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都立小石川をめざす親の自爆/過信の構造/指導の達人/歴史の必然性という嘘

2016.04.14

 おはようございます。桜の季節も一瞬にして過ぎ去り新緑の候に入らんとする前の一波乱、雨曇りです。この時期の空気は初夏と一触即発の危険を醸しながらも早朝の冷たい、いや爽やかな空気に包まれる幸福感はこの季節、このタイミングならではと去りゆく時を愛おしむこと一入です。

 竹の会にも新しい小学生が、一人二人と増えまして、特に、入会試験に見事合格して入会してきた子たちの筋の良さを心地よく思っております。現在小4の2月を基準に実施している「入会試験Ⅰ」は、逸材発掘の機能を立派に果たしていることを信頼しておりますが、小5の2月にはやはり使えないということも実感し、実は、この時期を想定した、逸材発掘のため難度の高い、「入会試験Ⅱ」、「入会試験Ⅲ」をすでに創作しています。

 竹の会では、分数指導についても、近年改善され、レジュメ制作、レジュメ指導になりました。分数導入の段階で、長く使われてきました市販テキストの使用はすでに廃止し、小数についてだけは、できのいい日能研のものを使っています。

 新分数レジュメは、分数とは、何か、から説きおこし、一気に、分数の計算力を高レベルに持ち込む竹の会ならではの傑作作品になりました。

 竹の会が、小4の2月入会の子に、まだ通分も知らない子に、分数、小数の計算の高レベル化に要する日数は、今では1か月ほどです。さらに高度な分数計算から、逆算のマスター、割合導入とわたしのプログラム化されたレジュメ指導過程は実に効率よく円滑に進められ、一気に中学入試の中堅校、たとえば、芝中、成城、・・などの割合に焦点を合わせた過去問を解けるまでに理解を深めていきます。竹の会では、わたしが開発した究極の割合理解法、思考法が子どもたちの理解を急速に進めます。子どもたちはあれよあれよと高度な割合の問題を解き、理解するようになります。この過程はまさに絵に描いたような過程です。

 竹の会にきてみて多くの子どもが、その理解の進歩に驚愕し、親御さんをして感嘆せしめる瞬間です。

 わたしは、大手から竹の会にようやくやってきた子たちが、大手にいる間にいかに時間を無駄にしてきたか、ということを悟り、もっと早く、竹の会を信じてきていればよかったと思っていることを知っております。

 竹の会という塾を俄には信じられない、だから安心できる大手に行くということなのでしょうが、それこそが母親や父親の自爆行動だということが、わからないのはしかたないことか。世の中には人を騙す輩が溢れていますから竹の会と突然言われても飛び込んではいけないのはわかります。しかし、世の中には、そういう竹の会を迷いなく信じて、支持し続けてくれる人もいたわけです。まさに信じる者は救われるです。

 わたしが大手の悪口を言うのは理由があります。それは大手にいたという人が、全くといっていいほどバカだからです。計算はただできると思っているだけで、実際にやらせてみるとまともに正解が出せた試しがない。割合はわかると言いながら、竹の会では、入会後1か月にもならない小4の解ける問題さえも全く解けない。そういう現実を幾度も幾度も見てきたからです。いや大手だけではない。中小の塾、個人塾で1年、2年と教えを受けてきた子も「できない」ということでは変わらない。だから大手が特にということではなくて、塾に行きながらなにもできないということは少しも変わっていないのです。思考する、自ら考えるというスタンスなどありもしないし、家庭学習などまともにやらなくても、親はなんの深刻さも感じていない、塾もだからといって何もしない、それが現実です。

 竹の会は、そういう成果の出ない子については、ぎりぎりまで退塾ということを前提に勉強姿勢の転回を迫ってきました。竹の会に他意、悪意はありません。できないという現実、勉強しないという現実に真摯に、良心的に対応してきただけです。竹の会のように退塾を迫る塾がどこにあるか、です。しかし、世の親というのは、そういうことで竹の会を恨み、ひねくれる、礼を失する態度をとるものです。他塾のように媚びへつらい、見通しもないのに高いカネだけとるために媚びる、そういう塾にはいつまでも騙される、それでも平気なのに、竹の会のような良心、誠意を大切にする塾には、逆恨み、悪感情をもち、礼を失するのです。

 わたしは、指導の達人の域に達することを自分に課して精進してきたと思います。小学生の能力を開花させて、自ら考えるというスタンスを引き出し定着させる、そういう思考人に育て上げる、それが一番の成績をあげる方法だと思ったのです。子どもたちに「わからない」という問題を説明するというのは、ある意味敗北です。子どもが自分で考えて解いてくれること、これこそが指導の勝利なのですから。だからわたしはそういう状態を常態とするために思考の手順を工夫したのです。

 わたしは指導の達人になりたい、その一心で勉強してきました。

 小4の2月に入会した子たちが、小6の8月の早稲田進学会の模試で、トップテンに名前をのせる、そういうことを常態としてきたのが竹の会です。このわたしの指導を頭から信じようとしない人たちには関心はありません。アホは相手にしないことにしました。勝手に大手に行って、可能性のあった自分の子を1年かけて立派なバカに仕上げればいいのです。それはかなりの蓋然性をもって現実となるはずです。これまで大手にいたという子でできる子を見たことがない。竹の会でわたしの訓練を受けた子たちがたまさか大手の模試を受けたら、余裕で上位にいた、そういうことが、大手がバカばかりという心証をもった由縁のひとつですけど、竹の会でもできないという組の子たちも他塾の模試では成績がいいという複数事例も傍証としてあります。

 世の中には、根拠のない自信というものを持っている人たちがたくさんいます。大手塾、いや巷の塾の自信の根拠もわたしにはわかりませんが、バカを作り上げる自信は認めてもいいでしょう。親の判断の根拠、自信などはどこからくるのでしょうかね。大手に子を行かせている親というのは、子が大手好きという感じも受けましたが、もう大手に迷いがないですね。以前竹の会に入会試験に受かってそのまま栄光を続けるという判断をした父親がいましたけど、子どもと講師の相性がいいというのが理由でしたが、さてどうなったのでしょうか。世の中には、相性ということを言う親がよくいますけど、大手前提の発想です。断っておかなければならないのは、竹の会の入会試験に合格したから大手で成功するというわけではないということです。竹の会の指導を前提にした、入会試験です。わたしはわたしの指導にどこまで耐えられるかという知能を見ているわけで、学力を見ているわけではありません。その意味でも竹の会の入会試験Ⅰが使えるのは小4の2月でしょ。小5の2月だと学力でできたのか、知能でできたのか、はっきりしないからです。

 小3について、入会試験Ⅰを使ってみましたが、これまで「できた」という子には出会っていません。もし6問中3問できれば、逸材と見て入会を認める、そういう心証です。この段階で0点はやはり無理、2問正解でどうするか、迷うところです。やはり3問正解で、伸びるという心証です。

 大手がだめなのは、ひとつには、情報豊富ということですね。やっているのは適性類似問題を解かせるだけです。恐ろしいのは、情報が多ければ多いほど、成績は一向に上昇しない、しなくなるのに、自信だけは強まっていくという人間の本来もつ本質です。大手から抜けられない原因のひとつはここにあります。次から次に繰り出される情報に、この情報を逃したら合格はないと思い込むのです。情報が増えれば増えるほど、過信をもっていく、過信はもちろん失敗の根拠です。

 歴史を学ぶ理由に、歴史の必然性を学ぶことをあげる人が多いのかと思います。

 しかし、わたしたちが学んでいる歴史の教科書、参考書、読み物というのは、完全に作り上げられた贋物です。リチャード・ヘンリー・トニーという著名な歴史家はこう指摘します。

 歴史家は、勝利を収めた勢力を卓越した地位に引き上げ、過去に飲み込まれた者を背景に追いやる。それによって既存の秩序に必然という名の衣を与えるのだ。

 わたしたちは、このような歴史家の創作の結果、作られた歴史というものからいったいどういう必然性を学びとるというのでしょうか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という勝者たちのみで描かれた歴史から勝者の必然性でも読み取ろうとでも言うのでしょうか。

 わたしは疑えと言っているのです。歴史家でもなんでも疑えと言っているのです。わたしは専門家という権威主義的張り子の虎を信用しないけれど、世のバカ親たちが、大手の言うことを丸呑みしてゾロゾロと右へ倣えと並ぶ様は異様に見えてしかたない。日本人というのは、群れるのが好きです。桜の名所は、人の群れでむせかえり、テレビがグルメ処と騒げばまた行列ができる。連休の行楽地は意味もなく人で溢れ、物見遊山の熊さん八さん程度の脳みその人間であふれかえるのが今の日本です。

 わたしは、竹の会と邂逅した子たちこそ幸せ、幸運であったと正直思っています。このわたしの名人域の指導を受けられるのは、もうそれほど長くはない。今、わたしは最後の機会と思って最後のわたしの名人芸を心残りなく駆使し子どもたちを育て上げていきたい、いつもそう思っている、それが今の私ですね。

 

 

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