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都立日比谷、早実高校への道~積極的にはたらきかけるか、受け身になっているだけか

2016.04.05

 おはようございます。今日で春休みが終わり、明日6日から学校が始まります。いよいよ新学年、あるいは新しく中学生となり小学から中学へと進むみなさんもいます。区立中へ進む人がほとんどですが、都立中へ進むみなさんももちろんいます。区立中へ進む人たちはこれから2年10か月後の都立高校入試を視野にもはや逃げのない選択の時、大げさに言えば、人生の分岐点を意識せざるを得ません。かつては高校受験は、中3になってからと素朴に受験勉強を始める、さてそろそろ塾でも探そうか、というような脳天気な親がけっこういたものですが、いやいやわたしの記憶では、栄光ゼミナールなどに中1からせっせと通うという生徒も多かったように思います。当時から栄光の無料体験は有名で多くの親たちが無料に惹きつけられて軽い気持ちで体験だけと申し込みその流れで入塾、それから中3までずるずるといるだけという生徒もたくさんいて、わたしのところに時折学力がボロボロの生徒が駆け込んできたものでした。中には知能の高い生徒もいて、数学の理解力もある、それなのに点数は低い、さらに英語は中1の知識もあやふやなどひどい生徒ばかりでした。これだけ成績が酷くなっても塾を止めなかったのは、仲間に会えるのが楽しいだからなのだそうです。子どもが嫌がらず楽しく通えるので親も特に気にすることもなかったというのです。

 サピックスや早稲アカなどの進学塾では、難関をねらう子たちには、きちんとカリキュラムを組み、難しい問題にも挑戦させていかなければ合格はとれない。それでどうしても落ちこぼれというのは出てくる。これは中学入試の日能研や四谷大塚でも同じことがいえる。しかし、エナや栄光などは低学年のときから落ちこぼれを出すような、商売にならないことはやらないのだろう。かつて栄光に子どもを通わせているという母親が、「別に、今の塾で困っていることはない。授業もよくわかるし、土曜テストもいい成績をとっている」と言うようなことを言っていたことがあるが、それならなぜ竹の会にわざわざ見学にきたのか、なにかしら不安があったからではないか、とも思ったけれど、それよりもみんながみんな授業が「わかる」というのが、奇異なことではないか。集団授業では、必ず授業がわからないという子が出るのが、世の現実ではないか。易しい問題、例題を真似して解けば解ける問題、そういう問題ばかりやっていたらどうなるか、だれでもできる問題ばかりやって「できる」と喜んでいる脳天気な親子がうようよいるわけです。小6になって、中3になって、帳尻が合わなくなるのは目に見えている。問題なのは、思考力を培うべきもっとも大切な時期にぬるま湯に浸かってきたという取り返しのつかない惨劇だ。中学なら高校受験というものをなめすぎている。

 わたしがいつも腹立たしく思うのは、大手を止めて竹の会にきたときに、そういう子たちの学力を見て、唖然、愕然とし、いったい大手というのは何を1年も、2年も教えてきたのか、ということである。親御さんには「大手に行かせているから安心だ」という甘い認識があったのかもしれない。しかし、計算も満足にできない、割合のなんたるかも理解しないままに、1年を費やすことの損失は計り知れないものがある。この時期にこそ培わなければいけない思考というものを、放置した代償はあまりにも大きい。

 小学校でもかなり成績のいい子や中学でも成績上位にある生徒というのが、竹の会に何かの縁でやってきて、最初に「悟る」のが、自分が「できる」と思っていた根拠の崩壊であるかもしれない。竹の会のレジュメ指導でこれまでの自信がなんの根拠もないことを悟る、利口な子、生徒はそれを「悟る」ものである。平成25年に白鷗に合格した女子は、小6の9月に竹の会にやってきて、彼女のお母さんの言によれば、「目からウロコが落ちるようであった」ということになる。わたしはあえてそういうことは言わないできたけれど、他塾から竹の会にきた生徒や児童の多くの親たちが、竹の会のスゴさをメールや手紙でわたしに寄せてきた。それは入会した親たちの中から例外を探すのに苦労するほど、竹の会を賞賛する内容に満ちていた。

 竹の会という塾はそういう塾なのだ、と思っている。

 さて、今日のテーマは、勉強の指針というものである。多くのみなさんが、教科書を与えられて「受け身」で読んでいる、そういうことへの警鐘である。脳を受け身のままに流すというのは、脳には楽なことなのかもしれない。教科書と言ったけれど、授業も受け身で流すだけ、参考書、問題集もということである。そもそも「受け身」というところがいけない。脳の活性化ということがなにもない。大手塾に通っているみなさんは、たいていは講師の授業を受け身で聞き流し、言われたこと、黒板に書かれたことをノートにとり、といったようなことをやっているのでしょう。そしてそれを復習するということなのかと思います。

 勉強というのは、積極的な脳のはたらきが大切ということである。よくプラス思考とマイナス思考ということが言われるけれど、これと文脈は同じに考えてもらってかまわない。

 歴史でも地理でもいい、教科書を読むとき、まず知識というものが初めて知ることばかりですんなりと頭に入っていかないのは当然でしょう。それで2回か3回読んで書かれてあることを理解することにまずつとめることになります。さらにまじめな人はこの内容をノートにまとめることを試みるかもしれない。かつて代々木中学や上原中学の子たちを教えてきた経験では、理科や社会のできる生徒というのは、この教科書をノートにまとめる、ということを必ずやっていた。箇条書きに教科書を読みながらまとめるという子もいれば、テーマごとにまとめるとか、いろいろいた。そういうことをやって今度はそのノートを何回も読んで覚えることをしていた。こういうやりかたが「できる」生徒の最も定番のやりかたなのかと思う。

 さて、ここで積極的に脳をはたらかせることを考えてみよう。もし学校の先生がテストに出すとしたら「どこ」を出すだろう、こう考えるところから積極的な思考は始まる。わたしなら「どう」出すか、「どのように」出すか、例えば、ここで「理由を尋ねる」かもしれないなど頭をはたらかせるところは尽きない。教科書を知識を積極的に再構成する脳のはたらきである。わたしなら関連するこういうところも問題にするかもしれないとか、どうもはっきりしないので、重要な語を虫食いにした問題を作ってみようとか、理由を3つ書かせてみようとか、原因を尋ねてみようとか、背景を尋ねてみようとか、アイデアは尽きない。地理なら、白地図問題を作ったりもする。

 今はチャレンジとか、進研ゼミとかなんとかが便利な図や表を駆使して、しかもカラフルなまとめを作ってくれている。そういう便利なものをただ与えられるだけで受け身の地位で利用するだけの勉強が何を育てるのかということである。自分で苦労して工夫しながらまとめる楽しみも知らないで、他人の作った、よくできたまとめばかりを追い求める勉強でいいのかということである。

 受け身の精神を常とする生活は、うまくいかないことはすべて運命と受け入れる無意思の体質を、そして人生を余儀なくさせることであろう。人生というのは、脳のプラス方向のはたらきをこそ活性化させてこそいい方向へ自分が進むことになるのだということを知ってほしい。

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