにして様々な特別コースを受けてみて、1年経って、2年経って、どうですか、ということである。そもそも1年も2年も子どもを通わせるというのがまた大手の巧妙さである。その手練手管のひとつが、決して難しいテキストは使わないことである。平易で「わからない」ということがないようなレベルのテキストを使うから、進学塾のように、落ちこぼれというものが出にくい、わかりにくい構造に仕組まれている。易しい問題ばかりを解いているから頭に抵抗なく受け入れられて、頭のレベルは1年経っても1年前のままである。親も子どもがいい点をとってニコニコしているので、安心しきっている。バカな子どもとバカな親の取り合わせである。だからこれをバカ親子と呼んでいる。

 人間の頭は、「わからない」と悩んでなんぼである。「わからない」から進歩がある。それに、大手というのは、いわゆる「訓練」ということを全くといっていいほどやっていない。基本というのは、しくみを知る、理解するということとは別に訓練すること、訓練して体に覚えさせること、が大切である。だから大手に1年も行って、まともな計算ひとつできないのだ。恐ろしいのは、本人は「できる」と思い込んでおり、親も「うちの子はできる」と安心していることである。頭の中でやりかたを知っている、わかっているというのと、実際にできるかどうかは全く別のことである。

 大手の子と言うのは、思考ができない、ない点において致命的である。1年も2年も通って小5や小6で、竹の会で入会2か月の小4が解ける割合の問題も解けないのである。始末が悪いのは、「割合はわかる」と思っていること、そして親がその言葉を額面通りに信じていることである。計算力のない小学生は計算で自滅していくし、思考力のない小学生など受検生などではない。大手のぬるま湯で思い切りふやけた頭で適性問題なんか解いてもろくな成績もとれまい。

 残念なことはもっと深刻なことである。いったん1年でも2年でも、もっとも大切な小4、小5の時期をそのようなぬるま湯で過ごしてしまうと、もうどうにもならない、思考力をつけていくということが難しいことである。ぬるま湯でつけた変な癖が後々まで自然な伸びの邪魔をする。全く白紙に戻すことなどできない、ぬるま湯というのは、勉強のスタンス、集中力、継続力などすべての大切なことを無にする恐ろしい湯である。

 訓練というのは、基本的な勉強のことだけではなく、勉強へ立ち向かう姿勢、スタンスを習慣化する訓練でなければならない。小4,小5という貴重な時期にこの厳しい訓練を経てこそ、自立した思考の主体者として成長することができる。親はまず自分の子を単なる成績がどうのこうのというより、自立した思考、成熟した精神の持ち主として育てる義務がある。計算訓練、割合を通しての思考訓練、その中から、勉強というものに対するスタンス、立ち位置というものを学ばせていく、体得させていくのである。この大切な時期に、大手に自分の子どもを放り込みバカ生徒に仕上げていくバカ親のみなさんにはわたしからなにも言うことはありません。

 

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